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Contemporary writings Senior High

「線分A本末転倒なこととあるが、どういうことか30字以内で記せ」という問題で、回答が写真の通りなのですが、「日本の伝統である旬」なんて本文になくて、どうしてこの答えになるか教えてください🙇‍♀️ 私の回答は「食べ物にこだわりをもつ日本人が外国産のもので旬を楽しむこと」と書い... Read More

次の文章を読んで、後の問に答えよ。 【2-1】 [標準解答時間 10分] 日本人は、一般的には、神社仏閣、能や茶道など、古きよき日本の伝統が好きで、そ れを誇りに思っているのだが、その一方で、実生活では伝統などはお構いなしである。 まず、屈指の横文字カタカナパンラン社会であることを見、若者の言葉を聞けば、 国語における伝統の軽視は一目 リョウゼンである。古典としての言語の純粋性に対す る感度が、フランスなどに比べてきわめて低い。実際、現在の日本語は横文字カタカナ を抜きには成り立たなくなっている。年々大袈裟になるクリスマスのイルミネーション が終わると、正月には、依然として大勢の人が神社仏閣に初詣に行く。クリスマスまで はまだよいとして、最近は、ハロウィーンも定着しつつあるようだ。 その一方で、立春から大寒までの二十四節気にそった日本の伝統行事は、テレビの ニュースの枕詞である。 H また、食べ物に強いこだわりをもつ日本人は、旬にこだわるが、今は養殖、輸入、ハ ウス栽培などで、ほとんど一年中手に入る。イチゴもスイカも一年中あるといってよい。 二十四時間営業のコンビニが“ハンモするように、消費者が望むことなら、利便性の向 上のためならなんでもやる。アメリカに勝るともオトらない商業マインドである。こ うした高度消費者中心資本主義が、日本の一面としてすでに社会に根を下ろしている。 さらに最近では、ボジョレー・ヌーボーに始まり、イタリア産ポルチーニやトリュフ などといった外国産のもので旬を感じて楽しむといった本末転倒なことを国民挙げて 行なっている。 このように日本人は、古きよき伝統を重んじるという一方で、( を捨てて実をとるとも、軽薄とも、柔軟とも、いい加減とも、節操がないともいえるの 日本人の行動なのである。つまり、融通無碍でつかみどころがないのである。 ゆうずうむげ (注)融通無碍- つの考えにとらわれずに、柔軟に考えられること。 )。 固く が 5 5 10 ・状況や 名 によって変えないこと

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現代文、要約の問題について質問です。 要約の解答例(写真三枚目)中盤に [それが我々が〜なっている。] と書かれている場所があるのですが、 本文(写真一、二枚目)を読むと 一枚目最後の 「この明白な〜一つとなっている」 の箇所と「同時に」という言葉で 「私たちが〜にもなって... Read More

第4 例題 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。 私たちは、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚といった様々な感覚のモダリティを通して、 外界の様子や自らの身体の様子をつかみ取っている。それぞれの感覚のモダリティの中 では、モダリティ固有のクオリアが感じられている。 たとえば、赤のクオリアと緑のクオリア、金属光沢のクオリアはそれぞれユニークな 質感として意識の中で感じられるが、これらはまた全て「視覚」のモダリティに属する クオリアとして、明らかに共通の何かを持っているように感じられる。一方で、チョコ レートの甘さ、リンゴの甘酸っぱさ、唐辛子の辛さといったクオリアも、それぞれユニー クな質感として感じられるが、全ては「味覚」のクオリアとして何かしら共通の性質を 持っているように感じられる。 そして、「視覚」のクオリアと「味覚」のクオリアの間には双方を混同すべくもない 明らかな差があるように思われる。視覚でも、味覚でも、それぞれの感覚をつかさどる 脳の領域の神経細胞の一個一個には、基本的に差があるわけではない。それにもかかわ らず、神経細胞の間に結ばれる関係性を通して、まったく異なるクオリアが意識の中に 生み出される。この明白な事実は、脳と心の関係を考える上ではもっとも重要であると ともに、その背後にある原理を明らかにすることが難しい問題の一つとなっている。同 [標準解答時間25分]

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問9の解説お願いします🙏💦

20 ねばならない。 また、こ (解答番号は、第二間で【古文】 を選択した場合は1~現代文を選択した場合は1~25です。) 第一問 次の文章を読んで、1~問1)に答えよ。 少女が涙に濡れた。差し出し、言う。「ピッ」 それを見た少年が、え、雨なの、と空をアオぐ保証など、言語にはどこに ちない。少年が朝鮮を知らなければ何だって? 何て言ったの? どういう意味なの? と、いきなりことばそのもの が前面に立ち現れる ことになる。 www. ロサンゼルスでも、アルフ・アタでもどこでもよい。 英語とスペイン語でも、北京語 広東語でもよい。 秋田空港でタク シーに乗った高知からの運転士との会話でもよい。複数の言語が出会う言語場複数の言語が用いられている場では、こう したことは日常である。 「おそらくこういう意味だろう」というような意味の曖昧な実現の仕方も、まさに日常の出来事である。 ホテルのフロントで 交わされる会話に耳を傾けてみよう。そこがホテルのフロントであるという言語場の条件に支えられて、「おそらくこういう 意味だろう」解ってくれたようだ」といった仕方で、意味がかろうじて立ち現れている、そんなことは、今もおそらく二四時間、 世界中あちこちのホテルのフロントで起こっている。あちこちの場で起こっている。 ことばができあいの意味を有していて、 それをキャッチボールのようにやりとりするといった図式は、ホテルのフロントでも、国境の検問所でも、やはりBに過 この意味な実現というありようを見てゆくと、意味の鮮明な実現と意味の曖昧な実現の境界もまた、しばしばゆ やかなものであることがわかるであろう。意味の実現を考えるにあたって、この点はまた重要である。 「ことば常に多義的である」といった次元のことを述べているのではない。「ことばが常に多義的である」と それ自体として大きくってはいないものの、ことばが意味となる機制の結果を語っているに過ぎない。 ことばは 意味となったりならなかったりする、そしてそのなったり、ならなかったりという境界自体も、また原理的に固定し難いもの だという意味の実現の原理的なありようをここでは問題にしているのである。「多義性」とは、ことばが意味を持つものでは 意味なものであることの結果についての書学的なアプローチによる名づけである。「両義性」 や 「曖昧性」もま たにする。ついでに言えば、「それはまあ、なんて言うか、ちょっとあれですが」とか「これこれっていった感 ことばにする方式、意識的に表現を明瞭にする曖昧化といったことが、表現上の選択肢となり得ることも、 この度にある。 ことばは意味を持つ」と考えた。このことは言すると、ことばを「意味を持つ/持たない」という二項 対立の中に位置づけようとしていることに他ならない。実際の甘酒場において意味が立ち現れる、立ち現れないの際にあること レクがありま は、いくらでもある。そうした意味の「持つ/持たない」の二分法で切り分けようとすること自体が、生理の所行と言わ れがされたことば)であれ書かれたことばであれ、外形を有している。形が在る。形を有すること ばか何らかの意味を持つと見たくなるのは、素朴な意味論のように見えるけれども、実はソシュール言語学を決定的な淵源とす 現代である。 ことばがじないのは、青森方言や鹿児島方言のごとく、そもそもコードが異なるからだとか、意味を持つことばを 聞き手が知らないからだとか、あるいは するからだと考えた。こうした考えは全て、ことばは通じるものだ」という テーゼとして出発している。そうした前提に立って、 伝達の失敗とか意思ソツウがうまくゆかな いといったこと、じようとしてきた。あるいは「文字通りの意味」がまずあり、それが実際に用いられる段になると、「言 があると考えてきた。書かれたことばには「行間を読む」などという比喩もあった。「コミュ ニケーション」にあっては、ことばを「正しく」「正確に」用いることがしばしば語られた。さらにはことばが「文化」にまで める てきたのである。 あらかじ 拡大され、「異文化」というコードを知ること、「異文化理解」などといった考え方が喧伝されてきた。これら多くの考え方の中 で、大前提となる、同一言語コードの上で、即ち正しいコードの共有の上で、ことばの十全たる受け渡し、即ちことばの正しい キャッチボールさえ実現できれば、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテーゼ自体は揺るぎないものとして、保持され続け かも戻すた形がと ことばを「意味を持つ/持たない」という二項対立の中に措定しようとする限り、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテー ゼは動きようがない。ことばが意味を「持っている」なら、何かしらの外的な阻害条件が加わらない限り、 ことばは投げ与えら れたので、その意味は話し手から聞き手に「伝達」されることになってしまうからである。 言語学的な立場から情報通信理論の図式を提出している典型として、R・ヤコブソン『言語とメタ言語」を挙げることができ る。 「送り手」が「受け手」に対して「メッセージ」を送る。この「メッセージ」ということばも、なかなかに危ないことばで ある。同書では「場面」が強調されている。 送り手と受け手に完全に、もしくは部分的に共通した「コード」と、送り手と受け 手の物理的経路と心理的なつながりである「接触」が欠かせないとして、ヤコブソンはこうした六つの因子を挙げる。場面を強 調している点は首できるものの、送り手が受け手にメッセージをあるコードに従って送るといった考え方は、いかにも機械的、 図式的で、素朴な発想である。こうした機械的 図式的という非現実性は、ヤコブソンの論の隅々に通底する二項対立論がもた らすものである。もっと言えば、ソシュール以来の言語学、記号学、 構造主義が、共通して胚していた二項対立論の、謂わば 負の表れである。負の表れと言ったのは、二項対立論は、二〇世紀思想とまではゆかずとも、少なくとも二〇世紀言語学にあっ ては、長足の発展を基礎づけた、決定的な方法論の一つだったからであり、負の結果と同時に巨大な正の成果も招来してきたか らである。 ジュリア・クリステヴァのような言説の中にも、送り手が「受け手=解読者」にメッセージを送るという、こうした図式が入 り込んでいる。 「伝達される意味」などということばに頼れているように、送られる「タッセージ」はそこでは事実上、意味を 持っていると考えられている。 クリステヴァが「受け手=解読者は、聞こえることを言える範囲でのみ解読する」と言うとき、 「送り手」における意味と、「受け手」における意味という、少なくとも二種の意味があり得ることを掘り下げる、一歩手前まで 来ているのにも拘わらず、どうしても意味を持った「メッセージ」を伝達するという観念から、抜け出ることができないでいる。 「送り手」がある意味をメッセージとして込める、その「メッセージ」を受け手が自ら「言える範囲でのみ」 解読するというク リステヴァの図式においては、やはり「ことばは意味を持っている」 という前提が揺るがない。J・J・カッツ「言語と哲学」 にも似たような考えが見える。 実のところ、送られるのは、一定の意味を持った イッセージなどではなく、一度は音声とい う形で意味から自由になったことばなのである。 ヤコブソンなどのこうしたコード論に立って、意味が実現しないと言っても、それは異なったコード間での出来事ではないか、 エンコード (encode) したのと同じ code でデコード (decode) していないのだから、と反論するのは、見苦しい言い訳に過ぎ ない。その言語観は、まるで数理的な体系でもあるかのような、コードなるものを幻想する以前に、コードなど成立しない言語 場を予めはっきりと理論的に位置づけ得ていただろうか? あるいは一瞬でも考えただろうか? 繰り返すが、 ことばが意 味となったりならなかったりする、あるいはかろうじて意味となる、それは私たちにとって日常であり、世界にとって自然で ある。言語にとっては存在のありかたそのものなのである。そうした事態がその言語観の中に鮮明に位置をシめていないのであ れば、言語の実現のリアリティの大きな前提が、その言語観においては予め切り捨てられている、ないしは隠蔽されていること になる。「ことばが通じる」という事態よりも「通じたり通じなかったりする」ことが先に、あるいは、より深いところにある がゆえに、その深いところにある前提を除外した時点で、その言語観は少なくとももう今日の理論としては失格である。 言語学 としてもヒソウであり、言語教育にあっては、余計に罪深い。ことばが通じない悲しみを背負わぬ言語教育など、信じられるだ ろうか? 百歩譲って、コード論者の言い分を一旦、受け入れてみてもよい。そうしたコード論を理論的に成立させるためには、少なく とも次の二つの本質的な部分を解決せねばならない。 第一に、異なった言語の間だけではなく、実はいわゆる同じ言語の話し手の間でも、つまり同じコードの間でも、ことばが意 24一般入試A問題

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演繹的な推論のの答え教えて貰いたいです🙇🏻‍♀️՞

都市がもつ市場的な行害を 3 交通のネットワークが都市をゾーンへと分割したために、権力支配は停滞し、経済効率は低下することとなった 4 時間は標準時を、空間は地図を基準とした社会的な指標となり、組織や地域を統合して都市を変貌させていった 5 情報化による統治にともなって都市開発が進められ、都市内部で労働や教育を管理する指標が多様化していった 七傍線部C 演繹的な推論 とあるが、その具体例として最も適当なものを次の選択肢の中から一つ選び、その番号を なさい。 「この小説の主人公は友人に嫉妬心を強く抱いているので、後の展開では報復に出て自分の恨みを晴らすだろう」 2 「この絵の画家は当時の社会情勢に反発していたので、絵に描かれた自然は作者の逃避願望を反映したものだろう 3 「この小説の作者は幼少時に戦争を経験しているので、その体験が影響して平和運動に力を注いでいたのだろう」 4 「この絵には繊細な色や筆遣いが認められるので、描いた画家はきっと写実的な手法を好んで使っていたのだろう」 5 「この小説の作者はどの作品にも耽美的な文体を用いているので、今後も情緒的な作風の小説を発表するだろう」

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左のページで6行目の波線部の意味がわかりません。教えてください。

199 面東 3 Global つまり地球(globe) 規模的、世界的、という言葉が使われるようになって久しい。 通信や交通の技術の大革新により、地球が一つの村のような共同体になった、として global village (地球村)などというマーシャル·マクルーハンの一九六○年代の用語が、 それこそ世界的に広く知られるようになった。二十一世紀に入った今でも本当にそれほど 全人類が「一体化」しているのかどうかは別としても、この用語は現代用語として広く一 般的に使われている。 そもそもグローバル化(globalization)とは、どのような現象をさしているのだろうか。 専門家の間でも絶対的な合意があるわけではないが、少しまとめてみよう。グローバル化 とは、一方では、世界の共通性の促進、普遍化への動きという側面を持っていると考えら れている。 たとえば、もともと西洋の発明にしかすぎなかった披家的な概念である時間(同じ速度 で厳密に前に進んでいるものという考え方)が世界の標準となっている。本来、時間とい 洋 の発 うものはそれぞれの地域(空間)に結びついていて、各地域にそれぞれの時間概念が存在 していたか、鉄道その他の交通手段の発達によって、あらゆる地域が共通の統一された時 間を持つことが必要となった。人類学者エバンズ=プリチャードが示しているアフリカの 牧畜民ヌアー族の「牛時間」などを見ると、元来、時質といみものが、それぞれの地域の り 人間の具体的活動そのものの反映であり、いわば地域文化の一部としての存在であって、 現在世界中で採用されているような、何物からも独立した抽象的存在ではないことがわか また、資本主義のルールが世界のほぼ全域を覆い、貨幣経済の原理(あらゆるものの交一 換が可能であるとする考え)は常識化してきた。貨幣経済化以前の伝統的な社会では、交一 換できるものと交換してはならないものを明確に区別していた。そのような社会と比較す " ると、私たち現代人がいかに無節操にどのようなものでも売買·交換の対象にしているか を知ることができる。 さらに、メディアや交通手段の革命的な発展によって、異国の文化·社会事情も容易に 5くニ 「く 一般大衆の耳目にライブで届くようになった。ハリウッド映画の人気の高いものは、世界 ×ニ 中で上映され、人気スターはあらゆる国境の壁を越えて世界中にファンを獲得して久しい。5 ミ ミュージシャンなども同様である。日本発のァニメやテレビゲームもまた、近年世界中の で 若者の心をつかんでいたりする。 リう 「グローバル化」の中の異文化理解

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この文章は何を言いたいのかわかりません。 わかる方ご教授お願いします🤲

【@ - 3】 【標準解答時間 12分) 次の文章を読んで、後の問に答えよ。 オリンピックが近づくとメディア(とくにテレビのスポーツ番組)の騒々しさにうん ざりする。「あと○○日」という言葉を聞くとなにを堀っている のだと思ってしまう。 このような語り方は少なくともヨーロッパでは経験したことがない。 私はスポーッを現代社会の重要な大衆文化の一つと考えているし、そんな観点から一 冊の本を書いたことがある。 ースポーッは孤立した聖域ではありえない のだ。テレビの s ジャーナリストたちも、今の世界でなにが起こっているかを認識していないはずはない。 テロと戦争、国内的にだって連日のように暴力的な事件が起こっているではないか。だ しっくtい からこそオリンピックのような平和な祝祭が必要だということだろうか。そんなことを 本気で考えている のではなく、ほとんど建前として繰り返しているにすぎない。パトリ オット。ミサイルが会場のまわりに配備され、真偽のほどは分からぬが、ガスマスクを持っ" ていく選手団もいるという話まで伝わってくると、オリンピックが世界平和にコウケー ンするなど戯れ言のように聞こえてしまう。 しかしオリンピックはまもなく行われる。現地の市民にとって迷惑な状況なの か、歓 迎すべきことなのかは情報不足で分からない。たったひとつ今からでも期待できるのは 選り抜きのアスリートたちが力を出しきって記録や勝負に挑む姿だろう。それはスリリ 5 ングでもあれば、美しくもある。これは本質的には個人の争いなのだ。不思議なことに 多くの人間が応援するのは自国の選手なのである。 ている人間の自然なのかもしれない。だがそれがメダル、 これはメディアを介して選手を知っ の丸、君が代とエスカレー てくると、もう無邪気だと見逃すことはできない。思想の自由を確信する学校の教 員たちが教育委員会からどのような締め付けにあっているかをわれわれは知っている。" この,インケンさに比べて、メディアが「日の丸、君が代」と言い募るのは余りにも楽 天的ではないか。 (多木浩二「オリンピックの憂愛機」)

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