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古文 高校生

テストに出るのでお願いします!🙇‍♀️🙇‍♀️ 問題文a〜cの『む』の活用形をお願いします、 【未然形,連用形,終止形,連体形,已然形,命令形】

に U 装原伊周(帥殿)は花山院に矢を射かけた罪で播磨の国に配流されていたが、母北の方が重病であると聞いて、配 所を逃れ入京する。 」 はかなく秋にもなりぬれば、世の中いとどあはれに、荻吹く風の音も、遠き程の御けはひのそよめきにおぼしよ (州一) 0 そへられけり。播磨よりも但馬よりも、日々に人参り通ふ。北の方の御心地いやまさりに重りにければ、ことごと、 したり 、む、帥殿今一度見奉りて死なむ」といふ事を、寝ても覚めてものたまへば、宮 なし。「殿今一度見奉りて死な (注2) く の御前も。いみじう心苦しきことにおぽしめし、この御はらからの主達も、「いかなるべきことにが」と思ひまは 州 せど、なほいと恐ろし。北の方はせちに泣き恋ひ奉り給ふ。見聞き奉る人々もやすからず思ひきこえたり。播磨に一 はかくと聞き給ひて、「いかにすべきことにかはあら、む。《市 事の聞こえあらば、我が身こそはいよいよ不用のも のになりはてて、都を見でやみなめ」など、よろづにおぼし続けて、ただとにかくに御涙のみぞ隙なきや。「さは れ、この身は又はいかがはならむとする。“これにまさるやうは」とおぼしなりて、「親の限りに冠はせてむ見奉 りたりとて、公もいとど罪せさせ給ひ、神仏もにくませ給はば、なほさるべきなめりとこそは思はめ」とおぽした: ちて、夜を昼にて上り給ふ。さて宮の内には事の聞こえあるべければ、この西の京に西院といふ所に、いみじう忍 e びて夜中におはしたれば、上も宮もいと忍びてそこにおはしましあひたり。この西院も、殿のおはしましし折、こ 」 の北の方のかやうの所をわざと尋ねかへりみさせ給ひしかば、その折の御心ばへどもに思ひて、“洩らすまじき所 をおぼしよりたりけり。母北の方も、宮の御前も、御方々も、殿も見奉りかはさせ給ひて、又今更の御対面のよろ こびの御涙も、いとおどろおどろしういみじ。上は,かしこく御事に乗せ奉りて、おましながらかきおろし奉り (出m) ける。いと不覚になりにける御心地なりけれど、よろづ騒がしう泣く泣く聞こえ給ひて、「いまは心安く死にもし 侍るべきかな」と、よろこび聞こえ給ふも、いかでかはおろかに。あはれに悲しとも世の常なりや。 但馬||伊周の弟隆家が配流されていた地。 御はらからの主達||母北の方のご兄弟たち。 おまし 御座所。ここでは車の内に設けた御座所。 (参考)人物関係図 道隆(殿·故人) -帥殿(藤原伊周) 隆家 北の方 (上) -御はらからの主達 間一 傍線部A.Bの本文中における意味として最も適当なものを、次 -宮の御前 (中宮定子)

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日本史 高校生

この問Iの答えが3なのですがどこが誤りなのでしょうか?解説いただければ嬉しいです。

次の文章を読んで,下記の設問(A ~J)に答えよ。解答はもっとも適当なものを1つ選び,解。 答記入欄のその番号をマークせよ。もし,適当なものが無ければ 6 をマークせよ。 日本人の伝統的な信仰形態はあらゆる自然物,自然現象に霊威を認め,かつ呪術により災いを避け,安寧を求めるこ とにある。それは古くは縄文時代の遺物·遺構にも見られ,弥生時代にも受け継がれ,ついに古墳時代には、今日見ら れるわが国固有の神祇信仰の原型がつくられるまでになった。 1 ロ ハ 朝鮮半島との交流により6世紀に入り仏教が伝えられた。仏教の受容をめぐっては中央豪族の 氏の対立抗争までひきおこしたが,結局は,聖徳太子の政治改革の思想的支えとなり、奈良時代には国家鎮護の宗教と なるなど,仏教は政治と密接に結びついていった。平安時代になると仏教の新しい展開が見られた。いわゆる密教の導 入である。密教は呪法や加持祈祷などにより現世利益を説いたため,貴族たちのあいだに信仰をえて広まっていった。 国風文化の波は宗教世界にもおよび,仏教とわが国固有の神祇信仰とが結ひびつきを深め,神仏習合の動きが加速され た。また,貴族政治の退廃や地方政治の乱れから武士の反乱があいつぎ,社会不安が増大した。ここに,現世の不安か ら逃れ,来世に救いを求める浄土信仰が急速に広まり,その流れは末法思想によって拍車がかけられた。浄土信仰は貴 族層だけでなく庶民の間にも広がり、鎌倉時代になり大きく発展してゆくこととなる。 ホ 氏と ヌ ル

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古文 高校生

青1の「それを張らせて参らせむとする」とは、誰が何をどのようにすることか。の問いの答えは、 隆家が素晴らしい骨を手に入れたので、紙にはらせて中宮様に献上しようとした。であっています?

|中納言参りたまひて あお へ 奉らせたまふに、「隆家こそいみじき骨は得て たかいへ N 1中納言 囚ここでは、藤 原 隆家(九七九ー 10回四)のこと。関白道隆の子で、中宮定 子の弟。長徳元年(九九五) 権中納言とな る。→%ページ「大鏡」関係系図 2骨 扇の骨。 中納言参りたまひて、御一 みちたか はべれ。それを張らせて参らせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじけれ 1J2 ば、求めはべるなり。」と申したまふ。「いかやうにかある。」と問ひきこえ へ させたまへば、「すべていみじうはべり。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。』 「それを張らせて参らせむとする」とは、 誰が何をどのようにすることか。 JJ となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」と、言高くのたまへ LG 3くらげのななりくらげの骨というわは ですね。禰「ななり」は、「なるなり」E 搬音便「なんなり」の、「ん」が表記 れない形。 4隆家が言 隆家(私)の言った言葉。 ば、「さては、扇のにはあらで、くらげの、 と聞こゆれば、「これは リJ 隆家が言にしてむ。」とて、笑ひたまふ。 かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一 つな落としそ。」と言へば、いかがはせむ。 (第九八段) 関連 C藤原道隆→W 学習のポイント 本文中の会話は、それぞれ誰の言葉か、確認してみよう。 この話のおもしろさはどこにあるか、話し合ってみよう。 D重要古語 奉らす参らす かたはらいたしな(…そ) … J会 りこス ト

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日本史 高校生

空欄一問教えてください😰

第1編 原始。古代 7(武士団の成長】次の文章を読み, 下の問いに答えよ。 10世紀になるころ,地方では豪族や有力農民が武装するようになり, 各地で紛争が起こるようになった。 政府は中·下級貴族を押領使や( ① )に任命し鎮圧にあたらせたが,なかには現地の武装集団を従え、 そのまま現地に土着して,武士化するものも現れた。彼らは一族である( ② )や従者である(③ )を 率いて勢力を拡大し、武士団として成長していった。 10世紀のなかこごろ,関東では。平将門の乱が起こった。初めは一族内の争いであったが, やがて国 司とも対立するようになり,常陸·上野·下野の国府を攻め落とし,関東地方の大半を占領し自らを ( )と称した。同じころ, 西国では藤原純友の乱が発生した。もと( ⑤ )の国司であった純友は瀬 戸内海の海賊を率いて大宰府まで攻め落としたが,清和源氏の祖である( ⑥ )らによって討伐された。 同時期に起こったこの二つの乱を当時の年号から( ① )の乱とよぶ。 朝廷や貴族たちは武士の実力を認め,彼らを。宮中の警備にあたらせるとともに,地方でも国待や館 侍として組織し,治安維持にあたらせた。 問1 空欄( ① )~( ① )に適する語句を答えよ。 問2 下線部(a)について, 平将門の乱を鎮圧した人物を次から二人選べ。 mi おうりょうし ぶし たいらのまさかど こうずけ しもつけ すみとも せい わげん じ くにざむらい たち ざむらい さだもり イ.平貞盛 くに か ひでさと たかいえ ア.平国香 ウ.藤原秀郷 エ.藤原隆家 問3 下線部(b)について, 宮中の警備のために9世紀末に設けられたものを次から一つ選べ。 イ、西面の武士 たきぐち む しゃ さいめん ほくめん ア、滝口の武者(武士) ウ.北面の武士 エ.衛士 い久の2 問1 0追補座 の 家子 の 売 郎党 の 武士団 伊予 3) 濃結基 ①天優 ファもと の 問2 問3 7 てんぎょう

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日本史 高校生

こちらの問題あってますでしょうか? 字が雑で申し訳ないです、、

実カで地位 科員の登用も 1 れを機に如央子を正良親王 (明天邊) の妃とし。 天生家と絡びっ 人基の子導原良記は.仕明大便と順子の子道康玉を生子とするために男入し。 全貞親王を廃して本人勢や伴俸室を処出した (承和の変) とされる。 その後良房 は骨子を道康打王の妃とし, 親王が["-]天皇として即位すると2人の間に 生まれた仙人親王を筆太子とした。やがて皇子を 9 歳で即位させその外戚とし て実質的な摂政の役割を担い, 866年に正式に摂政となった。その年 @記天由の 放火事伯の犯人として大納言[5 ]を処罰し, 有力表族の力を抑制したのである。 麻原良房摂政の地位を引き継いだ華子の藤原基寿は。 対立した陽成天皇に議位 を師り, 時康親王を擁立して[6 ]天健とした。この天皇は884年にすべての政治 を太政大臣基経に相談すべきことを命じた。これが事実上の関白の初めで, 次の @宇多天皇が即位した時基経は政務を見結局天皇が語勅の非を認めるという 事件を引き起こして. 自らの実力を示すことで, 地位を確固たるものにした。 基経の死後。 宇多天皇は らを琶用して天條権威の強化に即めた。しかし |はぁ本三天畠の時に藤原氏の護言で大宰府に左居され。 基経の子で左大臣 の[し8_]が政権を准揚した。 その後, 969年に藤原氏による陰護とされる安和の変 が起こった。これは, か 時の 左大臣[10]が大宅権師に左遥された事件で,こののち, 放原氏が就任する摂政・ 関白はほぼ常置となった。 以後藤原北家では. 人 が妥発した。 と呼ばれた藤原道長は。 こうした状況を経て の と しての地位であり, ed なかった の頃から藤原氏の権勢は下降線をたどるのである。 人ei CCであり 中央では官温の任命に際して _ 売官の風が横行していた。 九州で1019年に11_]が起こった時、 時の大 |の指揮の下に在地の武士が夫了してこれを還退したが, この事件は, ていり了にすしのである。

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