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国語 中学生

漢文『論語』の問題です。 わかるところだけでも良いので、答えを教えて下さい🙏🙇

起き下し文 子曰はく、「故きを温めて新しきを知れば、②もつて師たるべし。」と。 《訓読文) あやふ 子曰、「温故而知新、可以為師矣。」(為政) 則ち隠し い。 思ひて学ばざれば則ち殆し。」と。 書き下し文≫ 子曰はく、「学びて思はざれば 子曰、「学而不思則罔。思而不学則殆。」(為政) 《書き下し文≫ 子曰はく、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。 《訓読文》 子曰、「過而不改、是謂過矣。」(衛霊公) 書き下し文》 すなは 子曰はく、小利を見れば則ち大事成らず。 《訓読文》 子曰、「見小利、則大事不成」 (子路) 問1 傍線部①「温めて」の意味として最も適当なものを次から選び、記号で答えなさい。 ア 重ねて研究する イ しっかり記憶する ウ 大切に取っておく エ先生に質問する 問2 傍線部②「もつて師たるべし」の意味として最も適当なものを次から一つ選び、記号で答えなさい。 ア要するに師となる資格が大切なのだ。 イそうすれば師となる資格があるものだ。 ウしかし師となる資格には不足なのだ。 もっと師となる資格が必要なのだ。 問3傍線部③「則ち罔し」とあるが、そうならないために必要なことは何か。最も適当なものを次から選 び、記号で答えなさい。 ア学んだことを実行すること。 イ学んだことを徹底的に疑うこと。 ウ学んだことをよく考えること。 エ学んだことを他の人に広めること。 問4 漢文の使用例としてふさわしくないものを次から一つ選び、記号で答えなさい。 アテスト週間にゲームをしている僕に対して、父は「小利を見れば則ち大事成らず」と言った。そうだ よな。今からでも勉強をがんばろう。 「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」とある。今日は遅刻したけど、明日は間に合うよう、早く寝 ようと思う。 ウなかなか練習する気になれない。自分の将来の成功のためにとりあえず今は練習を止めて休もう。 「小 利を見れば則ち大事成らず」だ。 H今回のテストも見直しをせずに単純なミスをしてしまった。「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」と いうことは分かっているのに・・・。 反省します。 4

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漢文 高校生

疑問と反語にするのですが、どうして2番目からは反語のさいご んや ではなくて ん で終わるのですか? 反語分は ん んや で終わることが多いのですよね

疑問・反語 P50・338 句法一覧 の訳し分け● 語も句形は同じなので、文脈から判断して読む。 ・連体形、または「や」「か」で結ぶことが多い。 ・「ン」・「や」で結ぶことが多い。 疑問形→強い否定 疑問形→強い肯定 方 疑問の形で文意を強め、文意を反転させる。 「遊んでいる場合だろうか。」 いや、 遊んでいる場合ではない。 「知らない者がいるだろうか。」 いや、知らない者はいない。 (だれでも知っている。) の助字を用いる形 疲待と一緒のときだけ ・卵・也・哉・歟) かやく…か。いや・・・ない)> 平仮名になおす(好き) 之平 疑子之を知るか。 連体形+か はこのことを知っているか。〉 ( 列子) 終止形や 仁平 反仁と謂ふべけんや。未然形ンや があると言えようか。いや言えない。〉 (史記) いる形(文末の助字との併用もある) なにヲカ〈何を・・・か。いや・・・ない)〉 7 短文練習 ラ +X@ベケン 次の漢文を疑問と反語の二種に書き下し、口語訳しなさい。 (一部送り仮名を省いてある) 773 くラフ (可・・・できる) 於我 あやまチ 無過。 ざらざり 疑 食らふべきか。 反食らふべけんや。 何爪我に有る。 反 何か我に有らんや。 何れぞ去らざる。 疑 食 為不去。 書き下し文 反 何 れ ぞ ら カ なかなかり 宮川 11 c 食べることができるだろうか。 どうしてま 訳 食べることができるだろうハ 何が私にあるのか。 何か私にあるのださうか。 やない どうして去らないのか。 だろうか。 疑問・反語 ①

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日本史 高校生

教えてください🙏

の法の醍皇 三皇 2- 官 要 白 t 本 滋 床 L. た ●国風文化 次の文の空欄にあてはまる語句を答えよ。 遣唐使の廃止後,これまでの大陸文化と貴族文化が融合して, 日本の風土に合った国風文化 が誕生した。 国風文化の象徴であるかな文字は、 万葉がなの草書体を簡略化した ( 11 )ゃ, 20 きんちょう 漢字の一部分である ( 12 ) が日常生活で使用されて, 多くの文学作品が生まれた。 和歌は, 最初の勅撰和歌集である 「古今和歌集」 が編纂され, 古今調の歌風は後世の和歌の模範となった。 この歌集の歌人である紀貫之は,最初のかな日記である ( 13 ) を記し, また藤原道綱の きのつらゆき みちつな たかすえむすめ じんてきかいそうろく しょう し 母が自らの家庭生活を記した( 14 ) や,菅原孝標の女が自伝的回想録を記した( 15 ) のように、女性によるかな日記も誕生した。 かな物語では、最古の物語文学である(16)や、 短編の歌物語集である「伊勢物語」があった。また、中宮彰子に仕えた紫式部の(17) ( 18 ) が皇后定子に仕えた宮廷生活での体験を随筆風に描いた『枕草子」は,国文 学の最高傑作とされている。 藤原道長の栄華を描いた「栄華物語」の歴史物語もあった。この ように、かな文学は教養豊かな女官(女房)によって隆盛した一方で,貴族は公の場では漢字 を使用したが、藤原道長の日記 ( 19 ) のように,その文章は和風的な漢文であった。 かじきとう げんぜりゃ この時期の仏教は,加持祈疇により現世利益を追求する貴族と天台・真言宗が強く結びつい ほん じ すいじゃくせつ ごりょうえ 61% ていた一方、神仏習合の考えである本地垂迹説の思想も盛んとなり、御霊会も盛んに催さ くうや れた。これと同様に浄土教も流行し、10世紀半ばに空也が京の市で説いたのちに(20) おうじょうようしゅう ねんぶつ が 「往生要集」で念仏往生を説くことで貴族・民衆の間に流行した。さらに、末法思想によっ まっぽう しそう て浄土信仰はいっそう広まり、来世で救われたいと考える人々が増加した。ほかにも、経典 きょうづつ きょうづか を写経して経筒に入れて地中に埋める経塚も営まれた。 また, B しんでんづくり 美術工芸の作品も国風化の影響を受けており,寝殿造とい すまびょう う日本風の建築様式が使用された貴族の住宅内部は、襖や屏 まきえ らでん 風に d 大和絵が描かれた。 また, 蒔絵や螺鈿の手法を使用し さんせぎ た調度品も屋内に飾られ, 書道では三蹟と呼ばれる和様の名手の作品も重宝した。 藤原道長の ゅんじゅう らいこう ず が臨終の人を極楽浄土へ迎えに来る場面を描いた。 来迎図も多く描かれた。 ほうじょうじ びょうどういんほうおうどう どう 法成寺や図 B の平等院鳳凰堂は,浄土教が影響した阿弥陀堂の遺構である。 また、阿弥陀仏 げんぶく 貴族は10~15歳で男性は元服し、女性は裳着の式をあ しゅっし そくたい 上げて成人し、男性は官職を得て朝廷に出仕して、年中行事 などに奉仕した。 その際, 貴族男性は図Cの束帯や簡素化 した 女性は図Dの安房装業(十二単を正装とした。 一 小 一人 ・唐衣 19 一表者 藤原冬嗣を筆頭に北家が勢力をのばし、(1) 基経は,他氏排斥により摂政・関白の 地位を高めた。その後醍醐・村上天皇による親政が行われたが, 安和の変後に藤原忠平 が摂関政治を行い、藤原道長 頼通父子の時に最盛期を迎えた。外交では,唐滅亡後に建 国した宋や、中国東北部の ( 9 ) 朝鮮半島の (10)と国交を結ぶことはなかった。 Check Point - → がくるという説。 彼らの多くは左京に住んで常に在京し、食事は1日に2回 を限度として, その日の行動を吉凶によって決定するといった日常生活をおくったのである。 本地垂迹説 仏 (=本地)が人々を救 済するため, 神という仮 の姿となってこの世に現 れたとする思想。 御霊会 なぐさ 政治的に非業の死を遂げ た人の霊を慰める行事が. のちに疫病の流行を防ぐ 目的に変化した祭礼。 浄土教 阿弥陀仏を信仰し、来世 において極楽浄土に往生 し、そこで悟りを得て苦 をなくす教え。 末法思想 しゃか 釈迦の死後に、正法・像 法の時代を経て末法の世 ぽっぽう 貴族の住宅用建築様式で、 寝殿を中心に東対・北対・ 東北対が透渡殿・渡殿で 接続された。 わたどの 蒔絵 漆で描いた模様に、 金粉・ 銀粉を蒔きつける技法。 しんじゅこう 貝殻の真珠光を加工して 漆器に埋め込む技法。 おののみちかぜ THRE 小野道風・藤原佐理・藤 原行成の3人の名手。 なり 「藤原頼通が木造 宇治に建 立内部に じょうちょう。 仏師定朝 せり みだにょらいそう が寄木造で つくった阿弥陀如来像が 安置された。 宮中で毎年特定の時期に 行う神事・仏事 政務の 行事のこと。 問1 奈良・平安 問2 問3 問1 下線部aについて, この出来事を何というか。 問4 よししげのやすた 問2 下線部について、この両天皇の親政はのちに何と呼ばれてたたえられたか。 問3 下線部の人々のうち、往生をとげた人物の伝記を集めた, 慶滋保胤の著書は何か。問5 問4 下線部dについて、大和絵の名手であった平安時代前期の宮廷画家は誰か。 問6 問5 下線部eについて。 高野山が所蔵する阿弥陀如来と諸尊32体の来迎図を何というか。 問6 下線部fのうち吉凶により引きこもったり、凶の方角を避ける行為はそれぞれ何か。 ポテンシャル日本史 23

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日本史 高校生

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問1 問4 問2 問3 20 原始・古代 ●第1問 次の文章を読んで、下の問いに答えよ。 (オリジナル問題) この強化を目指し ( 1 ) への遷都を行った。 しかし, その都の造営事業の中心人物であっ 8世紀後半, 光仁天皇の政治を引継いだ桓武天皇は, 仏教勢力の影響を排除し, 天皇権力 た (2)が暗殺されるという事件が起こり, 造営事業は中断を余儀なくされた。その後, つぐ 平安京の造営が行われたが, 桓武天皇は藤原緒嗣の意見を採用した政治を行った。 桓武 a 天皇のあとに即位した嵯峨天皇も律令制の再建をめざし、法制の整備などを積極的に進める とともに、あらたに令外官を設置するなどした。 問1 文中の空欄1 2にあてはまる語句を答えよ。 問2 下線部に関する史料Aについて これは藤原緒嗣が建議した "内容であるが, 緒嗣の建議した内容と それに対する桓武天皇の対 応について 40字以内で述べよ。 問3 下線部bについて、桓武・嵯峨天皇の政治について述べた文として正 の①~④から一つ選べ。 また、誤りの選択肢は、その箇所を正しくなおせ。 ① 平城太上天皇の変に際して、藤原不比等を蔵人頭に任じた。 ●第2問 次の史料を読んで、下の問いに答えよ。 (2016 センター追試・改) だいそうず でんとうだいはつ しい 大僧都伝灯大法師位(僧の地位) ( 3 ) 紀伊国の禅居(修 $ 行する寺) に終う。 (中略) 法師は,讃岐国多度郡の人なり。 さえきのあたい 俗姓 (出家する以前の姓)は佐伯直。 (中略) 書法に在りては最も ちょうし ひと その妙を得て、 張芝 (後漢の著名な書家)と名を斉しくし、草聖(草 時に 真道異議を確執して肯えて聴かず。 天下の苦しむ所は軍事と造作となり、 話して 白姓安んぜも」 「続日本紀」 即ち停廃 「万分 とくど 書の達人)と称せらる。 年三十一にして得度(国家の許可を得て出家し、 ② 律令を補足・修正した式を集め、 弘仁格式を編纂した。 ③ 国司交替の際の事務引き継ぎを監視するために健児を設けた。 ④ 京内の治安維持をはかるために検非違使を設けた。 問4 19世紀の政治・文化に関して述べた次の文X ~Zについて, その正誤を○×で答えよ。 また、誤りの場合はその箇所を正しくなおせ。 X 征夷大将軍の紀古佐美は、蝦夷征討の拠点として胆沢城を築いた。 Y 国家財源を確保するため、畿内諸国に直営方式の公営田が設けられた。 Z 密教が盛んとなり, 密教世界を絵画で表現した過去現在絵因果経が制作された。 につとう がく 僧尼となること) す。 延暦二十三年、入唐留学す。 青龍寺(長安にあっ に希真此天A けい かわじょう あ た寺)の恵果和尚に遇いて真言をけ学ぶ。 (「続日本後紀』) 道 の 今 しいものを、次 たまわ 問文中の空欄には,図Bが安置された寺院を嵯峨天皇から賜った人物が入る。その 人物名を明らかにして、史料から読みとれるこの人物の経歴を60字以内で述べよ。

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日本史 高校生

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●第1問 次の系図Aを参照し、下の問いに答えよ。 (2016 法政大・改) 問1 空欄1の人物は、漢詩文にA 大友皇子- 優れ, 「東大和上東征伝」を 著した。 この人物名を答えよ。 ひ ほん 問2 空欄2の人物は、謀反の疑 いをかけられて、以下の詩を 残している。 この詩の出典名 と、この人物名を答えよ。 ① 天智 (2 ―天武 3 -持統 O -刑部親王 -舎人親王 -高市皇子 ・草壁皇子 ⑤ 9 淳仁 3 吉備内親王 5 文武 ⑨ 4 Ⓡ ⑩ 藤原不比等一宮子 孝謙(称徳) PREVER 16日 武 ①~⑩は皇位継承の順番 うなが せんろひんしゅ ゆうべ さが 泉路賓主無し 此の夕家を離りて向かふ。 きん う せいじゃ。 て 金鳥西舎に臨らひ 鼓声短命を催す 問3 図Bの製作を命じた人物を系図Aより選べ。 また、図Bの内部には何がB 納められたか。 問4 空欄3に入る、政争で命を落とした人物の名を答えよ。 問5 系図A中のある人物が記述した、 持統朝までの歴史書は何天皇に献上さ れたか。また、その天皇が入るのは空欄4・5のどちらか答えよ。 問6 空欄6に入る人物名を答えよ。 また, この人物が聖武太 上天皇の遺愛品を納めた場所を,図Cのa~c から一つ選 問7 この系図の時代は 「女帝の世紀」 とも呼ばれたが, 女帝が多数存在している理由を 当時の政治情勢を踏まえて80字以内で説明せよ。 第2問 図Dの存在意義を、次の文章を参考にして60字以内で述べよ。 (2014 北海道大・改) 図D と同様の ( 1 ) は藤原宮跡でも発見されており,その中には「九D 月廿六日薗職進大豆川口」 と記されている。この文は、ある年の9月26日に そののつかさ 「薗職」という役所が大豆を進上したことを示している。菌職は,令で定めら れた官制になく, また 『続日本紀』 などの文献にも見られないため、飛鳥浄 御原令の頃に存在した役所だったのではないかと推測されている。 えんちし えんこ また律令制下では,薗職の呼び名に似た「園池司」という役所が設けられ、 天皇の食膳に充てる野菜や魚鳥などの生産を担当した。 よって, 薗職が園池司の前身である と仮定すれば、藤原宮跡出土の(1)に記された大豆は、天皇の食膳のために進上され た可能性が指摘できる。なお,園池司には「園戸」と呼ばれる品部が所属していたため,薗 職にも園戸のような人々が属し, ( 1 ) に記された大豆も彼らが栽培した可能性が考え られる。律令制の施行以後、国家財政は公民が負担する租税によって支えられたが、皇室の 財政には特定の人々が奉仕する旧来の伝統的な制度で運営する仕組みも残されたのだ。 問1 問2 問3 問4 5 問6 問7 ポテンシャル日本史 17 健奈良・平安

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