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World history Senior High

滅満興漢という語が出てきて意味がよく分からないので教えてください

ばいしょう しはら アヘン戦争の費用や賠償金の支払いで、 清の人々に重税 太平天国と アロー戦争が課せられると、各地で反乱や暴動が発生した。そのなか 10 う こうしゅうぜん が だとう かん 1814-64 QR で、キリスト教の影響を受けた洪秀全が挙兵し、 太平天国を建てた。滅満 たいへいてんごく めつまん 1851~64 15 15 興漢(清朝打倒・漢人王朝の復興)、土地の均分などを唱えた太平天国は、 せんりょう 民衆の支持を得て拡大し、 南京を占領して中国南部を勢力下に置いた。 ねら 太平天国に苦戦する清に対して、 イギリスはさらなる利権拡大を狙い、 おちい てんしん フランスと共にアロー戦争を起こした。危機に陥った清は、天津条約を結 1856~60 ひじゅん せんとう び英仏と講和した。 しかし、批准使節が攻撃された英仏は戦闘を再開し、 巻末 こうふく ペキン 60年に清は降伏した。 英仏はより有利な条件で北京条約を結ぶと、 太平 ちんあつ かんりょう りこうしょう 天国の鎮圧に協力した。 また、 漢人官僚の李鴻章などが郷里で組織した義勇 きょうゆう 7QR 軍 (郷勇) も各地で太平天国軍に勝利し、 64年に内乱は終結した。 天津・北 20 京条約では、 11 港の開港、キリスト教の布教、 外国公使の北京駐在など 6 こうにん ちゅうざい が認められ、 またアヘン貿易も公認された。 対欧米外交の重要性を認識し 日本 もさく た清は、欧米との外交体制を整備し、 制度や文物の導入も模索していった。 p.75

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この問題の解説お願いしたいです🙏

問9 下線部(ク)に関して、次の史料2は醍醐寺の満済の日記のなかで、応永の外寇につ いて記された部分である。 史料2のなかに 「蒙古の舟」の語がみられるが,これは誤り と考えられており、この時期には日本と明の関係が悪化していたため、異国襲来に関し て不確かな情報が飛び交っていた。このことに関連して、この時期に室町幕府がとって いた対明政策について、将軍の名を明らかにしながら、その政策を習った理由を含めて 30字以内で説明せよ。 H 史料 2 足利は期 (応永二十六年八月) 七日。 今日、仰せに依りて下の御所(注1)に参る。 ・・・暫く御雑 上義之最中、九州少弐方より、飛脚口進之在り。其の状に云ふ、蒙古の舟, 先陣五百余輹, - 対馬の津に押し寄す。 少弐代宗右衛門(注2)以下七百余騎馳せ向ひ, 度々合戦す。 口六 月二十六日終日相戦ひ、異国の者共, 悉く打ち負け、当座に於て, 大略打死し、或は 召し取る云々。 異国の大将両人を生取る。 種々白状之在り云々。 此の五百余艘は、悉く 高麗の国の者也云々。 (「満済准后日記』) (注1) 下の御所 三条坊門亭。 (注2) 少弐代宗右衛門: 少弐氏の代官宗右衛門。

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理由は何になるでしょうか?!

しん 3 に貿易を求めるイギリス (p.37, p.78) けんりゅうてい C イギリス使節に対する乾隆帝の返答 (1793年) マカオ てんちょう おもむ これまで、西洋各国およびなんじの国の商人は、天朝に赴いて貿易を おこなう際は、すべて澳門において互市 ②をおこなうことが長く続いて おり、すでに短期間で決まったものではなくなっている。 天朝は物産が 豊富で、足りないモノは何もなく、 よって外国貿易船の貨物に依存する ことはなく、国内で有るモノ無いモノを融通できる。 しかし天朝で産す ゆうずう ひつじゅひん いそん じき けんし る茶葉・磁器・絹糸が西洋各国およびなんじの国の必需品であることに かんが あわ めぐ ようこう 鑑み、恩を加え哀れ恵み、 澳門において洋行 を開設し、日々の消費物 ③ はいりょ きょうじゅ 資にも配慮し、利益を享受できるようにしてやったのだ。 今、 なんじの 国の使者が定まったきまりをこえた多くのことを要求したことは、 遠来 おんけい ししゅう いこ あお の客人に恩恵を加え、 四周の夷国を大切に育む天朝の姿勢を仰ぎ見て従 うという、 本来あるべき態度とかけはなれている。 ①清 ② 清が設けた国際貿易場での貿易 ③外国人経営の商店 歴史学研究会編『世界史史料4』 岩波書店をもとに作 もりぞ、 資料C を読み、 皇帝は使節の要求をどのような理由で退けた か、二つ理由をあげてみよう。

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なんで伽耶は560何年かに滅んでるのに、遣隋使600年に送った目的は蚊帳への影響力強めるためなんですか?

権は、この唐の国の強大な政治体制を取り入れて統一国家を形成し ていくのですが、 それは第4章でお話しします。 天皇 蘇我氏 推古 馬子 外交など 政治 ①593年 厩戸王が政務を代 行 ②603年 冠位十二階 (1)個人に与えられる冠位 (2)昇進も可能 ③604年 憲法十七条 役人の心得 ④607年 遣隋使の派遣 (1) 小野妹子を派遣 (2)中国皇帝に臣属しない形 式をとった ⑤ 618年 隋の滅亡 →唐の建国 ここが 実力アップ講義 ポイント 遣隋使、 600年にも行ってるよ ➡P.0632-A 5、6世紀の中国は南北朝時代でしたが、 589年に隋が中国を統一します。 隋という国は北朝からできた国で、日本との交流はありませんでしたが、 ヤ マト政権は遣隋使を派遣します。 _ずいしょ 最初の遣隋使は600年に派遣されたということが、 中国の歴史書 「隋書」 国伝に記されています。 この600年の遣隋使の目的は、日本が新羅を攻 めるのに際して、隋を味方につけようとしたためだといわれています。日 本は加耶への影響力を再び強めるために、新羅を攻めようとしていました。 その時に隋を味方につけたかったのですが、隋は新羅を敵に回したくなか ったので、拒否されたといわれています。 いもこ 次の遣隋使は607年のことで、 小野妹子が派遣されました。 小野妹子は ょうだい 隋の皇帝であった煬帝に会い、国書を提出しました。 その国書が、 中国皇帝 に属しない形式をとっていたため、煬帝は怒ります。 しかし、当時、隋は 国境を接していた高句麗と対立していました。 隋としては、高句麗と対抗 小野妹子 小野 朝 では と呼ばれた。翌608年 として再び 渡った。 市を本拠とする。 冠位十二階の5番 なって国 際 するためには、ヤマト政権を味方につけておきた かったのです。ですから、隋は翌年、答礼使として 清を日本に派遣しました。 608年に裴世清が帰国する際には、小野妹子と こんなのじょうあん しませ 天子にす.... 生き見する処の 小野妹子 ともに高向玄理・南淵請安・旻らが同行します。 高向玄理が留学生で、 南淵請安と旻が学問僧です。 南淵請安はお坊さんぽくない名前ですが、お坊さ んです。 彼らは、隋唐のすぐれた制度や技術を学 び、大化改新とその後の律令国家の形成に大きな役割を果たしました(P.088)。高 向玄理は、後に遣唐使として唐におもむきますが、唐で亡くなってしまいました。 山 蘇我氏滅亡 P.063表2-B 東進金谷本 11 煬帝 さて、いよいよ蘇我氏が滅んでいく段階です。 なぜ、あそこまで絶大な権 力を持っていた蘇我氏が滅んでいくのか? 今からそれを見ていきましょう。 じょめい けんとうし A まず、舒明天皇の時は、 蘇我馬子の子の蘇我蝦夷が権力を握ります。 こ この時の重要な出来事としては、遣唐使の派遣です。 日本は、618年に唐が 建国されると、さっそく、 630年には犬上御田鍬を遣唐使として派遣する のです。 遣唐使の目的は、 文物の流入でした。 き 641年、 舒明天皇が亡くなります。 次の天皇の最有力候補は、山背大兄 でした。 山背大兄王は厩戸王の子で、政治的にも非常に有能な人間だっ たといわれています。 つまり、家柄的にも能力的にも、最も次期天皇にふ さわしい人物だというわけです。 しかし、蘇我氏は山背大兄王を天皇には したくありませんでした。 なぜか? 3 蘇我氏の台頭と滅亡 それは、山背大兄王が天皇になると、 蘇我氏は自分の思い通りの政治が できなくなってしまうと考えたからです。蘇我氏にとっては、有能な天皇 075 7世紀 前半 ② 舒明天皇 蘇我蝦夷 犬上御田鍬 唐に派遣 (650) 握り! 074

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これだと蘇我氏が権力握った時期と書いているのに、聖徳太子が豪族を下にしたりとかしてるし、蘇我氏も豪族じゃないですか、、、蘇我氏聖徳太子より下じゃん、 権力握ってなくないですか?

第3章 蘇我氏の台頭と滅亡 第2部 蘇我氏の盛衰 7世紀 前半① 推古天皇 初の女性天皇 P.063表2-A 東進金谷本 9 厩戸王 冠位十二階 制定 (603) さあ、これから第2期に入ります。 第2期は、一言で表すと「蘇我 氏が政権を独占した時期」です。 第2期の最初の天皇は推古天皇 * です。 592年に即位します。 推 憲法十七条 古天皇は女性の天皇ということで、593年から甥にあたる厩戸 制定 (604) しょうとくたいし (聖徳太子)に政務を代行させたといわれています。つまり、推古天 小野妹子ら皇の時代は、厩戸王と、権力者である蘇我馬子による二人三脚の政 製 朝鮮 厩戸王の政治は、内政と外交という2つの側面から見ていくと良 に派遣 (607) 治であったと考えられています。 高向玄理ら 隋に派遣 (608) いです。 隋滅亡、 唐建国 (618) していくことにな かん いじゅうにかい けんぼうじゅうしちじょう まず、内政から。 内政は2つ、 冠位十二階と憲法十七条です。 冠位十二階によって、今まで一族単位で与えていた冠位 (身分) を、位として個人単位で与えるようにし、昇進も可能としました。 603年のことです。 また、翌604年には憲法十七条を出して、 豪族に対して役人とし ての自覚を求めます。「豪族は役人なのだから、天皇の言うことを 聞かなければいけない」と教えるわけです。 また、仏教を新しい政 治理念としました。 このように、豪族がヤマト政権に完全に服属していく体制をつく り上げていこうとしたのです。 ゆらのみや 推古天皇 日本最初の女帝。 欽明天皇の娘で母は蘇我稲目の娘。 敏達天皇の皇后となる。 崇峻天皇が暗殺さ れると、その年の末に即位。 はじめ飛鳥の豊浦宮におり、後に小墾田宮に移った。 628年に後継者を明確に 定めることなく世を去った。 おはだのみや 掘り! ■冠位十二階 603年に制 信・ ・義・智と 赤・黄・白・ ました。 皇室 存在だったの 下っ 智 ■憲法十七 604年に を示したも うことを重 次に外交 この遺隋 それは、「中 従来のよ 拡大してい ないで、 えるでしょ その後、 して、1世紀 とってかわられ 深掘り! 072

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もうすでに任那は磐井の乱の前に百済にあげちゃってるのに 磐井の乱で新羅が任那取ろうとしてて、日本も奪われたくない(自らの影響力がなくなってしまう)と書いてますが、日本は大伴があげちゃってるので奪われたくないとかなくないですか?

第3章 / 第1部 6世紀の政治 3 蘇我氏の台頭と滅亡 6世紀前期 のか?」ということですね。さっそく、そこからお話ししていきま |継体天皇 す。 大伴金村 加耶四県 百済 (512) 継体天皇と大伴氏 磐井の乱 (527) P.062表 1-A 東進金谷本 9 けいたい えちぜん 6世紀前期の主な天皇は、継体天皇です。 しかし、継体天皇は、自 分がまさか天皇になれるなんて思ってもいませんでした。 継体天皇 の実像は謎に包まれていますが、一説には天皇になる前は越前(福 井県)に住んでいたといわれています。天皇の親戚ではありました が、非常に遠い親戚だったため、天皇候補とはまったく無縁の生活 をしていたようです。 しかし6世紀初頭に、 武烈天皇が亡く なります。 武烈天皇には後継者がいませ んでした。 このままでは、 天皇家は断 絶、つまり終わってしまうかもしれない という危機に直面します。 その時、 大伴 かなむら 村 金村* が越前から後の継体天皇を連れて きて、 天皇の地位につけたのです。 ド うむ。 継体天皇にとっては、大伴金村のおかげで天皇になれたわけで す。 ですから当然、 大伴金村を大事にします。 天皇家としても、天 皇家が断絶してしまうかもしれない危機が救われたわけですから、 大伴金村を大事にしないわけにはいきません。その結果、大伴金村 は絶大な権力を握ることになったのです。 大伴金村が絶大な権力の持ち主だったことを象徴する事件。 それ かや よんけん くだらかつじょう が、12年の加耶四県の百済割譲です。 朝鮮半島南部の加耶が日本 と密接な関係にあったのは、 第2章でやりましたね。 あ、ちなみに ごうぞく *大伴金村:5世紀末~6世紀前半ごろのヤマト政権の豪族。 「日本書紀」によると、武烈・ 継体・安閑 おおむらじ きんめい。 欽明各天皇の大連を務めた。 欽明朝に入ると蘇我氏の台頭などのために勢力を失 深掘 にほんしょき 『日本書紀』 では加耶諸国を総称して「任那」 って呼んでいました。 でも、今 「は「任那」といえば加耶の南部にあった国を指すことが多いです。ややこ しいですね。いずれにせよ、加耶は日本の影響力が大きく及んでいた地域 そんな日本が影響力を持っていた加耶南部 の地域を、朝鮮半島の百済にあげてしまった のです。これは、大伴金村の指示でおこなわ れたといわれています。 自分の意思で他国に 自国の勢力圏を譲ってしまうほどに、 大伴金 村の権力は強かったわけです。 ここには大き な賄賂が働いたともいわれています。 でした。 でも、そんな勝手なことをしていたら、ほかの豪族だって黙って見過ご すわけにはいきませんよね。 大伴金村は、540年にこの加耶四県割譲は失 おこし 「政だと物部尾輿らに批判されて失脚してしまいます。 なぜ、絶大な権力を 誇っていた大伴氏が、物部氏に批判されて失脚してしまったのか? それ は、とある事件が関係しています。 いわい 大伴氏の権力がかげりを見せることになった事件が、 527年の磐井の乱 * つくしのくにのみやつこ しらぎ です。 磐井は筑紫国造、 つまり九州の大豪族でした。 しかし、この磐井、 ヤマト政権に不満を持っていました。 九州の大豪族である自分が、 ヤマト 政権なんかに服属することは、面白くなかったわけです。 その磐井に目を つけたのが、朝鮮半島の新羅という国です。 新羅は、磐井に対して 「ヤマ ト政権に反乱をおこそうよ。 新羅も味方するから」 と磐井をそそのかすわ けです。それでは、 なぜ、新羅はこのように磐井をそそのかしたのでしょ うか? * 磐井の乱: 527年に近江毛野が6万の軍を率い、 加耶におもむき新羅に破られた南加羅・喙己呑を復興しようと 磐井が、新羅の賄賂を受け火・豊2国に勢力を張って毛野の軍を遮断したためおこった。物

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