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数学 高校生

写真の下線部はトルエンを中性条件下、過マンガン酸カリウムで酸化した時の半反応式なんですが、酸性条件下の時も、半反応式での生成物は安息香酸イオンになんですか?

+ KOH + H20 補足欄 芳香族化合物と溶媒 芳香族化合物は中 和されて塩になって いるとき以外は水に 難溶である。 芳香族化合物はジ エチルエーテルやベ ンゼンのような有機 溶媒によく溶ける。 ただし, ベンゼン スルホン酸は水に溶 けて強酸性を示し, ジエチルエーテルに 溶けない。 同様な反 共有結合性物質中の各原子の酸化数は,各結合ごとに共有 電子対を電気陰性度の大きい方の原子にすべて属するとして定 義している。 ある原子に属する電子がx個減ると酸化数が増 加し,x個増えると酸化数がx減少する。 トルエンから安息香酸への酸化の場合は次のようになる。 H • HD (HO) HOP -H OHOH. H OH 「変化するところだけ考えると, トルエンのC-H結合の電子対は すべてC原子に属するが, 安息香酸のC-O, C= 0結合の電子 対はすべて原子に属する。その結果,炭素原子に属する電子 が6個減るので、電子を6個失い相手に与える。 中性条件下の酸化還元反応なので、電荷のつり合いに OH LON を用いると、反応式は次式のように表される。 → CiHsCH3 +7OH -- C6H5COO +5H2O +6e MnO4 + 2H2O + 3e ¯ MnO2 +40H ① 式 + ②式×2(e-消去) より CHgCH3 +2MnO4 CeHCOO+2MnO2 + OH +H2O とより、ブ フェノールだけが遊離 するので、これをジ エチルエーテルで抽 出する。 残った水浴 液に塩酸を加えると 安息香酸の結晶が析 出する。 BAHORND 121

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漢文 高校生

このページがなかなかわかりません😭😭 答えを教えていただけるとありがたいです🙏🏻

書き下し文に従って訓点を付けよ。 但し、ハイフン(-)の必要な場合 もある。 (孔子集語) ①吾 何 為 不死 われなんす 何れぞ死せざらんや。 (史記) 酒 安 足辞 危酒安くんぞ辞するに足らん。 ③此 不謂適 而 何 謂 適(枕中記) 適すとはずして、確か適すと謝はん。 ⑨卻看妻子愁何在 (杜甫聞官軍収河南河北) 妻子を欲りてひくにからん。 2 現代語訳に従って書き下し文にせよ。但し、送り仮名を省いた箇所もある。 ちう ちゃうトシテ シマン ①奚 帳 面独悲。 (帰去来辞 ) (どうして恨み嘆いて独りで悲しもうか、いや悲しみはしない。) カヒテニ ②向月胡誰喜聞 かのうた (岑参・胡歌「送顔真卿使赴河麗」) (月に向かって吹く胡《葦の葉を巻いて作った笛》はだれが聞いて喜ぶ だろうか、いやだれも喜びはしない。) クンゾ ③会面安可」期。 (古文真宝前集) ([再び会えることはどうしてあてにできようか、いやあてにすることはできない。) ② 375反語形 1:35 (三国志) ① 誰 知其然 (それがその通りであることをだれがわかろうか、いやだれもわからない。) ( 呂氏春秋) ②笑 (どうしてできないでしょうか、いやできます。) なんそんてっこうろく (南村綴耕録) 安 可 賞 ([戻ってきたお金は半分なのでどうして落としたお金を拾ってもらったお礼 をすることができようか、いやできはしない。 「賞」= しやうス。 「お礼をする」 の意。) ゆうだいせんかんひっ ④ 吾 何 無 (右台仙館筆記) (私はどうして妻がいないことを嘆こうか、いや嘆きはしない。「患」=うれフ。) 2 次の各文を現代語訳せよ。 あたヘン ニ むすめ もうぎゅう ①奈何予之女 (蒙求) カランヤ 家事何与 1110 先生。 (履園叢話) (家庭内のこと) (かかわりがある) ③ 土烏能神。 (永州竜興寺息壌記) (地面) ラン ④籍何 以至 此。 (人名) (史記) S ナランヤ 10 (こういうこと) ●

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現代文 高校生

山崎正和さんの、水の東西という作品です。 傍線部分の、「そういうこと」とは、どういうことか教えていただきたいです。

SURB! O そののちにや、良秀がよち 山崎正和 水の東西 「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌のなかに、なんとなく人生のけだるさのようなものを感じることがある。 かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、や がて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気にとけて水受けが跳ね上がるとき、竹 が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。 見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし 何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも 引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせきと め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。 私はこの「おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介され るなかで、あの素朴な竹の響きが西洋人の心を魅きつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに 忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聴くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴 水の方が、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。 流れる水と、噴き上げる水。 そういえばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場にはいたるところにみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に 行けば、噴水はさまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という 噴水の群れが庭をぎっしりと埋めつくしていた。樹木も草花もここではそえものにすぎず、壮大な水の造型が轟きながら林 立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音をたてて空間 に静止しているように見えた。 時間的な水と、空間的な水。 そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統のなかに噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘 って水を見ることはあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代にいたるまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の 都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜け て、表情に乏しいのである。 西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発 達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そ ういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮した りねじまげたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。 言うまでもなく、水にはそれ自体として定まったかたちはない。そうして、かたちがないということについて、おそらく 日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむ しろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、かたちなきも のを恐れない心の現れではなかっただろうか。 見えない水と、目に見える水。 もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。た だ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本 人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。

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