学年

質問の種類

地理 高校生

9の方の問題です (1)学校の先生が、図のところに書いているのですが、これより右は新大陸と言っていたのですがどういうことなのかわからず教えていただきたいです (2)④なのですが、黒色土壌はチェルノーゼム、プレーリー土、バンパ土であってますか?ラトソルとかは褐色だから違うで... 続きを読む

● 第2問 世界の農業と日本の農業 問3 下線部に関して、次の図3は、2016年における穀物生産量の世界上位8 か国について 1ha 当たり肥料使用量と、農業従事者1人当たり農地面積を示 したものであり、円の大きさはそれぞれの国の穀物生産量を示している。図3 から読み取れることがらとその背景について述べた文として適当でないもの を次ページの①~④のうちから一つ選べ。 9 kg 500 ア 450 中国 400 11当たり肥料使用量 1 350 ⇒ 新大陸 300 250 200 インド 150 100 50 アメリカ -540 (百万トン) -300 -120 0 0 50 100 150 200 ha 農業従事者1人当たり農地面積 統計年次は2015年。 「世界国勢図会」 などにより作成。 図3 ①アは、今後も経済発展による肉類消費の拡大が続くと. 世界全体の肥料使 用量が増加することが懸念されている 光とかげ 肥料 ②イは, 1960年代から始まった高収量品種を導入する緑の革命により, 円 の位置が上方向に移行した。 アグリビジネス ③ ウは、食の安全への関心の高まりから有機農業を推進しているため 1ha 品種改良 当たり肥料使用量が減少している。 ④エは、穀物栽培に適した肥沃な黒色土壌が分布しているため, ha当たり 肥料使用量はア〜ウよりも少ない 竿かんそう. チェルノーゼム もともと肥沃 プレーリーエ パンパエ がんぞうちなぜ? やりそう地 問4 下線部に関して、次の①~④の文は、アメリカ合衆国 アルゼンチン. ウクライナ. 南アフリカ共和国のいずれかの国における企業的な農牧業の特徴 について述べたものである。 南アフリカ共和国に該当するものを. 次の①~ ④ のうちから一つ選べ。 10 乾燥 ① ほぼ全域が肥沃な黒土に恵まれ、小麦栽培が盛んであり、最近では多国籍 企業による農地開発が活発化している。 ウイライナ ②中央部の平原において、 穀物メジャーによる小麦やトウモロコシの栽培の ほか、牧牛が盛んである。 アメリカ ③山脈西麓に広がる高原において, トウモロコシ栽培と肉牛飼育を組み合わ せた混合農業が行われている。 南アフリカ ④ 北東部に広がる草原で. 主要産地の端境期を利用した小麦栽培のほか 牧場で牧牛や牧羊が行われている。 アルゼンチン 教90P 小麦カレンダー 端境期に小麦生産 ねだん高くできる

解決済み 回答数: 1
地理 高校生

下の④のところなのですが、アルゼンチンが端境期を利用しているとあるのですが、アルゼンチン以外だとどんな国が入るのですか?また、なぜそういう国があるのですか?気候とかが関係しているのですか? また、端境期の解釈なのですが、通常生産される時期以外に小麦とかを生産することによっ... 続きを読む

問4 下線部に関して、次の①~④の文は,アメリカ合衆国, アルゼンチン, ウクライナ, 南アフリカ共和国のいずれかの国における企業的な農牧業の特徴 について述べたものである。 南アフリカ共和国に該当するものを,次の① ④ のうちから一つ選べ。 10 乾燥 ~ ①ほぼ全域が肥沃な黒土に恵まれ, 小麦栽培が盛んであり、最近では多国籍 企業による農地開発が活発化している。 ウイライナ ②中央部の平原において, 穀物メジャーによる小麦やトウモロコシの栽培の ほか 牧牛が盛んである。 アメリカ ③ 山脈西麓に広がる高原において, トウモロコシ栽培と肉牛飼育を組み合わ せた混合農業が行われている。 南アフリカ ④ 北東部に広がる草原で, 主要産地の端境期を利用した小麦栽培のほか,大 牧場で牧牛や牧羊が行われている。 アルゼンチン 教90P 小麦カレンダー 端境期に小麦生産 ねだん高くできる

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

愛知医科大学看護学部の公募推薦の過去問です。 答えがないので、答えを出して欲しいです。お願いします🙇🏻‍♀️🙇🏻‍♀️

国 びまん 令和六年度 看護学部学校推薦型選抜(公募制) 基礎学力試験問題用紙 囲 次の文章は、一九九〇年に出版された山崎正和の『日本文化と個人主義』の一節です。この文 章を読んで、後の問に答えなさい。 文化は、これまで国家や民族という観念と強く結びついてきた。そして、人間の歴史を振返っ てみると、不幸なことに国家や民族の自覚はつねに対立抗争の意識とつながってきた。ひとつ の社会のなかで、個人もまたお互いに争うことがあるが、とりわけ国家や民族は、お互いに争う ことで自分自身をつくりあげてきた。その結果として、文化という特性はただの個人の特性以上 に、とかく他者との比較、対立の観点から考えられがちになる。じっさい、今日の経済マサツ や、つい近年までの世界戦争の現実を振返ってみても、ひとが自国の文化、他国の文化をあげ つらうときには、つねに何らかの意味の優越感や、国家主義的な自己主張の意識が伴っていた。 そして、そういう優越感が、たとえば敗戦といった現実によって崩れたとき、今度は極端な自己 卑下が社会に瀰漫するという事実は、多くの日本人の記憶に新しいことだろう。 こうした事情からして、文化論には、1二つの避けがたい危険な傾向が伴っているといわねば ならない。その第一は、過剰な特殊化の危険である。文化を考える場合には、他民族、他国の文 化と比較して考えがちであるので、どうしても両者の共通性よりは、ひとつの文化の異質性を強 調して考えることになる。 つい昨日まで文化的に じっさい、日本の場合、過去の文化論はしばしば民族主義や国粋主義と手を結びがちであった イクセプショナリズム し、アメリカの場合でも、アメリカ文化の「例外主義」という思想が、長らく見え隠れに受け 継がれてきたようである。ユダヤ人の「選ばれた民」の意識、ドイツ人の民族的な使命感といっ たものは、自国の文化を過度に特殊化し、他国との違いを強調することから生まれてきたが、 ③こうした使命感はいったん裏返ると劣等感に変貌する。 高村光太郎という詩人は、若いころフ ランス留学から帰って、日本の国の貧しさとその精神の狭さを嘆いて、「根つけの国」という自嘲 的な詩を書いたことがあった。しかし、彼が本性において強烈な愛国主義者であり、第二次大戦・ 中には過激な祖国讃美の詩を書いたことは、同時代を生きた日本人なら誰もが知る事実だろう。 とかく異文化との劇的な接触は、精神の単純な人物にとっては、自国の文化について過度な自尊 心を誘い出すか、逆に過剰な劣等感を刺激するものであるようにみえる。 そして、いずれの場合でも、そうした特殊化は、個人が自分の存在や行動について振返るとき、 奇妙に気持ちを安らがせてくれる支えになる。自分とは何か、7自己の実質は何かということは、 もともとたいへん難しい問題であり、簡単には答えが出ないものであるが、ひとは生きるために その答えを欲しがりがちである。そのさい、いちばん安易なやり方は、自分がどういう仲間に属 しているかを実感して、それを語ることで自己の中身を言い表わすことだろう。そして、自分 がどういう仲間に属しているかを振返るとき、その仲間の範囲が狭くて、他の集団と対立してい ればいるほど、自分自身の世界のなかにおける位置は明確になる。ここでもまた、文化論のひず みというものは、人間性の悲しい弱さに深く根ざしているといえそうである。 【

回答募集中 回答数: 0