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キューバ危機 1962年10月、 ケネディ大統領はミサイル資 材を運搬するソ連貨物船をキ ューバ近海の公海上で封鎖す ることを決定した。 写真は米 軍機がソ連船を監視する様子。 はんにゅう 材搬入を海上封鎖によって阻止し、米ソ間の緊張が一気に高 まった(キューバ危機)。しかし、核戦争の可能性を前に両国 かんしょう だ きょう 首脳は妥協に転じ、合衆国のキューバ内政への不干渉と引き かえに、ソ連がミサイル基地を撤去する合意が成立した。 こ れ以後、米ソ両国は緊張緩和に転換して、両国首脳間を結ぶ 直通通信回線 (ホットライン)も敷設された。 かわ てんかん せつ キューバ危機をきっかけに、米・ソをはじめとする国際社 会は、核兵器制限に取り組みはじめた。 1963年には米・英・ ソが、部分的核実験禁止条約(地下を除く核実験禁止条約)に調印した。 さらに68年には、核拡散防止条約(NPT) が62カ国により調印された。核 19 拡散防止条約は、すでに核保有国となっていた米・ソ・英・仏・中以外 かせん の国が、新たに核を保有することを禁じたもので、5大国による寡古と 引きかえに、核の拡散を防止するねらいがあった。 69年からは、米ソ両 国間で第1次戦略兵器制限交渉 (SALTI)が始まった。 ソルト ベトナム戦争 解放戦線のゲリラ戦に苦しむ米軍は、 解放 「安全への逃避」 1965年に報道写真家の沢田教一(1936~70) によ 戦線側とみなされた村落を焼き払うなどの焦土戦術をとっ って撮影された、ベトナム戦争の戦火を逃れるために川を渡る母子 て現地民の反感をまねき、国際世論からも批判された。 の写真。 戦を展開し、 近代兵器で武装した米軍に粘り強く対抗し どろぬま ムに派遣したが、戦局は泥沼化する一方だった。 ベトナム戦争に対して国際世論は批判を高め、アメリ よろん カ合衆国の世論も二分された。 1968年、合衆国は北爆を →p.334 中華人民共和国 トンキン事件 (1964年8月) トンキン はけん た。68年までに合衆国は約50万人の地上兵力を南ベトナ ベトナム民主 共和国 ビルマ ホン ハノイ ラオス [北ベトナム ・ヴィエンチャン タイ 15 停止し、北ベトナム側とパリで和平交渉に入った。日本 では、沖縄の米軍基地がベトナム戦争に利用されていた ことへの批判が高まり、 72(昭和47)年に沖縄の返還が実 現したものの、広大な米軍基地は残った。73年にはベト ホーチミン=ルート 1970 米政権 1975 ポル=ポト政権 カンボジア 200km プノンペン 南ベトナム解放 民族戦線の てったい 南ベトナムから撤退させた。 75年、北ベトナム軍と解放 ゲリラ中心地 AV 赤色クメールの 「勢力範囲 米軍による北爆開始 1965年2月) ドンポイ ジュネーヴ休戦協定 による境界線 (1954年7月) 北緯17度線 フェ 南シナ海 南ベトナム クイニョン ベトナム国 (1949~55) ベトナム共和国 (1955~75) 2 サイゴン(ホーチミン) サイゴン陥落 ベトナム戦争終結 ダナン ロビエンホア 戦線はサイゴン (現ホーチミン)を占領し、 翌76年に南北 を統一したベトナム社会主義共和国が成立した。 (1975年4月) ■アメリカ軍基地 ベトナム戦争 げんしゅ カンボジアでは、1970年にクーデタでシハヌーク元首を追放した親米 --p.320 Khmer Rouge ●第1次で戦略核兵器のミサ イル配備数の凍結、 1972年か くだんとう らの第2次で搭載する核弾頭 の数について交渉がおこなわ れたが、79年のソ連のアフガ ニスタン侵攻 (p.344) で失 敗に終わった。 冷戦体制の動揺 3 どうよう Q1960年代以降、冷戦体制におこった動揺はどのようなものだったのだろう か。 を ベトナム戦争と インドシナ半島 Q ベトナム戦争は、どのような性格をもつ戦争だったの だろうか。 -p.320 どくさい 冷戦のあいだ、米ソは、 直接の武力衝突をおこさなかった。 しかし、20 アジアやアフリカでは、米・ソがそれぞれあと押しする勢力による代理 戦争がおこった。 ベトナム戦争もその1つである。 ベトナム共和国 (南ベ トナム)では、ゴ=ディン=ジエム政権が独裁体制を強めるなか、 1960 年に南ベトナムの解放をめざす南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベ トナム民主共和国(北ベトナム) と連携してゲリラ戦を展開した。63年に ジェム政権が軍のクーデタによって倒れたのち、アメリカ合衆国のケネ ディ政権は南ベトナムへの軍事援助を本格化させた。北ベトナム正規軍 が南ベトナムへ派遣されると、65年に合衆国のジョンソン政権は北ベト -p.334 れんけい ばくげき ぼくばく ナムへの爆撃 (北爆) と大規模な軍事介入に踏みきった。 しかし、ソ連と →p.334 中国の軍事援助に支えられた北ベトナムと解放戦線は、森林でのゲリラ 332 第18章 冷戦と第三世界の台頭 Niton 10 ナム(パリ) 和平協定が実現し、 ニクソン大統領は米軍を Pol Pot 2-1998 1913~94 (在任1969~74) きばん 15 右派勢力と、ポル=ポトの指導する急進左派の赤色クメールなど解放勢 力との内戦が続いていた。 75年、 勝利をおさめた解放勢力は、民主カン プチア(民主カンボジア) を名乗り、 農業を基盤とした共産主義社会の建 設を強行し、知識人をはじめとして反対する人々を多数処刑した。しか し、78年末にベトナムが軍事介入をおこない、 民主カンプチアを倒して 新政権を成立させた。 ラオスでも1960年代前半から、政権を握る右派 と、左派のラオス愛国戦線のあいだで内戦状態にあったが、愛国戦線が 勝利し、75年にラオス人民民主共和国が成立した。 20 ②民主カンプチアを支持して いた中国は、ベトナムの行動 を非難し、 1979年2月、ベト ナムに対して軍事行動をおこ したが (中越戦争)、まもなく 撤退した。 3. 冷戦体制の動揺 33 1
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リトルロック高校事件(左) 1957年、 南部・アーカンソー 州のリトルロック=セントラル 高校が、 黒人も白人と同じ学校 に通う人種融合教育化を決定す ると、州知事が反対して9名の 黒人生徒の登校を阻止し、地元 の白人も学校を取り囲んだ。 黒 人生徒は、 合衆国連邦軍の護衛 のもとで登校する事態となった。 チェコスロヴァキア共産党行動綱領 (1968年) 社会主義に対する不安や、社会主義の人道 的使命、その人間的な顔が失われているの ではないか、という恐れが生まれてきた。 ......私たちは、 新しい、 深く民主的で、チ ェコスロヴァキアの条件にあった社会主義 社会のモデルの建設に進みたいと考えるの である。 (歴史学研究会編 「世界史史料」) Get OUT Who VIETNAM "LAN ORDER Teles NOWS RACISM では、自由化の進展を危惧する共産党内の保守派によって、 1964 Qチェコスロヴァキア共産党は、どのような方針を とったのだろうか。 ソ連の軍事介入に抗議するブラハ市民 1968年前半に進展した「ブラハ この春」 は、 同年8月、 ソ連軍などの侵攻で鎮圧された。 公民権運動を指導するキング 牧師 (上) 彼は黒人差別の撤 廃を求める公民権運動を組織 し、 1963年 8月、20万人以上 の支持者による「ワシントン 大行進」を指導して注目され た。 Beezhnev 190682(在1964~82) 年にフルシチョフが解任され、ブレジネフが後任となった。 東欧では、 p.327 68年にチェコスロヴァキアで「プラハの春」 と呼ばれた民主化を求める市 民運動がおこり、 共産党第一書記に就任したドプチェクも自由化を推進 はきゅう 1921 92 (在任1998-60) ⑤した。 しかし自由化の波及を恐れたソ連は、ワルシャワ条約機構軍を率 そがい ていたい アメリカ合衆国 (下左)や日本 (中央)でのベトナム反戦運動 ベトナム戦争は写真やテレビ などを通して世界中に報道さ れ、その長期化とともに反戦 運動も世界中に広がった。 日 本でも反戦運動がおこなわれ、 沖縄の米軍基地問題に結びつ いた(写真は嘉手納基地から 飛び立つ爆撃機に反対する人 々)。 またアメリカ国内では、 運動は人種差別への抗議とも 結びついた。 -0.317 アメリカ合衆国と ソ連の変容 へんよう Q 1960年代のアメリカ合衆国とソ連は、それぞれどの ような変容をとげたのだろうか。 ベトナム戦争が進んだ1960年代は、アメリカ合衆国の変容の時期でもあ Kennedy_ った。1961年に初のカトリック系大統領として就任した民主党のケネディ いてチェコスロヴァキアに軍事介入し、 改革の動きをおしつぶした。 以後ソ連やほかの東欧諸国でも改革の動きは阻害され、 経済も停滞した。 ヨーロッパでの 緊張緩和 Qヨーロッパでの緊張緩和は、どのように進んだのだろ うか。 New Frontier |1917~63 (有託1961~63) は、ニューフロンティア政策を掲げて国内改革を呼びかけ、 南部に残る こうみんけん にヨーロッパの緊張緩和を進める動きがおこった。 1969年、戦後はじめ て社会民主党を中心とする連立政権が成立する フランスのド=ゴールの自立的な外交路線に続き、西ドイツでも独自 p.326 ②チャウシェスクが指導する ルーマニアは、豊富な石油資 源を後ろ盾にして、ソ連に対 して一定の自立路線をとり、 チェコスロヴァキアへの軍事 介入にも参加しなかった。 てっぱい 黒人差別の撤廃を求める公民権運動にも理解を示した。63年11月に彼が こうけい 暗殺されたのち、後継のジョンソン政権は64年に選挙権や公共施設での 1908~73 在任1953~0 人種差別を禁止する公民権法を成立させ、「偉大な社会」をスローガンと どろぬまか して「貧困との闘い」を推進した。 しかし、ジョンソン政権のもとで60年 代後半にベトナム戦争が泥沼化すると、国内ではベトナム反戦運動が高 揚し、人種差別 貧困 性差別などに対する抗議運動とも連動した。運 よう にな 動の中心的な担い手は、戦後のベビーブーム世代の学生であり、60年代 末には日本を含む一連の先進諸国でも、同様の学生運動が繰り広げられ た。68年に公民権運動の指導者キング牧師が暗殺されると、人種問題を ●1972年の大統領選挙で再選 をめざした共和党ニクソン隊 営が、ワシントンのウォータ ーゲート=ビルにあった民主 党本部を盗聴しようとしたが 発覚し、ニクソン自身も関与 していたとの疑惑が高まった。 74年、 ニクソンは下院での弾 決議を前に大統領を辞任し た。 この一連のできごとをウ ォーターゲート事件と呼ぶ。 ほうどう 1998 めぐる暴動が多発するなど、合衆国では社会的な亀裂が拡大していった。 15 こののち、ニクソン大統領がベトナムからの撤兵を実現したが、政治ス キャンダルによって74年に辞任に追い込まれた。 334 第18章 冷戦と第三世界の台頭 15 Brandt と、ブラント首相はソ連・東欧諸国との関係改 13~92 (在任1969~74) 善をはかる「漢方外交」を開始し、70年にはポー -p.315 ランドと戦後国境(オーデル=ナイセ線)を認め た国交正常化条約を締結した。 ヨーロッパで進む緊張緩和 (デタント)に米・ ソも歩調をあわせた。1972年に米・英・仏・ソ 4国がベルリンの現状維持協定を結んだのを受 けて、同年末、 東西両ドイツは相互に承認をお 西ドイツの「東方外交」 ブラント首相は、東欧諸国との関係正 写真は、1970年にポーランドのワルシャワ=ゲットー跡地の した。75年、フィンランドのヘルシンキでアル記念碑前でひざまずいて謝罪するプラント首相。 こない、翌73年には両国ともに国際連合に加町 常化にはナチス=ドイツの残虐行為への謝罪が不可欠と考えた。 3 冷戦体制の動揺 335
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進」の失敗後に経済の立て直しをおこなっていた とうしょうへい ●CSCEは1995年、 全防安全 保障協力機構 (OSCE) として 常設の地域機構となった。 こうし バニアを除く全ヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国・カナダの首脳が参加 して、全欧安全保障協力会議 (CSCE) が開催され、主権尊重、武力不 行使、科学 人間交流の協力などをうたったヘルシンキ宣言が採択され しゅけんそんちょう 12 さいたく 歩奇鄧小平ら改革派に対抗して、66年にプロ レタリア文化大革命という新たな運動を全国に呼 2 中華人民共和国の成立後、 「しんきょ ようせい ねい チベット・新疆内モンゴ ル・広西寧夏には少数民族 自治区が設けられていた。 この事件ののち、チベット、 仏教の指導者ダライラマ14 世(1935~ )はインドへの 命をよぎなくされ、現地で亡 命政権を樹立した。 た。 どくさい また、1970年代の南欧では、軍事政権や独裁政権が倒れた。ポルトガ ルでは、アンゴラなどの植民地における独立運動を受け、危機にあった ほうかい 独裁政権が74年に崩壊した。 スペインでは、75年にフランコが死去する こうけいしゃ Juan Carlos 1938~ (在位1975~2014) →P.307 と、後継者に指名されたブルボン朝のフアン=カルロス1世が民主化に 踏みきり、立憲君主制の新憲法が制定された。 67年以来軍事政権下にあ ったギリシアも、75年に民主制へ復帰した。 ソ対立と文化大革命 Q ソ連のスターリン批判ののち、 中国ではどのよ うな変化がみられたのだろうか。 -p.327 1956年にスターリン批判がおこなわれると、 スターリンを模範に自己 の権力を強化してきた毛沢東は反発した。 毛沢東はソ連との競争を意識 1b だいやくしん →p.318 117 10 して、58年から急激な社会主義建設をめざす 「大躍進」運動を開始し、人口15 民公社の設立による農村の組織化を進めた。 しかし、性急な大規模集団 目場 がししゃ 化や専門技術の軽視の結果、 農業生産の急減などにより数千万の餓死者 こうえいへい びかけた。 若い世代を中心に紅衛兵など全国的な 大衆運動が組織され、党幹部や知識人を迫害した。 ・鄧小平らも資本主義の復活をはかる修正 劉少奇 主義者と非難され、 失脚に追い込まれた。 中ソ対立の激化のなか、国際的に孤立していた中国は、アメリカ合衆 国との関係改善をはかるようになった。ベトナム戦争で威信がゆらいで いた合衆国も、国際社会での主導権を再確立するために中国への接近を はかり、1972年にニクソンが中国を訪問し、毛沢東とのあいだで関係正 常化に合意した。突然の米中接近は日本にも衝撃を与え、同年に田中角 ペキン 1918~93 (在任1972~74) 業首相が北京を訪問して国交を正常化し、78(昭和53)年に日中平和友好 条約を締結した。翌79年には、米中の国交正常化が実現した。 また、国 たいわん 際連合では71年に台湾にかわって北京政府の代表権が承認された。 しゅうおん こうけいしゃ りんぴょう。 1971年、毛沢東の後継者とみられた林彪が失脚し、 76年1月には周恩 かこくほう 1907-71 らい 来首相が、また同年9月には毛沢東が死亡すると、 華国鋒首相は、毛沢 こうせい 1921~2008 (在任1976~80) たい 東夫人の江青ら文化大革命を主導した 「四人組」を逮捕した。 これを受け 1913頃~91 中国を訪問するニクソン 1972年2月、 中国を訪問した ニクソン米大統領 (最前列右) が、空港で周恩来首相(最前 列左)とともに関兵している 様子。 えっぺい ごんたんちん 紅衛兵の集会 全国から集ま って、天安門広場を行進する 数十万人の紅衛兵 (学生や青 年およびその組織)。 学校も 休校状態が続き、 教育水準も 落ち込んだ。 を出して、運動は失敗した。 また翌59年、チベットで反中国運動がお こったが、 中国政府によって鎮圧された。 さらにこれをきっかけに、 かくてい ちんあつ 従来国境が画定されていなかった中国とインドとの関係が悪化し、 62年 20 には軍事衝突に至った。 15 対米路線 内外の危機が重なるなかで、 毛沢東は、 アメリカ合衆国との対決路線 きょうそん をとり、ソ連の平和共存路線を批判した。 -p.313 →p.327 →p.325 て77年、深刻な社会的混乱をもたらした文化大革命の終了が宣告された。 しじょう 復権した鄧小平を中心とした新指導部は、計画経済から市場経済への転 換をはかり、78年以降、 農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」 など改革開放路線を推進していった。 第三世界の開発独裁と 東南 南アジアの自立化 p.329 Q 開発独裁とは、どのような体制であったの だろうか。 第三世界では、1960年代頃から強権的支配のもとで、政治運動や社会 運動を抑圧しながら工業化を強行していく開発独裁と呼ばれる体制が登 場した。この体制では、独裁的政権のもとで低賃金を維持し、外国企業 を誘致して、輸出向けの工業製品を生産する方式が採用された。 これに対してソ連は、 1960年に中国への 経済援助を停止して技術者を引き揚げた が、中国は自力で 力で原爆、ついで水爆の開 発に成功した。平和共存の是非をめぐる 中ソ論争は、63年から公開論争となり、 両国の対立 (中ソ対立) は世界が知るとこ ろとなった。69年には中ソ国境で軍事衝 突もおこった。 毛沢東はさらに、「大躍 336 第18章 冷戦と第三世界の台頭 化を求める学生らの運動がおこって失脚した。 その後、軍人の朴正熙が クーデタによって権力を握り、 大統領となって日本と国交を正常化し、 パクチョン 1917~79 在任1963~79) →p.327 ゆうち だいかんみんこく 大韓民国の李承晩は抑圧的な反共体制をとっていたが、1960年、民主 →p.318 " 冷戦体制の動揺
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かんこう せ 独裁体制のもとで「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を マハティール とくさい (在任1981~2003) 2018-20 ・韓国・ パクチョンヒ 朴正熙 (在任1963~79) (ハンガン) こうしゅう 実現した。79年に朴大統領は暗殺され、80年には光州で だんあつ (クワンジュ) 民主化運動が発生したが、 軍部によって弾圧され(光州 事件)、軍事政権が続いた。 台湾では、1947年の二・二八 かいげんれい たいわん に にはち 事件を経て49年に戒厳令がしかれ、以降は国民党政権の →p.318 フィリピン マレーシア マルコス (在任1965~86) 独裁が続くなか、経済発展が進展した。 赤道 インドネシア →p.320 東南アジアのインドネシアでは、非同盟運動の指導者 であるスカルノ大統領が、共産党とも協力し、中国との →p.328 シンガポール リー=クアンユー (在任1965~90) スパルト (在任1968~98) 関係を強める政策をとっていた。 しかし、1965年の九 アジアの開発独裁体制 三〇事件を機に軍部が実権を握り、共産党は弾圧され、10 アジェンデ 1970年にチリ大 統領に当選したアジェンデは、 社会主義への平和的移行を試 みたが、73年の軍事クーデタ で殺害された。 しょうこう 1 9月30日に、親共産党系の 青年将校がクーデタを計画し たとの口実で、 陸軍が共産党 勢力を一掃した事件。 Suharto スカルノは失脚した。68年に大統領となったスハルトは、 1921~2008 (在任1968~98) 開発独裁体制を推し進めた。フィリピンでも、マルコス 1917~89 (在任1965~86) がったい 大統領が開発独裁体制を実現した。 またマレー半島では、 1963年にマラヤ連邦がシンガポールなどと合体してマレ シアとなったが、マレー系住民と中国系住民の対立が 15 やまず、65年に中国系住民を中心としてシンガポールが Lee Kuan Yew 1923~2015 (在任1959~90) 分離した。 その後、シンガポールではリー=クアンユー 首相が開発独裁体制をしいて、経済成長を推し進めた。67年にはインド ネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイの5カ国が、東 アセアン 南アジア諸国連合(ASEAN) を結成して地域協力をめざした。これは北 " ベトナムに対抗するねらいもあったが、やがて大国の介入を排除して東 南アジア地域の自立性を高めようとする動きへと向かった。 インドでは、大戦後に国民会議派の政権が長く続き、非同盟外交とと ぞく もに計画経済が推進された。 また、 インドはパキスタンとのあいだにカリ シミール地方の帰属などをめぐって衝突を繰り返したうえ、 1971年には、2 言語などの違いから東パキスタンがバングラデシュとして独立するのを 支援した。 南米の国々においても開発独裁が広くみられた。チリでは1970年に Allende さよく アジェンデを首班とする左翼連合政権が成立したものの、 73年にアメリ 1908~73 (在任1970~73) Pinochet カ合衆国のCIAに支援されたピノチェトを中心とする軍部のクーデタで →p.325 1915~2006 (在任1974~90) 倒されてから、軍部の独裁政権が続いた。 30 5
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