ノートテキスト
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| 年数 14 1/5 出来事 オスマン帝国 |オスマン帝国は第2次ウィーン包囲失敗 1683年 |→軍事的後退 1699年 | カルロヴィッツ条約・ ... 墺にハンガリーなどを割譲 |ワッハーブ派がおこった →イスラーム教への回帰を説く ・・・アラビアの豪族サウード家と結ぶ ワッハーブ王国建国。 一時はアラビア半島の大半を支配 |オスマン帝国は衰退しつつあった →オスマン帝国の領土をめぐった国際問題 (東方問題) | ギリシア独立運動 A.C.18 半ば _A.C.18 後半 ロシアに敗れる→クリミア=ハン国併合を認める A.C.19 1821年 ↓ 1830年 1826年 1838年 1839年 1875年 1876年 1877年 1878年 英・仏・露が干渉 (東地中海をねらっていた) |オスマン帝国はギリシアの独立を承認 | イェニチェリ軍団解体など改革に着手 英土通商条約→関税関税自主権を失う、ヨーロッパ市場に組み込まれた アブデュルメジト1世はオスマン主義に基づき |タンジマート(西欧化改革)を始める ※オスマン主義・・ ・宗教や民族の差をなくし平等に権利を与える |税収はオスマン債務管理局の管理下におかれた →クリミア戦争での莫大な戦費以来、 借款を重ねた 財政が破綻 ※オスマン帝国憲法 (ミドハト憲法)発布 | オスマン主義に基づく国家建設を目指す ※オスマン帝国憲法・ ・大宰相ミドハト=パシャが起草 |露土戦争 アブデュルハミト2世は戦争を理由に憲法を停止 専制体制復活 |露土戦争に敗れたオスマン帝国 |→露とサン=ステファノ条約を結ぶ。 しかし、 英・墺は反対。 | ベルリン会議 ・ルーマニア セルビア・モンテネグロの独立 英 キプロスの占領と行政権を獲得 →ボスニア・ヘルツェゴビナの占領と行政権を獲得 エジプト ナポレオン(仏)によるエジプト遠征後の混乱 |→ムハンマド=アリー、 民衆の支持を得て総督に。 →ムハンマド=アリー朝を創始し、 富国強兵策を推進 オスマン帝国の求めに応じて、ワッハーブ王国を滅ぼす 1805年 1818年 1840年 しかし、ロンドン会議で認められたのはエジプト・スーダンの 総督職襲のみ。 1869年 レセップスによってスエズ運河が開通したが財政難に | ギリシア独立運動でオスマン帝国を支援し、 見返りにシリア領有を要求 →2度にわたりエジプト=トルコ戦争を起こした。
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1875年 A.C.18 末 1828年 1848年 |英首相ディズレーリはスエズ運河会社株を買収 →英の支配に反抗 「エジプト人のためのエジプト」 を掲げたウラービー運動が起こる。 しかし、英に鎮圧された。 イラン |ガージャール朝がイランに成立 都: テヘラン |南進してきた露との戦いに敗れた |→ トルコマンチャーイ条約を結ぶ . 南コーカサスの割譲 ・治外法権を認める |社会改革を唱えるバーブ教徒の乱が起こる →政府軍に鎮圧される アフガニスタン アフガニスタン→アフガン人による独立が維持されていた A.C.18 半ば以降 グレートゲームに巻き込まれた A. C. 19 ↓対抗 A.C.18 半ば 1757年 1763年 1765年 1767 (~99) 年 1775(~1818)年 A. C. 19 1813年 ↓ 1833年 1845年(~49年) 英と露による中央アジアでの覇権争い |露がアフガニスタンに接近すると英は2度にわたって アフガン戦争をおこす →アフガニスタンを保護国化 インド イギリス東インド会社はマドラス・ボンベイ・カルカッタに拠点を築く →インド洋交易を展開 |仏はマドラス近郊にポンンディシュリ、 | カルカッタ近郊にシャンデルナゴルを建設 南インドで英は仏とカーナティック戦争を展開 |プラッシーの戦い →英はベンガル太守と連合した仏を破る | パリ条約→インドにおける優位を確立 イギリス東インド会社はベンガル・ビハール・オリッサの徴税権を獲得 →ベンガル管区にザミンダーリー制という土地制度を適応 ザミンダール (地主)に土地所有を 認めるかわりに彼らから税を徴収 |マイソール戦争→英は南インドの支配権を獲得 |マラーター戦争→英はマラーター同盟を破ってデカン高原を獲得 |インド南部や西部ではライヤットワーリー制という地税徴収制度を適応 ・・・ライヤット (農民)に土地所有権を認めて 直接徴税 英自由貿易の要求が高まる |東インド会社の貿易独占廃止が実現 |東インド会社の商業活動停止が定められた 統治機関になった |シク戦争 英はパンジャーブ地方に支配を広げた インドのほぼ全域での支配権確立 ... 支配地域での一部は藩王国として間接統治 残りは直接統治 2/5
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1857年 1858年 1877年 |英に対するインド人の反感は※ジパーヒがおこしたインド大反乱を |機に爆発 →反乱軍はデリー城を占領し、 ムガル皇帝の統治復活を宣言 |※ジパーヒ・・・東インド会社の傭兵 皇帝が流刑 ムガル帝国滅亡 |東インド会社解散も命じられ、 | インドは本国政府の直接統治下におかれた インド帝国が成立。 ヴィクトリア女王が皇帝を兼任 . 司法体制の整備が進んだが、 英はインド人同士の対立を 3/5 A.C.18 半ば _A.C.18 末 1826年 つくり出す分割統治でインドを巧妙に支配 東南アジア |蘭→マタラム王国を滅ぼし、 ジャワ島の大半を支配 →強制栽培制度によって利益をあげた 輸出用作物を栽培させる制度 タイにラタナコーシン朝が成立 |マレー半島に進出した英 →ペナン・マラッカ シンガポールをあわせて 海峡植民地を成立させた |マレー連合州を結成させてマレー半島を支配 ↓ 1895年 1824(~86)年 |3回にわたるビルマ戦争 ↓ A. C. 19 A.C.19 初め A.C.19 半ば ↓しかし 1883年 1884年 ↓ 1885年 1887年 ↓ 1899年 A.C.19 後半 ↓ A. C. 18 →コンバウン朝を滅ぼし、 ビルマをインド帝国に編入 フィリピンに進出したスペインは住民を強制的にカトリックに改宗 欧米の求めに応じてマニラを正式に開港 | ベトナム 阮福暎がフランス人宣教師ピニョーの援助を受けて 阮朝を建てる 仏は軍事介入を始め、 ベトナム南部地域を奪った 劉永福が率いた黒旗軍が対抗 フエ条約でベトナムを保護国化 |清仏戦争 ・清がベトナムの宗主権を主張して派兵したことでおこった |天津条約で清は仏のベトナム保護権を承認 仏はカンボジアをあわせてフランス領インドシナ連邦を成立させ ハイノに総督府を設置 ラオスを編入 ラーマ4世は先進諸国との外交関係を樹立 | チュラロンコン(ラーマ5世)は英と仏の緩衝地帯という位置を巧みに利用 →タイの独立を継続 アヘン戦争と第2次アヘン戦争 | 清: 人口増を原因とする土地不足 農民の窮乏化と開墾による環境破壊 →新開地で白蓮教徒の乱が発生するなど社会不安が増加
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|貿易港を広州に限定していた清←英はマカートニーらを派遣し 自由貿易を求めた |銀の流出に悩む英は清とインドを結ぶ三角貿易を始める →目的: インド産アヘンの清への密貿易を拡大し、 銀の回収ををすること アヘンの輸入を禁止していた清は欽差大臣の株則徐らを派遣し アヘンを没収廃棄させた 4/5 1839年 ↓ 1840年 英はアヘン戦争を開始 ↓ 1842年 |南京条約・ 清は香港島の割譲 広州・上海・寧波・福州・原門の開港などを認めた ↓ 1843年 1844年 追加条約で英に領事裁判権と協定関税制(関税自主権の喪失)を認めた 米と望厦条約、 仏と黄埔条約を結ぶ →英と同様の権利を承認 |アロー号事件 1856年 これを口実に英仏両国に貿易拡大をねらい、 第2次アヘン戦争 (アロー戦争)をおこした ↓ 1858年 |北京条約・ 1860年 1861年 1858年 ↓ | いったん天津条約が結ばれたが清が批准を拒否 ⇒ 英仏軍は北京を占領し郊外の円明園を破壊 清は外国使節の北京常駐開港場の増加 キリスト教布教の自由などを認める 英に九竜半島先端部を割譲 清は外務省に当たる総理各国事務衙門を設置 |A.C.18 中頃から東アジア方面へ南大を進める露 →第2次アヘン戦争の混乱に乗じアイグン条約で 黒竜江 (アムール川以北)を獲得 |露清間の北京条約で沿海州を獲得し 1860年 | ウラジヴォストーク港に海軍基地を建設 1881年 →清との国境を有利に取り決めた 1851年 ↓ 1853年 1864年 露はイリ事件(1871) をきっかけにイリ条約を結ぶ 中央アジアのブハラ=ハン国ともにヴァ=ハン国を保護国に コーカンド=ハン国を併合 太平天国と洋務運動 | キリスト教の影響を受けた洪秀全が組織した上帝会 →広西で挙兵し太平天国を樹立させる →清朝打倒をめざし男女平等や土地の均分化を主張 北上し南京占領しここを首都においた |太平天国、 滅亡 |太平天国の鎮圧では清の正規軍機能× →曽国藩の調印後諸外国も清を支援し ゴートンら (英) が指揮する常勝軍も太平天国を追いつめた 滅亡
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↓ 5/5 | 太平天国鎮圧後の清 同治中興という安定期を迎えた この時期に曽国藩・ 李鴻章らの漢人官僚により、 西洋の学問の導入によっ て富国強兵をはかる※洋務運動が始まる ※洋務運動・ ... 西洋技術の利用をはかる中体西用がとなえられたが 整体変革には至らず、 改革は不徹底に終わった 朝鮮の開国と日清戦争 1853年 旧日本にペリー来航 ↓ 1854年 ・日米和親条約 ↓ ⇒開国 1858年 ・日米修好条約 1860年代 1868年 1869年 1874年 1875年 |欧米諸国が朝鮮に開国をせまる |江戸幕府による大政奉還を受けて明治政府が成立 |大日本帝国憲法発布 台湾出兵 |露と樺太・千島交換条約を結ぶ 1875年 旧日本は江華島事件をきっかけに朝鮮に開国をせまる ↓ 1876年 1879年 旧朝修好条規を結び、 釜山・仁川・ 元山を開港させる |琉球領有 日本政府は積極的に海外へ進出 当時の朝鮮内部 日本に接近する金玉均 急進改革派 清との関係維持を目指す閔氏 VS 保守派 ↓ 1824年 壬午軍乱 1884年 甲申政変 1894年 ↓ 内部対立が続き、 背後にいた日本と清の対立も深まった |東学信徒を中心に甲午農民戦争 (東学の乱) が起こる →日清両国が出兵し、 日清戦争が始まる 日本勝利 |下関条約で朝鮮の独立、 日本への遼東半島や台湾・澎湖諸島の割譲、 |賠償金の支払いが決まった 旧本は台湾に台湾総督府を設置し、 はじめて植民地経営を開始 1895年 ↓ 1896年 |三国干渉で遼東半島は清に返還された
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年数 ① 1/4 出来事 約7000万年前 約240万年前 約60万年前 約20万年前 |約9000年前 . サヘラントロプス→最古の化石骨 アウストラロピテクス →猿人 原人が出現→火や言語を使用 |新人が出現→埋葬の習慣もみられた | クロマニョン人などの新人が出現 →ラスコーなどの洞穴絵画を残した 農耕・牧畜が始まり、 磨製石器や土器が使用された メソポタミア 前2700年頃 B.C.24 B. C. 19 ↓ B.C.18 B.C.16 |民族系統不明のシュメール人 →ウル・ウルクなどの都市国家を建設 アッカド人 (セム語系)はシュメール人の都市国家を次々に征服 |アムル人 (セム語系)がバビロン第1王朝を建設 |ハンムラビ王の時代に全メソポタミアを統一 →ハンムラビ法典 「目には目を」の復讐法と身分法の原則に立っている | ヒッタイト人(インド=ヨーロッパ語系) は鉄製武器を用いて | メソポタミアに侵入し、 バビロン第1王朝を滅ぼす。 ・南部: カッシート人が支配 北部: ミタンニ王国が建設される 楔形文字・・・粘土板に記録された。 ローソリンによって解読される 太陰暦や六十進数など実用的な学問が発達 エジプト 「エジプトはナイルのたまもの」 ・・・ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉 |ファラオと呼ばれた王を中心に統一国家が形成された |古王国 ・都 : メンフィス 前3000年頃 前2682~前2181年頃 クフ王らはギザにピラミッドを建設 前2040~前1786年頃 |中王国 都:テーベ ↓ B.C.18 |遊牧民ヒクソスが侵入し、 中王国を滅ぼす | 一時エジプトを支配 |前1570~前1070年頃 新王国・・・ ラムセス2世のとき最盛期 B.C.14 前1286年頃 ↓ B.C.11 半ば |アメンヘテプ4世 →・アテン神の進行を強制 ・都をテーベからテル=エル=アルマナに移す この時期のエジプト →写実的なアマルナ美術が誕生 |カデシュの戦い ... ラメス2世はシリア方面に進出して、ヒッタイト人と抗争 | 海の民の攻撃を受け衰退 →滅亡
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地中海東岸 | 海の民の活動によりエジプトやヒッタイト人の勢力が後退 | 地中海東岸ではセム語系民族が活躍 |アラム人→ダマスクスを中心に内陸貿易で活躍 | フェニキア人 →・シドン・ティルスを中心に地中海貿易で活躍 ・カルタゴなどを建設 B.C.12 頃 B.C.11 半ば頃 B.C.13 頃 →ヘブライ人がモーセに率いられエジプトを脱した ↓ |パレスチナに統一国家ヘブライ王国を建設 ・フェニキア文字... アルファベットの起源 |出エジプト 2/4 B.C.10 頃 ↓ 前922年頃 前586年 ↓ 前538年 →ダヴィデ王・ソロモン王の頃に最盛期を迎える |北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂 ユダ王国が新バビロニアに征服される バビロン捕囚 住民のヘブライ人がバビロンに連行されて捕囚になった |アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを滅ぼしたときに |解放された →帰国後、イェルサレムにヤハウェ神殿を建設し、 ユダヤ教を確立させた | ギリシア東岸に成立 エーゲ文明 クレタ文明・・・クノッソス宮殿を中心に栄えた エヴァンズによって発掘された B.C.20~ |ミケーネ文明 ・ミケーネなどに築かれた B.C.16~ シュリーマンによって発掘された 線文字B→ヴェントリスによって解読 オリエント →全オリエントを統一し、都をニネヴェにおく B.C.7 前半 アッシリア王国 ↓ 前612年 |服属民の反乱で王国が崩壊 →メソポタミアの新バビロニア、 アナトリアのリディア、 イラン高原のメディア、 エジプトの4王国が分立 リディア→最古の金属貨幣が使用された 南アジアの古代文明 | インダス文明が成立 | インダス川の中・下流域に栄えた青銅器文明 . 中流のハラッパー 前2600年頃 . 下流のモエンジョ=ダーロ 前1500年頃 ↓ 前1000年頃 →優れた都市計画に基づいてつくられていた ・インダス文字が使われていた 現在も解読されていない アーリヤ人がカイバル峠を通ってパンジャーブ地方に進入 |ガンジス川流域へと移動し、 定住農耕社会を形成
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3/4 前800年頃 1877年 前5千年紀 前3千年紀 |鉄器の使用が始まり、 農業生産力や軍事力が上昇 →ヴァルナ制が成立 ・・・バラモン(司祭)、 クシャトリヤ (武士)、 ヴァイシャ (庶民)、 シュードラ (隷属民) | ヴァルナ制+※ジャーティ | カースト制度形成 ※ジャーティ・・・職業をもとにした社会階層 |インド帝国が成立。 ヴィクトリア女王が皇帝を兼任 司法体制の整備が進んだが、 英はインド人同士の対立を つくり出す分割統治でインドを巧妙に支配 中国文明 黄河中流域で仰韶文化がみられた →彩文土器(彩陶) を特徴とする新石器文化 長江下流域では河姆渡遺跡に代表される稲作を基盤とした 新石器文化が栄えた |遼東半島から長江下流域に至る広い範囲で 竜山文化がみられた →黒陶 (黒色磨研土器)を特徴とする新石器文化 殷と周 |黄河中・下流域には邑という城郭都市が成立 夏... 伝説上最初の王朝 |現在実在が確認できる最古の王朝は殷 殷を倒した周→都を渭水流域の鎬京において華北を支配 周辺民族に鎬京を攻略され都を洛邑に移した 前2千年 B.C.11 頃 前770年 前770年~ ※戦国時代・ A.C.5 後半 前221年 |前213年 前206年 前202年 前154年 前139年 前111年 春秋戦国時代 |春秋時代・ 有力諸侯が覇者として「尊王攘夷」を掲げて勢力を争った 諸国間の秩序が崩壊し、戦国時代が始まった ・秦・楚・斉・燕・趙・韓という 戦国の七雄が天下を争った 各国が富国強兵を実施 ⇒ 実力本位の時代 秦 |戦国時代に新制度を取り入れて強国化した秦 →秦王の政のもとで都の咸陽を中心に中国を統一 始皇帝は全国に郡県制を実施して中央集権を進めた 始皇帝は焚書・坑儒という思想統制策を実施 | 始皇帝の急激な統一政策に対する不満 →中国史上最初の農民反乱と言われる陳勝・ 呉広の乱などの反乱を 引きおこし、秦は滅亡 漢 (前漢) |秦末に始まった項羽との抗争に勝利した劉邦 (高祖)は漢(前漢)を創始 |都 : 長安 当初は郡県制をと封建制を併合した郡国制が実施されていたが、 呉楚七国の乱をきっかけに実質的に郡県制へ移行した |第7代の武帝は張騫を大月氏に派遣 (目的: 匈奴挟撃) →タリム盆地一帯まで勢力をのばした |衛氏朝鮮を滅ぼしたあと朝鮮半島に楽浪など4郡を設置したほか、 南の南越国も滅ぼした
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後8年 |武帝の死後、宦官外戚の争いが激化するなか、 外戚の王莽は皇帝を廃位し、 ※新を建国 ※新・・ ・周代の政治の復活を目指したが実情に合わなかった 豪族たちの反発をまねき、 赤眉の乱などをきっかけに滅亡 後漢 25年 都:洛陽 A.C.1 末 A.C.2 半ば A.C.2 後半 ↓ 184年 ↓ 220年 [後漢滅亡 劉秀(光武帝)は豪族を率いて漢を再興 (後漢 ) 光武帝は倭人の使者に 「漢委奴国王」 の金印を与えた |西域都護に任命された班超は部下を大秦国(ローマ)へ派遣 |大秦王安敦の使者が日南郡に来航 |後漢の宮廷で宦官が官僚や学スアを弾圧した党錮の禁がおこった |宗教結社の太平道の信者を中心とした黄巾の乱がおこった →後漢の権威は完全に失墜 中南米の先住民文明 ~前1200年頃 |メキシコ湾岸地域にはオルメカ文明が成立していた 前1000年頃 A.C.4~9 |アンデス高地にはチャビン文化が成立した A.C.14~16 A.C.15~16 |ユカタン半島にはマヤ文明が栄えた |メキシコ中央高原にアステカ王国が栄えた |都:テノチティトラン アンデス高地にインカ帝国が栄えた ・・キープによる記録を残したことで知られる 4/4
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