学年

質問の種類

日本史 高校生

この問Iの答えが3なのですがどこが誤りなのでしょうか?解説いただければ嬉しいです。

次の文章を読んで,下記の設問(A ~J)に答えよ。解答はもっとも適当なものを1つ選び,解。 答記入欄のその番号をマークせよ。もし,適当なものが無ければ 6 をマークせよ。 日本人の伝統的な信仰形態はあらゆる自然物,自然現象に霊威を認め,かつ呪術により災いを避け,安寧を求めるこ とにある。それは古くは縄文時代の遺物·遺構にも見られ,弥生時代にも受け継がれ,ついに古墳時代には、今日見ら れるわが国固有の神祇信仰の原型がつくられるまでになった。 1 ロ ハ 朝鮮半島との交流により6世紀に入り仏教が伝えられた。仏教の受容をめぐっては中央豪族の 氏の対立抗争までひきおこしたが,結局は,聖徳太子の政治改革の思想的支えとなり、奈良時代には国家鎮護の宗教と なるなど,仏教は政治と密接に結びついていった。平安時代になると仏教の新しい展開が見られた。いわゆる密教の導 入である。密教は呪法や加持祈祷などにより現世利益を説いたため,貴族たちのあいだに信仰をえて広まっていった。 国風文化の波は宗教世界にもおよび,仏教とわが国固有の神祇信仰とが結ひびつきを深め,神仏習合の動きが加速され た。また,貴族政治の退廃や地方政治の乱れから武士の反乱があいつぎ,社会不安が増大した。ここに,現世の不安か ら逃れ,来世に救いを求める浄土信仰が急速に広まり,その流れは末法思想によって拍車がかけられた。浄土信仰は貴 族層だけでなく庶民の間にも広がり、鎌倉時代になり大きく発展してゆくこととなる。 ホ 氏と ヌ ル

解決済み 回答数: 1
日本史 高校生

進研模試2018年11月の日本史の過去問です。 問3が分からないので教えてください。 解答が分かる方は答えだけでもいいのでお願いします🙇‍♀️

日本史B問 題 問1 空欄 B に入る語句の組合せとして正しいものを, 次の1~4のうちか A (60 分) ら一つ選び、番号で答えよ。 【注意】·日本史B 受験者は, 次の表に従って4題を解答してください。 1 A 伴造 B 武蔵 (2 A 伴造 B 陸奥 3 A 健児 B 武蔵 4 A 健児 B 陸奥 選択コース ①原始から先に学習している人 の近現代から先に学習している人 解答する大問番号 問2 下線部(ア)に関して, これは推古朝で個人の地位を示すために設けられた制度での最 上位の冠位である。この制度を何というか, 漢字5字で答えよ。延位十= Pú 問3 下線部(イ)に関連して, 大化改新に際して出されたとされる「改新の詔」 は, 実際に 出されたものであるか疑間であるとする説もある。このことに関して述べた次の文X 飛鳥時代から奈良時代の政治に関する次の文章A·Bを読み,下の問い(問1~11)に Yと、それぞれの主張の理由について述べた下の文a~dとの組合せとして正しいもの 答えよ。(史料は, 一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)(配点 25) を,下の1~4のうちから一つ選び, 番号で答えよ。 A 大伴氏は古くからヤマト政権に参画して大王の親衛隊的な役割を担い。 として 軍事を担った氏族であった。6世紀後半にはそれ以前にくらべてやや勢力が衰えたが、そ の後も推古朝では大伴昨が活躍し, (ァ大徳の冠位を授けられた。。その子長徳はィ大化 A X 「改新の詔」 は, 後の大宝令などによって修飾された部分が多く, 実際に出された ものであるか疑間である。 z留転。 Y「改新の詔」 は, 後の大宝令などによって修飾された部分もあるが,これに相当す 改新とよばれる政治改革を進めた政府内で, 蘇我倉山田石川麻呂が滅ぼされた後に右大臣 に任じられた。また長徳の弟吹負は。 るものが実際に出されたと考えてよい。 い (ウ大海人皇子が皇位継承をめぐって挙兵した戦いで みゅき 大海人皇子側で活躍し,長徳の子の御行は持統朝で大納言となり.太政官の中心で国政を a「改新の詔」が掲載されている 「続日本紀』 は、 8世紀前半に編纂されたものであり、 まよつきみ 審議する議政官(公卿) となった。 この時期には議政官は従来の大夫の伝統を継承し, 有 内容には信恐性が薄いと考えられるから。 カ氏族から一名ずつ就任するのがふつうであった。 b 「改新の詔」で栽規定されている班田収授法や防人の設置は, この時期に施行された 御行の弟安麻呂は兄に続いて大納言となり, その子旅人も大納宮となった。 さらにその とは考えられないから。 c「改新の詔」に記載のある地方行政組織の 「評」が、 この時期に地方に設置された ことは事実だと考えられるから。 子家持も官人としての経歴を積み,晩年には参議となった。旅人家持は、 準人·蝦 夷との戦いにかかわるなど武人としても活動した。 聖武天皇は 749年, 国から金が献上されたことを喜び詔書を出したが、そのな d「改新の詔」が出された難波宮がこの時期に造営されたことや, この時期に一定の B 改革が進められたことは事実だと考えられるから。 かで特に大伴氏·佐伯氏などの天皇への奉仕をたたえた。これに感激したオ大伴家持は あづきゆみ 長歌を詠み、「梓弓 手に取り持ちて 剣大力 腰に取り偏き 朝守り タの守りに 大 1 X-a Y-c 2 X-a Y-d みかと 君の 御門の守り」 と先祖以来の天皇の親衛隊としての伝統を受け継いで, 一族として天 3 X-b Y-e @ X-b Y-d 皇に忠誠を尽くすことを高らかにうたった。しかし, 以後政争があいつぐなか, 家持自身 も含めて大伴氏は,橘奈良麻呂の変や藤原種継暗殺などの事件に関与し, しだいに衰退し ていった。

解決済み 回答数: 1