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日本史 高校生

進研模試2018年11月の日本史の過去問です。 問3が分からないので教えてください。 解答が分かる方は答えだけでもいいのでお願いします🙇‍♀️

日本史B問 題 問1 空欄 B に入る語句の組合せとして正しいものを, 次の1~4のうちか A (60 分) ら一つ選び、番号で答えよ。 【注意】·日本史B 受験者は, 次の表に従って4題を解答してください。 1 A 伴造 B 武蔵 (2 A 伴造 B 陸奥 3 A 健児 B 武蔵 4 A 健児 B 陸奥 選択コース ①原始から先に学習している人 の近現代から先に学習している人 解答する大問番号 問2 下線部(ア)に関して, これは推古朝で個人の地位を示すために設けられた制度での最 上位の冠位である。この制度を何というか, 漢字5字で答えよ。延位十= Pú 問3 下線部(イ)に関連して, 大化改新に際して出されたとされる「改新の詔」 は, 実際に 出されたものであるか疑間であるとする説もある。このことに関して述べた次の文X 飛鳥時代から奈良時代の政治に関する次の文章A·Bを読み,下の問い(問1~11)に Yと、それぞれの主張の理由について述べた下の文a~dとの組合せとして正しいもの 答えよ。(史料は, 一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)(配点 25) を,下の1~4のうちから一つ選び, 番号で答えよ。 A 大伴氏は古くからヤマト政権に参画して大王の親衛隊的な役割を担い。 として 軍事を担った氏族であった。6世紀後半にはそれ以前にくらべてやや勢力が衰えたが、そ の後も推古朝では大伴昨が活躍し, (ァ大徳の冠位を授けられた。。その子長徳はィ大化 A X 「改新の詔」 は, 後の大宝令などによって修飾された部分が多く, 実際に出された ものであるか疑間である。 z留転。 Y「改新の詔」 は, 後の大宝令などによって修飾された部分もあるが,これに相当す 改新とよばれる政治改革を進めた政府内で, 蘇我倉山田石川麻呂が滅ぼされた後に右大臣 に任じられた。また長徳の弟吹負は。 るものが実際に出されたと考えてよい。 い (ウ大海人皇子が皇位継承をめぐって挙兵した戦いで みゅき 大海人皇子側で活躍し,長徳の子の御行は持統朝で大納言となり.太政官の中心で国政を a「改新の詔」が掲載されている 「続日本紀』 は、 8世紀前半に編纂されたものであり、 まよつきみ 審議する議政官(公卿) となった。 この時期には議政官は従来の大夫の伝統を継承し, 有 内容には信恐性が薄いと考えられるから。 カ氏族から一名ずつ就任するのがふつうであった。 b 「改新の詔」で栽規定されている班田収授法や防人の設置は, この時期に施行された 御行の弟安麻呂は兄に続いて大納言となり, その子旅人も大納宮となった。 さらにその とは考えられないから。 c「改新の詔」に記載のある地方行政組織の 「評」が、 この時期に地方に設置された ことは事実だと考えられるから。 子家持も官人としての経歴を積み,晩年には参議となった。旅人家持は、 準人·蝦 夷との戦いにかかわるなど武人としても活動した。 聖武天皇は 749年, 国から金が献上されたことを喜び詔書を出したが、そのな d「改新の詔」が出された難波宮がこの時期に造営されたことや, この時期に一定の B 改革が進められたことは事実だと考えられるから。 かで特に大伴氏·佐伯氏などの天皇への奉仕をたたえた。これに感激したオ大伴家持は あづきゆみ 長歌を詠み、「梓弓 手に取り持ちて 剣大力 腰に取り偏き 朝守り タの守りに 大 1 X-a Y-c 2 X-a Y-d みかと 君の 御門の守り」 と先祖以来の天皇の親衛隊としての伝統を受け継いで, 一族として天 3 X-b Y-e @ X-b Y-d 皇に忠誠を尽くすことを高らかにうたった。しかし, 以後政争があいつぐなか, 家持自身 も含めて大伴氏は,橘奈良麻呂の変や藤原種継暗殺などの事件に関与し, しだいに衰退し ていった。

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日本史 高校生

大至急!!!!! 9世紀ころから地方政治が乱れていく理由について 教えて欲しいです🙇‍♀️

ョ入 (『粉河寺縁起 把東 ながからびっ 歳)左の長唐橋 下,右には海の幸 分 息を が利り 濫えめ国 行取 の 横号る守象 法非 藤 公事(→p.56)と こくし ふじわらのもとなが あっせい ぐんじりゃくしょう。 げぶみ の国司の長官藤原元命の圧政に対する農民の訴え(尾張国郡司百姓等解文) おわり たもの。 地方政治の 9世紀になると,政府は租税の実質的な確保を目 こくし 転換と受領 ぎょうせい 的に,しだいに実際の地方行政の運営を国司に任 ふにん せるようになった。その結果,現地に赴任した国司の最上席者に権限 が集中するようになり, 彼らは受領(前任国司から国務を受領した者) とよばれた。一方, 受領以外の国司の地位はその収入だけが目的とさ ずりょう ようにん0 ふゆう れ、現地に赴任しない遥任もさかんに行われるようになった。富裕な じょうごう いなばどう (『因幡堂縁起絵 いなばの 橘行平が因幡 ちょうにん 受領は,成功によって重任したり, さらに実入りのよい国の受領に移 たちばなのゆきひら るようす。 ったりした。 はんでん だいちょう こせき けいちょう 班田が行われなくなり, 課税の台帳となる戸籍· 計帳も作成がとだ 見地には赴任せ 三受けとること。 は、受領も交替 二行かなくなり. 現地の有力者 マ治を任せるよ 2 こく が6 →p.28 えたため,10世紀ごろから, 国術では, 方法をかえて課税するように くぶんでん こう ち なった。まず,ロ分田などの公地を, 期間を定め耕作を請け負う有力 たと みょうでん みょう な農民(田堵)の名前をつけた田(名田,名)ごとに区分し,この田を単 そ ちょう よう ぞうよう 位に,租,調 庸, 雑鑑にかわる, 新しい形で課税した。こうして, →p.29 りつりょう 一紀初めには全 れなくなった。 三初めまで作成 , 女性ばかり 三態とかけはな 課税の対象は,律令体制下での人(成年男子中心)から, 土地(名田中 心)へと移っていった。 15 ふろうにん 有力な農民(田塔)は, 一族とともに農民や浮浪人を使って周囲に撃 でん 田を広げ,広い地域を支配するようになった。受領のなかには, 自己 かこく ちょうぜい →p.56 の収入を増やすためもあり, 過酷な徴税を行った者も多かった。その た。 平安時代以降 ようになる。 ぐん じ ため,郡司や有力な農民は, しばしば受領と衝突し, 10世紀後半から 11世紀にかけて,協力して受領の圧政を政府に訴えることもあった。 あっせい け負う有力農 ニれた。また, k, 当時, 官 20 地方で争乱がおきると, 政府は中央の下級貴族や, かん 武士の誕生 つい ぶし6とうよう おうりょう し ちんあつ よばれた。 地方の有力者を押領使や追捕使に登用して鎮圧 受目であった ら常置とな ち あん しへい し,治安維持にあたらせた。彼らは私兵をひきいてこれにあたり, そ の地方に勢いをのばしていき, やがては都で内裏や貴族の邸宅の警備 じょうち だいり ていたく たきぐち 式士を滝口と も行うようになった。 こうして朝廷の武力としての武士が誕生した。 国家の形成と貴族文化の誕生 しあげる)、 の稲〈正税》 の内に収 稲の出挙) 無きに依一 U事..………… 八日 ·百姓等 し、政府の 郡内の徴税 国司から任

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