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現代文 高校生

山崎正和さんの、水の東西という作品です。 傍線部分の、「そういうこと」とは、どういうことか教えていただきたいです。

SURB! O そののちにや、良秀がよち 山崎正和 水の東西 「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌のなかに、なんとなく人生のけだるさのようなものを感じることがある。 かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、や がて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気にとけて水受けが跳ね上がるとき、竹 が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。 見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし 何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも 引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせきと め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。 私はこの「おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介され るなかで、あの素朴な竹の響きが西洋人の心を魅きつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに 忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聴くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴 水の方が、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。 流れる水と、噴き上げる水。 そういえばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場にはいたるところにみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に 行けば、噴水はさまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という 噴水の群れが庭をぎっしりと埋めつくしていた。樹木も草花もここではそえものにすぎず、壮大な水の造型が轟きながら林 立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音をたてて空間 に静止しているように見えた。 時間的な水と、空間的な水。 そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統のなかに噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘 って水を見ることはあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代にいたるまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の 都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜け て、表情に乏しいのである。 西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発 達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そ ういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮した りねじまげたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。 言うまでもなく、水にはそれ自体として定まったかたちはない。そうして、かたちがないということについて、おそらく 日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむ しろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、かたちなきも のを恐れない心の現れではなかっただろうか。 見えない水と、目に見える水。 もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。た だ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本 人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。

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現代文 高校生

なぜ写真の答えになるのかがわかりません。

5 10 第三語 社会 六山崎 正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方に エリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の こ州。 急速な暖味化は、ム皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは一 そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわば 1三層構造を持った知的社会であった。 Mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く 5 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく であり、それとともに 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その なかで活躍した仮体制説な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な『自悔の感情 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 の真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 、もる S かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文一 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある(フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 ら流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎8 と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 識人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 そして、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

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現代文 高校生

なぜ、写真の答えになるのかがわかりません!

10 第三調 社会 六山崎 正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方にエリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 )これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の 二州。 急速な暖味化は、“皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは一 そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわば 三層構造を持った知的社会であった。 Mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く6 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく一 であり、それとともに 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その なかで活躍した仮体制誘な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 0 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な王自侍の感情 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 I真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 S。 かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある(フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 5流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎s と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 識人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 宅して、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

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現代文 高校生

問5,6解答根拠が全くわかりません。 教えてください!

第三講 社会 六山崎正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の LG 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方に エリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の 急速な暖味化は、“皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは 1_ そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわげば 1三層構造を持った知的社会であった。 mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く 5 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく一 であり、それとともに N 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その一 なかで活躍した食体制誘な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し るリの い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な「自侍 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 I真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 S かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある。フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 5 流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎0 と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 職人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 Caして、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

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英語 高校生

1度は解いたのですが解答を教えて頂きたいです🙇‍♀️

☐ Lesson 「名詞を前から修飾する語句 日本語に合うように,( )に適切な語を入れなさい。 A 1. 数名の生徒がその問題を解くことができた。 ) were able to answer the question. )( ( 2. いくつか余分のグラスがある。 ) glasses. )( I have ( □ 3. 私たちが買った家には小さな庭が付いています。 The house we bought has a ( ). 4. それは本当に興奮する映画だった。 That was a really ( 5. 私たちは通りの落ち葉を掃除した。 We cleaned the ( )( ) on the street. Hints 2. 「余分の」 extra / spare 5. 「落ち葉」→「落ちてしまった葉」(動作の完了) に適切な語を入れなさい。 B ) ( 2 名詞を後ろから修飾する ① 日本語に合うように ( □ 1. 接客係は私にフルーツでいっぱいのパフェを運んできた。 )( The waiter brought me a parfait ( 2. 彼女は青い表紙の本を読んでいた。 )( She was reading ( 3. 机の上のコンピューターはトムのものです。 The computer ( )( )( ) is Tom's. Hints 1. 「~でいっぱいの」 full of ~ 3名詞を後ろから修飾する ② 日本語に合うように, 下線部に適切な語句を補いなさい。 C 1. 今朝は洗濯すべき物がたくさんある。 I have a lot of laundry □ 2. 夏にニューヨークを訪れる機会があった I hada New York during the summer. □ 3. 私は英語を学ぶ最善の方法は話すことだと思います。 I think 4. 向こうでピアノを演奏している女性は, マイクの姉だ。 is to speak it. ■ 5. 簡単な英語で書かれた本が最近人気だ。 over there is Mike's sister. Books ] 6. 英語は世界中で話されている言語である。 English is a ) ( ) a blue cover. have become popular lately. 4 □□□ 5 □ 9 1 絵に合うように、英文を完成させなさい。 2. Description 1. 1. Would you like ( 2. She lives in a house ( 3. The dog ( )( Expressions 日本語に合うように,( 1. 彼らは結婚の約束を交わした。 They (marry/promise/a / each other/made / to). 2. ローマに旅行するという考えはいいですね。 (idea/traveling / Rome / the / of / to) sounds good. □ 3. 彼が深刻な病気であるという知らせに私たちは驚いた。 We were surprised at (ill / seriously/the news/ was/ that / he ). 4. どの国にも独自の伝統がある。 ( its/has / own/country/every / tradition). | Hints 4. 「伝統」 tradition 英作文 次の日本語を英語に直しなさい。 1. 私は目玉焼きよりゆで卵が好きです。 2. 彼女には図書館で働く姉がいる。 3. 彼には,宇宙飛行士になる見込みがなかった。 4. 父はいくつかの新しい特徴のある車を買った。 Hints) -bliua ) in your tea? ) the sofa is our dog, Max. )内の語句を並べかえて英文を完成させなさい。 ) ( o noaes ) the ( Bo コ 1. 「目玉焼き」 fried egg 「~をゆでる」 boil 3. 「見込み」 chance 「宇宙飛行士」a 4. 「特徴」 feature /fitfar/

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現代文 高校生

これの答えは何番だと思いますか?

観光旅行というものは、そのほとんどが都市と建集の見物なのだが、そのことに気づいている人は意外に少ない。国内でも 神社仏閣や城跡巡り、そして町歩きは旅行に欠かせないし、温泉も町の風情が楽しく、温泉旅館も建築に ったものが多く て、それがひとつの魅力になっているはずだが、そうと意識することは少ない。ファッショナブルな観光スポットも、その多一 くは新しい町角の風景や揚所としてのショッピング·センターだったりするのに、目当ては商品とショッピングだと思い込ん一 の文章は、鈴木博之「都市へ」の一節である。これを読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。なお、設問の都合で本文の一 段落に1|~|2の番号を付してある。(配点 0) でいる。ヨーロッパ旅行なら、まず都市巡りがその中心になり、都市巡りは町歩きそのものということになる。 そこで目に一 しているのは、町並みと建築物ばかりといってもよいのだが、それもまたあまり意識されない。 。われわれが観光旅行を都市·建築見物旅行といわないのはなぜなのだろう。 たぶん、旅行では町や建築も見るが、その ー1 3たが、はたして町や建築は単なる器なのだろうか。「だとえばゴシックの大聖堂がある。明らかにそこには中世の精神世界ま」 でもが、造形的に表現されている。さらにいうならば、ヨーロッパの都市は、彼らの精神がつくり上げたものであり、その精一 なかにある遺物や、商品、あるいはそこにまつわる歴史やユイー名ョのにうが大切で、町や建築は器にすきないからだという 気持ちがあるからだろう。 神を体現したものなのだ。魅力的な都市は町並みと建築が美しい町ばかりだ。パリもロンドンもウィーンもパルセロナもブダ ペストも、みな例外ではない。 +けれとも、それでは都市と建築にはいったいどのような精神が込められていて、それは町のどこを眺めれば解るのだと問い詰一 ーロ B められると、答えはすぐには出てこない。町により、建築によってその現れは異なるからだといってみてもおなじことである。 レ 5|ひとつの答えを用意してみよう。ヨーロッパにおいては、それは廃壊、遺跡といった概念だ。 、ヨーロッパには明らかに廃 壊や遺跡が多い。とくに古代ローマの遺跡は、驚くほど広範囲にヨーロッパ中を覆っている。スコットランドに行っても、 あるいは東欧に行っても、ローマの遺跡に出会う。そこにヨーロッパ世界の拡 がりを感じることになるのだが、遺跡というものがそもそもヨーロッパ的な存」 在であるように思われるのだ。 6|石やレンガで建物をつくればそれが時代とともに廃壊となり、遺跡となる のはあたり前だといえるかもしれない。しかし、そうした建設材料の特質だけ」 が廃媒や運跡をむのだろうか。ヨーロッパの建築や都市は、生まれたときか」 らそのなかに廃壊や遺跡の葬を含んでいるのではないだろうか。これはとくに 日本人であるわれわれの感覚に照らして考えてみたい点だ。 い 日本の社寺は手をかけていなければ、消えて山野に戻ってしまうし、町や一 建築も、「方丈記」や『徒然草」を思い起こすまでもなく、どこかしら 「仮の 宿り」、あるいは「うたかたの嘘」の風情を漂わせてきた。「終の概家」 うような表現にも、移ろいつづけた果ての住居という心が垣間見られて、か えって無常を感じさせるのである。つまり、われわれの町や建築は根本的に一 仮のもの、移ろいゆくものという精神の上に成り立っているかのようである。 そこからは名残の風情、名のみが残るという精神が浮かび上がる。木造建築 によって生み出される町の伝統がそうした名所意識を生んだのだろうか。 ローマの古代遺跡 ヨーロッバでは、古代遺跡と現代都市が同居する 町が多い

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日本史 高校生

(4)(5)(6)教えてください💦

次の文を読み、 (①)~ (①) に適語を入れ, 下の設問に答えよ。 鎌倉時代は,公家が文化の担い手となって伝統文化を受け継ぐ一方で, 新しい文化が生み出され,武 士や庶民に支持されて次第に成長していく時代であった。 このようななか, 平安末期から鎌倉中期にか けて,仏教はそれまでの祈藤や学問中心のものから内面的な深まりを持ちつつ, 庶民など広い階層を対 象とする新しいものへと次第に変化していった。 ( )は, (込もっぱら念仏をとなえれば死後平等に極 楽往生できると説き, その教えは武士や庶民の心をとらえ, のちに浄土宗の開祖と仰がれた。(①)の 弟子(2)は、師の教えを一歩進め、(煩悩の深い人間こそが阿弥陀仏の救済対象であるという独自の 教えを説いて信者を増やし、のちの(逢土真宗の祖となった。こうした新興仏教の台頭に刺激され, 旧 仏教側も新たな動きをみせた。法相宗の貞慶や華厳宗の(③ ) らは僧尼の守るべき規範である()の 尊重を説き,南都仏教の復興に力を注いだ。 また(d)律宗の忍性のように社会事業に力をつくした僧侶も 現われた。 鎌倉時代の後半には, 浄土教の流れのなかから()が現われた。( ⑤ )は念仏札を配り、踊念仏に よって民衆に布教し,その教えは()とよばれ,武士や農民に広がっていった。同じ頃,()日蓮は法 華経を釈迦の正しい教えとして選び,これを信じることにより救われると説いた。そして他宗を激しく 攻撃し,幕府の迫害に耐えながら布教を続けていた。 しかし,鎌倉時代の武士たちの多くが信仰したのは, 宋から帰国した(& )によってもたらされた禅 宗(臨済宗)であった。鎌倉幕府は(& )や円覚寺などの大寺院を建立し,蘭渓道隆や円覚寺を開山した (9)ら宋から多くの禅僧を招くなどして臨済宗を厚く保護した。それに対して, (① )の弟子に学ん だ(@)は,(f)世俗との交わりを絶ち,(8ひたすら坐禅することで悟りに至ることを主張して(① )の 開祖となったのである。 [設問](以下線部(a)について,この教えを何というか。漢字4文字で答えよ。 (2人下線部(b)について, この考え方を何というか。 )下線部(c)について, 浄土真宗の祖である (②)の主著を次から一つ選び記号で答えよ。 文.「教行信証』 (4)下線部(d)について, 忍性がハンセン病患者救済のため奈良に建てた施療施設は何か。 (5) 下線部(e)について, ト人日蓮がその教えのなかで重視し,となえることを説いたものは何か。 漢字2文字で答えよ。)彼の主著で, みずからの教えを幕府に説くため, 前執権北条時頼 に提出したものは何か。 (6) 下線部(f)について, 権力者との結びつきをきらった(0)が越前国に建てたもので,(①)の中 心寺院となっている寺院は何か。 イ.「敷異抄」 及「選択本願念仏集」 次、「選択本願念仏集」 「正法眼蔵」 ()下線部(g)について, このことを何というか。漢字4文字で答えよ。

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日本史 高校生

丸9から11。(1)から(7)までを教えてください

を入れ,下の設問に答えよ。 鎌倉時代は,公家が文化の担い手となって伝統文化を受け継ぐ一方で, 新しい文化が生み出され, 武 士や庶民に支持されて次第に成長していく時代であった。このようななか, 平安末期から鎌倉中期にか けて,仏教はそれまでの祈藤や学問中心のものから内面的な深まりを持ちつつ, 庶民など広い階層を対 象とする新しいものへと次第に変化していった。 (画)は, (込もっぱら念仏をとなえれば死後平等に極 楽往生できると説き, その教えは武士や庶民の心をとらえ,のちに浄土宗の開祖と仰がれた。(①)の 弟子()は, 師の教えを一歩進め, 煩悩の深い人間こそが阿弥陀仏の救済対象であるという独自の 教えを説いて信者を増やし、のちの(い浄土真宗の祖となった。こうした新興仏教の台頭に刺激され, 旧 仏教側も新たな動きをみせた。法相宗の貞慶や華厳宗の(③ ) らは僧尼の守るべき規範である()の 尊重を説き,南都仏教の復興に力を注いだ。 また(d)律宗の忍性のように社会事業に力をつくした僧侶も 現われた。 鎌倉時代の後半には, 浄土教の流れのなかから()が現われた。( ⑤ )は念仏札を配り、 踊念仏に よって民衆に布教し,その教えは()とよばれ,武士や農民に広がっていった。同じ頃,()日蓮は法 華経を釈迦の正しい教えとして選び,これを信じることにより救われると説いた。そして他宗を激しく 攻撃し,幕府の迫害に耐えながら布教を続けていた。 しかし,鎌倉時代の武士たちの多、くが信仰したのは, 宋から帰国した(& )によってもたらされた禅 宗(臨済宗)であった。鎌倉幕府は(& )や円覚寺などの大寺院を建立し,蘭渓道隆や円覚寺を開山した (9)ら宋から多くの禅僧を招くなどして臨済宗を厚く保護した。それに対して, (⑦ )の弟子に学ん だ(@)は,(f)世俗との交わりを絶ち,(ひたすら坐禅することで悟りに至ることを主張して( ① )の 開祖となったのである。 [設問]、以下線部(a)について, この教えを何というか。 漢字4文字で答えよ。 (2以下線部(b)について, この考え方を何というか。 下線部(c)について, 浄土真宗の祖である (②)の主著を次から一つ選び記号で答えよ。 文.「教行信証」 (4) 下線部(d)について, 忍性がハンセン病患者救済のため奈良に建てた施療施設は何か。 (5) 下線部(e)について, ト人日蓮がその教えのなかで重視し, となえることを説いたものは何か。 漢字2文字で答えよ。)彼の主著で, みずからの教えを幕府に説くため, 前執権北条時頼 に提出したものは何か。 (6) 下線部(f)について, 権力者との結びつきをきらった(0)が越前国に建てたもので, (①)の中 イ.「敷異抄」 及「選択本願念仏集」 AT正法眼蔵」 心寺院となっている寺院は何か。 (分下線部(g)について, このことを何というか。漢字4文字で答えよ。

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