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Japanese Junior High

これの3段落目はどこですか?

さくらさくらさくら わら 俵万智 和歌の世界では、「花」といえばすなわち桜のことを指す。歌人たちに多くの名歌 を詠ませてきたという点において、桜はまさにナンバーワンの花、堂々たる名花だ。 最近では、さまざまな輸入花を見ることができるし、かつてないほど洗練され たバラの花や蘭の花を手に入れることもできる。 シクラメンやポインセチアなど、 季節の風物詩として定着したものもある。が、そんな中にあっても、桜だけは別 格という気がする。何というか、「花」という言葉ではくくりきれない、存在そ のものが果てしない広がりを持った、誠に不可思議なもの――、 それが桜だ。 けれど桜に対する思い入れは、日本人独特のもののようだ。以前、デンマーク の高校で、日本の古典について話をする機会があった。 言葉は古くなっても、そ の心情においては現代の私たちが大いに共感できるものがある、というようなこ 5 とを述べ、その例として、『源氏物語』に描かれた「人を恋する気持ち」や 勢物語』に出てくる「桜への思い入れ」などを挙げた。 3 『 初 むら 紫 4『 『源氏物語』のほうは、デンマークの若い人たちにも分かりやすかったようだ。 が、桜のほうは、どうもぴんとこないという顔をしている。 年の 年 あわらなりひら 例えば、と私は、在原業平の次の歌を挙げた。 55 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 6こきん 『伊勢物語』に登場する和歌で、『古今和歌集』にも収められている有名な作品 である。 「春になると私たちは、もうすぐ桜が咲くなあとわくわくし、早く咲かないか なあとイライラもし、咲けば咲いたでうきうきする一方、風や雨で散ることを心。 配し、散り始めるとがっかりしてしまう......。 本当に桜というのは私たちの心を 振り回すもの。この世に桜というものがなければ、春の心はどんなにかのんびり と穏やかなものであろうか――、という逆説的な言い方で、桜のすばらしさと存 在感をたたえているんですね。 6 年 5 ++ 油 我ながらうまく説明できたと思ったのだけれど、学生たちはぽかんとしている。B 12

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1.点としての意味、面としての意味とはそれぞれどういう意味か 2、異なる言語は世界を異なる仕方で分節するとはどういうことか 3、言葉の意味を知っているとはどういうことか 4、辞書の定義を覚えていて多肢選択問題では正しく選べるという意味の知り方と実際にその言葉を使える知り方と... Read More

色の世界 してとらえたときでは先日よ 理 ・と考えているから。 P 空間・集合体 言葉は世界を切り分ける 荻原 今井むつみ 私たちは母語である日本語で、膨大な語彙を持っていて何万もの言葉を知っていて、 それらの言葉の大半を実際に使い、人と会話をしたり、文章を理解したり、書いたりして いる。しかし、「言葉(単語)の意味を知っている。」ということはどういうことなのだろ うか。「知っている」 言葉は必ず実際にコミュニケーションで使えるのだろうか。 実際に使うために言葉について何を知らなければならないかということは、母語より も外国語のことを考えたほうが分かりやすいかもしれない。 外国語では言葉を自在に 使ってコミュニケーションを取ることは難しい。 多くの人は、それは「知っている言葉」 が少なすぎるからだと考える。 外国語の習熟度の測定では、辞書の語義を与え、多肢選 択の形で複数の語の候補から語義に合うものを選ぶという形式のテストが一般的だ。正 しい選択肢が選べれば解答者はその単語を「知っている」と判断されるわけてある。しか し、語彙数が多ければ外国語が使えるというわけではない。日本人には外国語の難しい 文献を読むことができても、話したり書いたりするのは苦手という人がとても多い。そ の原因はほとんど、辞書に書いてある語の意味を覚えていても、語の使い方が理解でき 母語 問題提起 辞書に書いている単語 「その単語を「知ってい辞書に る」」とは、ここではどう いうことか。 「」がついている ↓ ある鍋の ていないことにある。ては、辞書の定義を覚えていて多肢選択問題では正しく選べるとひと口に畑ているとても程宜 いう意味の知り方と、実際にその言葉を「使える知り方」は何が違うのだろうか。 界 すた の差があり実に本質的な理 解には至っていな合があ るという問題点を読者に示 る。 色で具体的に例えている言葉を知ることは「点」ではなく「面」である 前者の知り方は「点としての意味」を知るだけだが、実際に言葉を使うためには「面」 としての意味を知らなければならないのである。単語の意味は単語単体では決まらず、 それぞれの意味領域の中に属する一群の関連する単語どうしの間の関係の中で決まる。 色の名前を例に考えてみよう。色は光の連続スペクトルであり、私たちの目には電磁 波のうち三八〇ナノメートルから七八〇ナノメートルの波長の範囲でさまざまな色彩が 連続して映っている。色は色相、彩度(鮮やかさ)、明度(明るさ)という三つの属性で 物理的に数値として表すことができる。私たちの目は何万もの「物理的に違う色」を識別 できるが、それらの「違う色」をごく少数のカテゴリーに分節して名前を付け、分類を しているのである。トマトの色、消防車の色、イチゴの色はそれぞれ物理的には異なる 色であるが、私たちは皆「赤」と呼ぶ。 つまり、「赤」という言葉は特定の物の色、つま リスペクトルの中の点を指すわけではなく、連続スペクトルの中の特定の範囲を指す。 そしてその範囲は「赤」を取り囲む色の名前が指す範囲との関係によって決まるのであ 一つ一つの単語の意味を学ぶということは、単語が属する概念領域全体のマップの中 その単語の位置付けを学び、更に領域の中で隣接する他の単語とどう違うのかを理解 し、他の単語との意味範囲の境界を理解することにほかならない。 これは母語でも外国 語でも同じである。 母語と外国語の意味領域が同じように切り分けられていて、母語の 単語と外国語の単語が同じ範囲できれいに対応するのなら、外国語を学習する時には、 ほんちゅう 範疇。 ②色は光のスペクトル こ こていうスペクトルとは波 長の分布のこと。可視光線 をプリズム(分光器) て分 解すると、紫から赤までの 切れ目のない連続した波長 (色)として表れることを いう。 ③色相 他の色と区別する ための色の特質。赤み、黄 み、青みなど。 ④カテゴリー 同じ性質の ものが含まれる範囲。 範囲 それぞれの点が持っている 意味のつながり 2切り分けると言う そいぞれの言葉の でも言

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言葉は世界を切り分ける を今やっています。 この文章のテストを解いたことがある方、どのような問題が出ると予想されるか教えてください! また、この文章に出てくる「点」と「面」とは何かとテストで聞かれた場合、どう答えたら良いでしょうか? また、p3の2行目の「異なる言語は世界を... Read More

言葉は世界を切り分ける 今井むつ 私たちは母語である日本語で、膨大な語彙を持っていて何万もの言葉を知っていて、 それらの言葉の大半を実際に使い、人と会話をしたり、文章を理解したり、書いたりして いる。しかし、「言葉(単語)の意味を知っている。」ということはどういうことなのだろ 「うか。「知っている」言葉は必ず実際にコミュニケーションで使えるのだろうか。 母語 D ●題提起 実際に使うために言葉について何を知らなければならないかということは、母語より も外国語のことを考えたほうが分かりやすいかもしれない。外国語では言葉を自在に 使ってコミュニケーシェンのおかりやすいかもしれない、それは「知っている音楽」 辞書に書いてい が少なすぎるからだと考える。外国語の習熟度の測定では、辞書の語義を与え、多肢選 択の形で複数の語の候補から語義に合うものを選ぶという形式のテストが一般的だ。 正 しい選択肢が選べれば解答者はその単語を「知っている」と判断されるわけである。しか し、語彙数が多ければ外国語が使えるというわけではない。日本人には外国語の難しい 文献を読むことができても、話したり書いたりするのは苦手という人がとても多い。そ の原因はほとんど、辞書に書いてある語の意味を覚えていても、語の使い方が理解でき ていないことにある。では、辞書の定義を覚えていて多肢選択問題では正しく選べると いう意味の知り方と、実際にその言葉を「使える知り方」は何が違うのだろうか。 「その単語を「知ってい る』」とは、ここではどう いうことか。 る。 色で具体的に例えている言葉を知ることは「点」ではなく「面」である 前者の知り方は「点としての意味」を知るだけだが、実際に言葉を使うためには「面」 としての意味を知らなければならないのである。単語の意味は単語単体では決まらず、 @ それぞれの意味領域の中に属する一群の関連する単語どうしの間の関係の中で決まる。 色の名前を例に考えてみよう。色は光の連続スペクトルであり、私たちの目には電磁 波のうち三八〇ナノメートルから七八〇ナノメートルの波長の範囲でさまざまな色彩が 連続して映っている。色は色相、彩度(鮮やかさ)、明度(明るさ)という三つの属性で 物理的に数値として表すことができる。私たちの目は何万もの「物理的に違う色」を識別 てきるが、それらの「違う色」をごく少数のカテゴリーに分節して名前を付け、分類を しているのである。トマトの色、消防車の色、イチゴの色はそれぞれ物理的には異なる 色であるが、私たちは皆「赤」と呼ぶ。つまり、「赤」という言葉は特定の物の色、つま リスペクトルの中の点を指すわけではなく、連続スペクトルの中の特定の範囲を指す。 そしてその範囲は「赤」を取り囲む色の名前が指す範囲との関係によって決まるのであ 一つ一つの単語の意味を学ぶということは、単語が属する概念領域全体のマップの中 その単語の位置付けを学び、更に領域の中で隣接する他の単語とどう違うのかを理解 し、他の単語との意味範囲の境界を理解することにほかならない。 これは母語でも外国 語でも同じである。母語と外国語の意味領域が同じように切り分けられていて、母語の 単語と外国語の単語が同じ範囲できれいに対応するのなら、外国語を学習する時には、 はんちゅう ②色は光のスペクトル こ こていうスペクトルとは波 長の分布のこと。可視光線 プリズム(分光器) て分 解すると、紫から赤までの 切れ目のない連続した波長 (色)として表れることを いう。 ③色相 他の色と区別する ための色の特質。赤み、黄 み、青みなど。 カテゴリー 同じ性質の ものが含まれる範囲。 範疇。

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なぜこの答えだとダメなのか教えて欲しいです

「裸足で薊を踏んづける!」 少年時代、よく友達と遊んでいた原っぱの片隅に、美しい紫色の花の一群がありました。かなりの丈がある濃い緑色の 茎の先端に細い筒状の花びらがふわふわと広がっていて、それが春の風に揺れるのです。うまくすると、花の周囲を舞 アゲハチョウを捕まえることもできました。ただ、下手に触れるととげが刺さって、痛い思いをしたものです。 やがて、その花がアザミとよばれていることを私は知りました。漢字で書いたらどうなるのだろう。そう思って、花の 姿や名前の音にふさわしい文字の組み合わせを考えてみたのですが、なかなかうまくいかず、アザミはその後も、頭の中 片仮名の花として咲いていました。 ところが、ある日、それが「薊」という漢字になって、心に刻まれることになったのです。小学校を卒業した直後の春 休みだったでしょうか、町の図書館でたまたま手に取った宮沢賢治の本に、「種山ヶ原」と題された物語が収められてい ました。達二という名の主人公が、逃げ出した牛を山の中まで追っていく場面があって、そこにこんな一節が出てきたの です。 「ところがその道のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、オトコエシや、すてきに背高の薊の中で、二つにも三つ にも分かれてしまって、どれがどれやらいっこう分からなくなってしまいました。」 難しい表現は全く使われていません。詩のようにきらびやかな言葉もありません。それなのに、私はこの文章の不思議 な魅力に捕らわれてしまったのです。なぜ心ひかれるのか、最初はよく分かりませんでした。しかし、何度か読み返すう ち、この一文の光が、「すてきに背高の薊」という表現から発せられていることに気づいたのです。 「すてき」も「背高」も、個別には知っていた単語です。けれど、両者を組み合わせて、アザミのような花の上に載せ るなんて、想像したことさえありませんでした。「すばらしく背の高いアザミ」と書いても、意味としては変わらないで しょう。宮沢賢治はそれを短く刈り込んで、言葉に新しい響きを、つまり、これまでにない音楽を生み出してくれたので す。 それから長い時間がたって、高校生になったばかりの頃、私は再び書物の中で、漢字の「薊」に出会うことになりまし た。梶井基次郎の「闇の絵巻」と題された短編を読んだときのことです。真っ暗な闇の中に一歩を踏み出す勇気を、主人 はこんなたとえで表現していました。 私は呆然としました。裸足で薊を踏んづけるほどの勇気とは! 宮沢賢治の作品を通じて、アザミは明るい光の中では っきり目に見える紫色の、「すてきに背高の」、明るい陽のもとで映える花として心に刻まれていました。梶井基次郎は、 そこにもう一つ、まるで正反対の、闇に沈んだ見えない「薊」というイメージを付け加えてくれたのです。その見えない 色の、なんと鮮やかなことでしょう。おまけに、とげを踏み抜いた足の裏の感触まで生々しく伝わってくるようです。 少年の頃に私が見ていた野の花としてのアザミは、優れた二人の書き手の作品のおかげで、明と暗を持つ、言葉として の「薊」になりました。異なる文脈で出会ったことによって、「薊」は私の心の中で、より豊かな花に育っていったので す。 興味深いのは、言葉としての「薊」の色が深まるにつれて、原っぱに咲いている本物の「アザミ」も美しさを増してい ったことです。つまり、二つの「薊」は、世界の見方を変えてくれたのです。本を読み、言葉に触れ、言葉を育てていく 喜びは、こんなふうに、見慣れていた光景に新しい光が当てられる様子を、驚きをもって眺めることにあるのではないで しょうか。(「二つのアザミ」 堀江敏幸)

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なぜこのような答えになるのか教えて欲しいです

丑、次の文章を読 「裸足で薊を踏んづける!」 少年時代、よく友達と遊んでいた原っぱの片隅に、美しい紫色の花の一群がありました。 かなりの丈がある濃い緑色の 茎の先端に、細い筒状の花びらがふわふわと広がっていて、それが春の風に揺れるのです。うまくすると、花の周囲を舞 アゲハチョウを捕まえることもできました。ただ、下手に触れるととげが刺さって、痛い思いをしたものです。 やがて、その花がアザミとよばれていることを私は知りました。漢字で書いたらどうなるのだろう。そう思って、花の 姿や名前の音にふさわしい文字の組み合わせを考えてみたのですが、なかなかうまくいかず、アザミはその後も、頭の中 で片仮名の花として咲いていました。 ところが、ある日、それが「薊」という漢字になって、心に刻まれることになったのです。 小学校を卒業した直後の春 休みだったでしょうか、町の図書館でたまたま手に取った宮沢賢治の本に、「種山ヶ原」と題された物語が収められてい ました。達二という名の主人公が、逃げ出した牛を山の中まで追っていく場面があって、そこにこんな一節が出てきたの です。 「ところがその道のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、オトコエシや、すてきに背高の薊の中で、二つにも三つ にも分かれてしまって、どれがどれやらいっこう分からなくなってしまいました。」 難しい表現は全く使われていません。詩のようにきらびやかな言葉もありません。それなのに、私はこの文章の不思議 な魅力に捕らわれてしまったのです。なぜ心ひかれるのか、最初はよく分かりませんでした。しかし、何度か読み返すう ち、この一文の光が、「すてきに背高の薊」という表現から発せられていることに気づいたのです。 「すてき」も「背高」も、個別には知っていた単語です。けれど、両者を組み合わせて、アザミのような花の上に載せ るなんて、想像したことさえありませんでした。「すばらしく背の高いアザミ」と書いても、意味としては変わらないで しょう。宮沢賢治はそれを短く刈り込んで、言葉に新しい響きを、つまり、これまでにない音楽を生み出してくれたので す。 それから長い時間がたって、高校生になったばかりの頃、私は再び書物の中で、漢字の「薊」に出会うことになりまし た。梶井基次郎の「闇の絵巻」と題された短編を読んだときのことです。真っ暗な闇の中に一歩を踏み出す勇気を、主人 訟はこんなたとえで表現していました。 私は呆然としました。裸足で薊を踏んづけるほどの勇気とは! 宮沢賢治の作品を通じて、アザミは明るい光の中では っきり目に見える紫色の、「すてきに背高の」、明るい陽のもとで映える花として心に刻まれていました。梶井基次郎は、 そこにもう一つ、まるで正反対の、闇に沈んだ見えない「薊」というイメージを付け加えてくれたのです。その見えない 色の、なんと鮮やかなことでしょう。おまけに、とげを踏み抜いた足の裏の感触まで生々しく伝わってくるようです。 少年の頃に私が見ていた野の花としてのアザミは、優れた二人の書き手の作品のおかげで、明と暗を持つ、言葉として の「薊」になりました。異なる文脈で出会ったことによって、「薊」は私の心の中で、より豊かな花に育っていったので す。 興味深いのは、言葉としての「薊」の色が深まるにつれて、原っぱに咲いている本物の「アザミ」も美しさを増してい ったことです。つまり、二つの「薊」は、世界の見方を変えてくれたのです。本を読み、言葉に触れ、言葉を育てていく 喜びは、こんなふうに、見慣れていた光景に新しい光が当てられる様子を、驚きをもって眺めることにあるのではないで しょうか。(「二つのアザミ」 堀江敏幸)

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なぜ△なのか理由と正しい回答を教えて欲しいです

「裸足で薊を踏んづける!」 少年時代、よく友達と遊んでいた原っぱの片隅に、美しい紫色の花の一群がありました。 かなりの丈がある濃い緑色の 茎の先端に、細い筒状の花びらがふわふわと広がっていて、それが春の風に揺れるのです。うまくすると、花の周囲を舞 アゲハチョウを捕まえることもできました。ただ、下手に触れるととげが刺さって、痛い思いをしたものです。 やがて、その花がアザミとよばれていることを私は知りました。漢字で書いたらどうなるのだろう。そう思って、 姿や名前の音にふさわしい文字の組み合わせを考えてみたのですが、なかなかうまくいかず、アザミはその後も、頭の中 で片仮名の花として咲いていました。 ところが、ある日、それが「薊」という漢字になって、心に刻まれることになったのです。小学校を卒業した直後の春 休みだったでしょうか、町の図書館でたまたま手に取った宮沢賢治の本に、「種山ヶ原」と題された物語が収められてい ました。達二という名の主人公が、逃げ出した牛を山の中まで追っていく場面があって、そこにこんな一節が出てきたの です。 「ところがその道のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、オトコエシや、すてきに背高の薊の中で、二つにも三つ にも分かれてしまって、どれがどれやらいっこう分からなくなってしまいました。」 難しい表現は全く使われていません。詩のようにきらびやかな言葉もありません。それなのに、私はこの文章の不思議 な魅力に捕らわれてしまったのです。なぜ心ひかれるのか、最初はよく分かりませんでした。しかし、何度か読み返すう ち、この一文の光が、「すてきに背高の薊」という表現から発せられていることに気づいたのです。 「すてき」も「背高」も、個別には知っていた単語です。けれど、両者を組み合わせて、アザミのような花の上に載せ るなんて、想像したことさえありませんでした。「すばらしく背の高いアザミ」と書いても、意味としては変わらないで しょう。宮沢賢治はそれを短く刈り込んで、言葉に新しい響きを、つまり、これまでにない音楽を生み出してくれたので す。 それから長い時間がたって、高校生になったばかりの頃、私は再び書物の中で、漢字の「薊」に出会うことになりまし た。梶井基次郎の「闇の絵巻」と題された短編を読んだときのことです。真っ暗な闇の中に一歩を踏み出す勇気を、主人 訟はこんなたとえで表現していました。 私は呆然としました。裸足で薊を踏んづけるほどの勇気とは! 宮沢賢治の作品を通じて、アザミは明るい光の中では っきり目に見える紫色の、「すてきに背高の」、明るい陽のもとで映える花として心に刻まれていました。 梶井基次郎は、 そこにもう一つ、まるで正反対の、闇に沈んだ見えない「薊」というイメージを付け加えてくれたのです。その見えない 色の、なんと鮮やかなことでしょう。おまけに、とげを踏み抜いた足の裏の感触まで生々しく伝わってくるようです。 少年の頃に私が見ていた野の花としてのアザミは、優れた二人の書き手の作品のおかげで、明と暗を持つ、言葉として 「薊」になりました。異なる文脈で出会ったことによって、「薊」は私の心の中で、より豊かな花に育っていったので す。 興味深いのは、言葉としての「薊」の色が深まるにつれて、原っぱに咲いている本物の「アザミ」も美しさを増してい ったことです。つまり、二つの「薊」は、世界の見方を変えてくれたのです。本を読み、言葉に触れ、言葉を育てていく 喜びは、こんなふうに、見慣れていた光景に新しい光が当てられる様子を、驚きをもって眺めることにあるのではないで しょうか。(「二つのアザミ」 堀江敏幸)

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