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Contemporary writings Senior High

教科書下部3番の問題についてです。私は黒文字のように考えたのですが、答えは青文字の方でした。私が書いてしまった答えはなぜ違うのでしょうか?教えていただきたいです。

とは何か』で、日本 を見 ドナルド・キーンも同様に「モノクロームの美 学習のねらい 筆者が主張する科学と技術の違いを対比的に整理し、現状における科学と技術の関係を理解する。 いけうち 池内 「文化」としての科学 文化と文明の意味や違いについては、昔から多くの論争が行われてきた。西洋では、 学問・宗教・芸術など 生活に関わるものを ■」、生産過程・経済行動・流通や 移動方法など人間の物質的所産に関わるものを <明」と呼ぶのが普通のようである。 その立場をとるなら、科学は文化の諸相の中核を成し、技術は文明の基礎と言うことが できるだろう。 文化の諸相とは、文化を構成するものそれぞれが価値を持ち、それぞれに意味があっ 多様性・多重性があることを意味する。その意味で、科学は文化の多様性・多重性 を彩るうえで重要な役割を果たすのである。これに対し、農業文明、工業文明、情報文 明というように、文明は段階的に質が変化し、それに応じた独自の形態をとっていく。 社会の基幹部を成す産業構造が文明の形態を特徴づけるのだが、その基礎的な部分を構n 成するのが技術である。技術は物質にはたらきかけることによって文明の質を変化させ 「文化」としての科学 さとる 「その ういう

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Japanese history Senior High

教えてください🙏

●第1問 次の系図Aを参照し、下の問いに答えよ。 (2016 法政大・改) 問1 空欄1の人物は、漢詩文にA 大友皇子- 優れ, 「東大和上東征伝」を 著した。 この人物名を答えよ。 ひ ほん 問2 空欄2の人物は、謀反の疑 いをかけられて、以下の詩を 残している。 この詩の出典名 と、この人物名を答えよ。 ① 天智 (2 ―天武 3 -持統 O -刑部親王 -舎人親王 -高市皇子 ・草壁皇子 ⑤ 9 淳仁 3 吉備内親王 5 文武 ⑨ 4 Ⓡ ⑩ 藤原不比等一宮子 孝謙(称徳) PREVER 16日 武 ①~⑩は皇位継承の順番 うなが せんろひんしゅ ゆうべ さが 泉路賓主無し 此の夕家を離りて向かふ。 きん う せいじゃ。 て 金鳥西舎に臨らひ 鼓声短命を催す 問3 図Bの製作を命じた人物を系図Aより選べ。 また、図Bの内部には何がB 納められたか。 問4 空欄3に入る、政争で命を落とした人物の名を答えよ。 問5 系図A中のある人物が記述した、 持統朝までの歴史書は何天皇に献上さ れたか。また、その天皇が入るのは空欄4・5のどちらか答えよ。 問6 空欄6に入る人物名を答えよ。 また, この人物が聖武太 上天皇の遺愛品を納めた場所を,図Cのa~c から一つ選 問7 この系図の時代は 「女帝の世紀」 とも呼ばれたが, 女帝が多数存在している理由を 当時の政治情勢を踏まえて80字以内で説明せよ。 第2問 図Dの存在意義を、次の文章を参考にして60字以内で述べよ。 (2014 北海道大・改) 図D と同様の ( 1 ) は藤原宮跡でも発見されており,その中には「九D 月廿六日薗職進大豆川口」 と記されている。この文は、ある年の9月26日に そののつかさ 「薗職」という役所が大豆を進上したことを示している。菌職は,令で定めら れた官制になく, また 『続日本紀』 などの文献にも見られないため、飛鳥浄 御原令の頃に存在した役所だったのではないかと推測されている。 えんちし えんこ また律令制下では,薗職の呼び名に似た「園池司」という役所が設けられ、 天皇の食膳に充てる野菜や魚鳥などの生産を担当した。 よって, 薗職が園池司の前身である と仮定すれば、藤原宮跡出土の(1)に記された大豆は、天皇の食膳のために進上され た可能性が指摘できる。なお,園池司には「園戸」と呼ばれる品部が所属していたため,薗 職にも園戸のような人々が属し, ( 1 ) に記された大豆も彼らが栽培した可能性が考え られる。律令制の施行以後、国家財政は公民が負担する租税によって支えられたが、皇室の 財政には特定の人々が奉仕する旧来の伝統的な制度で運営する仕組みも残されたのだ。 問1 問2 問3 問4 5 問6 問7 ポテンシャル日本史 17 健奈良・平安

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Japanese history Senior High

答えが分からないので教えてください

9 10 8 11 12 14 15 16 13 17 18 6 7 5 |本朝 (皇朝) 十二銭の一つ。 7世紀の富本銭に続いて、 1708年武蔵国より銅が献 上されたことで鋳造した。」 都からの使者や官人が. 使用する馬などを配備し た宿泊・休憩施設。 3 [条坊制」 東西南北を基盤目状に |区分した制度。 平城宮 1 2 うまかい 武智麻呂・房・孕谷・ まろ 麻呂の4兄弟。 藤原氏の 系譜である南家・北家・ 式家・京家の祖となった。 裏や、政務・儀礼を行っ だいごくでん ちょうどうい た大極殿 朝堂院, 官庁 が置かれた場所のこと。 4 14 だい 天皇の生活の場である内 V 原始・古代 平城京と政権の動揺 次の文の空欄にあてはまる語句を答えよ。 618 年, 唐は中国を統一して, アジアに大帝国を建設した。 A やくしん 国際都市として躍進した唐の都 ( 1 ) に, 日本は遣唐使 を派遣して多くの留学生や学問僧が渡航し、唐の先進的な (1) 710年, 藤原京から平城京に遷都して奈良時代を迎えた。 じょう 図Bの平城京図をみると、唐の都 ( 1 ) を参考にした条 政治制度・文化を日本にもたらした。 しかし、唐への渡航は そうなん 遭難が多く, 地図Aのような安全な北路で渡航したが,新羅 との関係悪化のために, 8世紀には危険な南路をとらざるを ひんぱん 得なかった。一方で,中国東北部の ( 2 ) とは使節の往来を頻繁に行い, 国交を結んだ。 B 平城宮 ぼうせい 坊制をもつ都市で、 中央を南北に走る ( 3 )を軸に東の 左京 西の右京にわけられ, 北部中央に平城宮が配置されて いたとわかる。 大安寺・薬師寺などの寺院も建立され,左京・ いちのつかさ 右京には市司が管理した官営の市が設置され、産物の売買が 唐 三条大路 四条大路 五条大路 六条大 一条北大路 西大寺・ 一条南大路 二条大路 七条大路 八条大路 九条大 さくぼう し、不比等の子である藤原四子の策謀で、当時左大臣であった 元正 4 ( 8 )を自殺に追い込み, 光明子を皇后に立てて政権を担 たちばなのもろえ 当した。 藤原四子の病死後, 皇族出身の 橘諸兄が( 9 ) きびのまきび んぼう の下で政権を担当し,唐から帰国した吉備真備と玄肪を起用し た。この起用に反発した ( 10 ) が九州で反乱をおこした が鎮圧され、この社会不安に (9) は恭仁京→ 難波宮→ なにわのみや しがらきのみや ちんごこっかしそう 紫香楽宮と遷都を繰り返し, 仏教の鎮護国家思想による国家 (13) (9) 北路 (12) 夫右 MILLI 京町 こくぶんじ こんりゅう ぞうりゅう 安定を図ろうと、国分寺建立の詔と 大仏造立の詔を出した。光 5" わどうかいちん(ほう) 行われた。物品の売買は, b 京畿内では和同開珎 の銭貨 が使用されたが,それ以外の地域ではなかなか流通しなかっ た。また,平城宮跡で発見された( 4 )により,身分による居住区分や宮廷生活の内容が 解明されている。 地方では、中央から派遣された国司が ( 5 )を拠点として地方政治を行い, かんどう えきろ 七道に沿って整備された官道(駅路)により中央と結ばれた。 そして, この官道には約16km 22 藤原 四兄弟 橘諸兄 坊坊坊坊 大大大 08 南路 230675 711 うまや ぐんけ ぐん ごとに駅家を設ける駅制を敷いた。さらに、地方豪族から任命された郡司が統治した郡家(郡 でんろ。 衙)が置かれ,伝路により国庁と結んで地方を統治し, 律令国家の形成を実現したのである。 また、支配が及んでいなかった東北地方の ( 6 ) の制圧にも乗り出し, 7世紀半ばに 旦 本海側に拠点を設けたのちに, 8世紀には太平洋側にも城柵や (5)を置いて軍事的な制 じょうさく はやと さつま おおすみ 圧を進めた。九州では、 南九州の隼人を制圧し、薩摩国・大隅国を設置して統治を進めていった。 (2) 1 西市 ふじわらのふひと 8世紀初頭、藤原未等は大宝律令や ( 7 )の編纂の中心となって律令制度を確立し, 藤原 仲麻呂 年 天皇家と密接に結びついて藤原氏の政界進出を築いた。 不比等天皇政権 の死後は、右の年表のように皇族と藤原氏が交互に政権を担当 元明 不比等 710 平塚京港郡 文武 701 大宝律令の完成 藤原 708 和同開珎の鋳造 することになり、皇族の(8) が右大臣に就任した。 しか 718 (7) の完成 大字 卍興福寺 元興寺 P2 大五六七 坊坊坊 大大 佐 20 CE 東市 坊坊坊坊 (8) 723 三世身法 AUSS 729 (8) の変 政治の内容 722 百万町歩開墾計画 | 光明子が皇后となる 740 九州で (10) の乱が発生 741 国分寺建立の詔 743 (15) の発布 大仏造立の詔 752 大仏開眼供養 757 (7)を施行 (11) の変 758 恵美押勝の名を賜る 764 恵美押勝の乱 766 道鏡が法王となる 769 宇佐八幡神託事件 藤原 770 道を左遷 百川ら かいげんくよう 平城京再遷都後は奈良で大仏造立を続け, 孝謙天皇時に大仏開眼供養を盛大に行った。藤原仲 こうみょうこうたいごう だて 麻呂が光明皇太后の後ろ盾で権力を握ると、橘諸兄の子 ( 11 ) が政変をおこすが失敗し, えみのおしかつ たまわ のちに即位した( 12 )から恵美押勝の名を賜って、権力を独占した。 しかし ( 12 )

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Geography Junior High

ひとつも分かりません!教えてください🙏🙇‍♀️😭

4 ギリシャとローマの文明 学習課題 : ギリシャやローマでは、 どのような文明が生まれたのだろうか。 <ギリシャ文明> . □ギリシャには、紀元前8世紀ごろから 【① 各地にできて古代文明が生まれた。 】 とよばれる都市国家が 地中海沿岸のギリシャは海上交通に適した土地で、 紀元前3000年ころにオリエ ントから 【② 】 が伝わった。 ・多くのポリスでは、中心に神殿や広場がつくられ、 戦時に兵士として戦う成年 】 が行われた。 】 の労働で成り立っていた。 男性の市民による民会が物事を決める 【③ 市民の生活は、 所有する農地の収穫や 【④ □紀元前5世紀ころに 【⑤ No. _】 は最盛期を迎え、 人間中心の明るく 合理的で自由な文化が栄えた。 】や数学、 人々の感情を動かす 】 や彫刻が発達した。 ・その繁栄の中で、 真理を追究する 【⑥ 文学や演劇、 調和的な美を求める 【⑦ このころ、紀元前6世紀にオリエントを征服した東方のペルシャが、ギリシャ に侵攻したとき 【⑧ 】やスパルタなどのポリスは協力して撃退した。 <ヘレニズム> ・ギリシャでアテネやスパルタなどの有力ポリスが勢力を争い、 戦争を繰り返して いる間に、北方の 【⑨ 】 が軍事力を高め、 紀元前4世紀に南下 してギリシャを支配した。 ・マケドニア王になった 【⑩ ペルシャを征服し、 インダス川にまで広がる大帝国を築いた。 【⑩ 伝わった。 <ローマ帝国の繁栄> _】 は、東に遠征してエジプトや □ここから、ギリシャ文化とオリエント文化を融合する動きが起こり、これを 】 といい、 その文化はのちにインドや中国、日本にも ロイタリア半島の中部では、ラテン人によって都市国家の 【⑩ された。 ・ギリシャ文化の影響を受けたローマは紀元前6世紀に貴族による 【⑩3 となり、のちに平民の男性にも参政権を認めた。 領土の拡大を進め、 紀元前1世紀には 【⑩ ・しかし、相次ぐ戦争で国内は混乱し、戦争で功績のあった 【 ⑩5 武力で混乱をしずめて独裁権力をにぎった。 ・カエサルが暗殺されると養子のオクタウィアヌスが皇帝になり、 【⑩6 が成立した。 ローマ帝国は高度な 【 ⑩ (コロッセオ) や浴場を建設した。 首都 【 ⑩8 続いた。 】 が建設 】一帯を支配した。 】 】が 】を持ち、各地に道路や水道、 または闘技場 】を中心に、帝国の成立から約200年間にわたって繁栄が ・ローマでは実用的な文化が発展し、 改良された 【19 】 やローマ法、 ローマ宝 はヨーロッパじゅうに広まり、 帝国滅亡後も長く用いられた。 わからん? なぜだ? どうして?

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World history Senior High

③苦行 ⑷ガンダーラ美術 で答え合ってますか?

句を答えなさい 。 P.36~37 参照 ① 山脈、南はインド洋, 世界をつくっている。 からなり、南部は ④ 域は, ヒンドークシュ さまざまな民族や文化が ■アジア世界との海を ⑤ カイバル 点×1) P.38~41 参照 栄えた。 このインダ をあたえた。 なさい。 印章類にみられる牛 インド・ヨーロッパ 民の系統 (②) は 充域に進出し、農耕 モンを頂点とする この身分制度 (③), なさい。 ニャイナ教の祖 (⑤) モン教の何を批判 のを、次から一つ ゴ」 と答えなさい。 答えなさい 前100年ごろカイバル峠を越えて南アジア世界に侵入したアーリヤ人は、雷,火, 風, 太陽などの自然力を神としてあがめた。 これらの神々への賛歌を集めた最古の 1である。 アーリヤ人の宗教心は社会規範を特色とするバラモン教を生 ① ものが むが,他方で宇宙と自我の根本原理を追求した思素的な ② も生んだ。 前6~前5 世紀, 形式主義 ・ 権威主義的バラモン教の教えを批判して、 現世の苦悩からの解放 である解脱(げだつ) を目指す思想が生まれた。 ヴァルダマーナは徹底した禁欲・ 不殺生などの苦行を特色とする ③ を始めた。 ガウタマシッダールタは, 教は数百年にわたって南アジアに広まり, 東南アジア, 中国,朝鮮半島をへて日本 にも伝わったが,やがて, バラモン教が各地の民間信仰と結びついて教義が整えら ④を否定し八正道をおこなうことによって解脱できるとする仏教を説いた。 仏 れた⑤にとってかわれた。 (1) 仏教はマウリヤ朝のアショーカ王によって保護され, 教典の編集もおこなわれ、 整備された。 この教典整備事業は何とよばれるか答えなさい。 (2)(1)のころスリランカに伝来し、そこを拠点に東南アジアに広まった仏教を何と よぶか答えなさい。 (3) クシャーナ朝時代には(2) の仏教に対抗し、万人の救済を目的とする仏教がおこ るが,それを何仏教とよぶか答えなさい。 (4) 初期の仏教では偶像は禁止されていたが,ギリシア美術の影響を受けて北西イ ンドで, ギリシア彫刻の強い影響が見られる仏像が生まれ, (3) と結びついて広ま った。 この美術は何とよばれるか答えなさい。 (5) グプタ朝になると, 仏像はインド化されグプタ様式の仏像が生まれる。このこ ろ, インド中西部の断崖に造営された仏教寺院で, グプタ様式の代表的壁画が見 られる石窟寺院は何か答えなさい。 ① リグ・ヴェーダ ② ウパニシャッド哲学 (5 ヒンドゥー教 4 ヴァルナ (2) 上座部仏教 (3) 大乗仏教 (1) 仏典結集 (5) アジャンター確窟寺院 (4) べた文の空欄①~⑤に,適語を答えなさい。

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Contemporary writings Senior High

山崎正和さんの、水の東西という作品です。 傍線部分の、「そういうこと」とは、どういうことか教えていただきたいです。

SURB! O そののちにや、良秀がよち 山崎正和 水の東西 「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌のなかに、なんとなく人生のけだるさのようなものを感じることがある。 かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、や がて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気にとけて水受けが跳ね上がるとき、竹 が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。 見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし 何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも 引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせきと め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。 私はこの「おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介され るなかで、あの素朴な竹の響きが西洋人の心を魅きつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに 忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聴くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴 水の方が、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。 流れる水と、噴き上げる水。 そういえばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場にはいたるところにみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に 行けば、噴水はさまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という 噴水の群れが庭をぎっしりと埋めつくしていた。樹木も草花もここではそえものにすぎず、壮大な水の造型が轟きながら林 立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音をたてて空間 に静止しているように見えた。 時間的な水と、空間的な水。 そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統のなかに噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘 って水を見ることはあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代にいたるまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の 都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜け て、表情に乏しいのである。 西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発 達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そ ういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮した りねじまげたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。 言うまでもなく、水にはそれ自体として定まったかたちはない。そうして、かたちがないということについて、おそらく 日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむ しろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、かたちなきも のを恐れない心の現れではなかっただろうか。 見えない水と、目に見える水。 もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。た だ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本 人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。

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