の中で初めて現実化される。
生徒のいない教師はいない。患者のいない医師や看護師はいない。教師としての、あ
るいは医師、看護師としての同一性は、たとえそれが一方的な関係であっても、やはり
相互補完的なものである。その意味で、いかなる人間関係であれ、そこには他者による
-自己の、自己による他者の「定義づけ」が含まれている。問題なのはそういう役柄の同一
一性でなく、端的に「誰」としてのこの自己の同一性である。このときに他者であるの
「そういう意味での
他者」とは、どうい
うものか
は教師でも医師でもなく、別の「誰」という単独的な存在である。そういう意味での他
者のいずれに対しても、自分の存在はなんらの意味を持っていないのではないかという
思いにとらわれたとき、人はひどく落ち込む。
求められるということ、 見つめられるということ、語りかけられるということ、時に
は愛情のではなくて憎しみの対象、排除の対象となっているのでもいい、他人のなんら
かの関心の宛て先になっているということが、他人の意識の中で無視し得ないある場所
を占めているという実感が、人の存在証明となる。寺山修司もある文章の中で触れてい
るが、人は「誰もわたしに話しかけてくれない」という遺書を残して自殺することだっ
5寺山修司 一1九三五|1九
八三。歌人·劇作家。
5PAP州ゅう じ
てあるのである