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徳川家康はどうして朱印状をだしたんですか?

輸入 しゅう 輸出 2 いえやす 家康はどうして このような しゅいんじょう 朱印状を 出したのかな。 やまだながまさ 山田長政 ?~1630 タイの家 とうせい | 貿易統制へ 1 1 しゅいんせんぼうえき |朱印船貿易から 生系 60% PUNERE Gesam DVD B 毛織物・木綿・麻布 銀 88% その他 4 417世紀前半の貿易品目 〈「日本歴史館」〉 丹西久月 明織物 21 7 わた 山田長政は, 1612年ごろに長崎からシャ ム (タイ)のアユタヤにあった日本町に渡り ました。 このころ、日本とタイの間では質 夢が盛んに行われていました。 やがてアユ タヤの日本町の謎となった長政は外交で かつやく 躍するなどしてシャム祭王の信頼を得て、 大臣と同じくらいの地位に就きました。 し し、王室の多いに巻き込まれ 1630年に *** その他 12 しゅいんじょう 朱印状朱印は徳川家康のも のです。 (公財) 前田育徳会蔵〉 しゅいん じょう 資料活用 1.この朱印状は日本か らどこへ行くためのものだろうか。 2. この行き先を図版3で探してみ よう。 2朱印船<『朱印船交趾渡航図巻」 福 岡県 九州国立博物館提供) 学習 課題 東アジアと 朱印船貿易 朱印船の航路 その他の航路 ・白本町 ■日本人の住む場所 ○ その他の港 スペインの領土 | ポルトガルの領土 1 オランダの領土 あんなん 安南 澳門 (ベトナム) ハイチン シャム ハイフォン (タイ) フェフォ/南シナ海 ... 海南島 ●カンボジア プノンペン →p.77 アユタヤ ツーラン バンコク リュールフ マラッカ インド洋 0 1000km ブルネイ カリマンタン島 (ボルネオ) 寧波 朝鮮 富山国 FELIDA (台湾) 吉のころに引き続いで行われました。 p.107 マニラ 「ぼうえき 4317世紀初めの日本と東アジアの貿易 薩摩 りゅうきゅう 琉球王国 ルソン ハンド(フィリピン) 最大の日本町 | 2000~3000人 が居住 テルナテ アンボイナ! さか ふ きょう 江戸幕府は、盛んになっていた貿易やキリスト教の布教に,どの ように対処していったのだろうか。 日本 ニューギニア島 とくがわいえやす ちょうせん つしま 徳川家康は,朝鮮と交流のあった対馬 (長崎県)の p.112_ そう こうしょう とよとみひでよし こわ 宗氏に交渉を命じて、豊臣秀吉によって関係が壊れ →p.105 「かいふく みん た朝鮮との国交を回復しました。 明とも国交を回復しようとしまし →p.117 →p.76 たが、正式な貿易はできませんでした。 東南アジアとの貿易は、秀 りえぎ どくせん 家康は、利益を独占するために貿易を統制下に置くことを考え, 外国と貿易する大名や豪商に、海外への渡航を許すという証書(朱 印状)を与えて収入の一部を幕府へ納めさせました(朱印船貿易)。 1 また,東南アジアの国々に対しても,朱印状を持つ船(朱印船)の安 ほしょう せいき 全を保証するよう求めました。 さらに, 17世紀になってヨーロッ パで台頭してきたオランダやイギリスからの貿易の求めにも応じま p.99 R.152 した。これらの貿易を通じて,幕府は正式な貿易ができない明の生 ゆしゅつ ゆにゅう 菜・絹織物なども輸入し,日本からは主に銀を輸出しました。 朱印船貿易の結果,多くの日本人が東南アジア各地に渡り、ルソ 人物 あんなん ン (フィリピン), 安南(ベトナム), シャム(タイ)などの主な港や都 15 にほんまち 市には日本町が出来ました。また、西日本の城下町などでは、戦国 とうじんまち きょじゅう 時代のころから唐人町とよばれる外国人居住区が成立しました P:101 公民との関題 日本町 (小), キリスト教の禁止 (小), 東南アジア (地) 10 年 1601 1607 1609 1611 1612 1613 1616 1623 1624 1635 1637 1639 1640 1641 5 45 キ 神 イ に 1 10 C 15

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古文 高校生

羅生門 左ページの14行目 「実はこの衰微の小さな余波にほかならない。」は、どういう意味ですか?? 京都の町が衰微しているのに対し、下人が暇を出されたのは個人的な事だし、京都の町にほんの僅かな影響しか及ぼさなかったという考えで合ってますか?

羅生門 羅生門の下で雨やみを待っていた。 ある日の暮れ方 れ方のことである。一人の 広い門の下には この男のほかに誰もいない。ただ、ところどころ丹塗りの剥げた、大 きな円柱に きりぎりすが一匹とまっている。 羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男 のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二、三人はありそうなものである。 それが、この男のほかには誰もいない。 象 なぜかというと、この二、三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか飢饉とかいう災 いが続いて起こった。そこで洛中のさびれ方はひととおりではない。旧記によると、 や仏具を打ち砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、道端に積み重ね て、薪の料に売っていたということである。洛中がその始末であるから、羅生門の修理な どは、もとより誰も捨てて顧みる者がなかった。するとその荒れ果てたのをよいことにし て、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引き取り手のない死人を、この門へ 持ってきて、捨てていくという習慣さえできた。そこで、日の目が見えなくなると、誰で ぬすびと 5 も気味悪がって、この門の近所へは足ぶみをしないことになってしまったのである。 その代わりまたからすがどこからか、たくさん集まってきた。昼間見ると、そのからす が、何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを鳴きながら、飛びまわっている。殊に門 の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたように、はっきり見えた。 からすは、もちろん、門の上にある死人の肉をついばみに来るのである。 今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、ところどころ、崩れかかった、そう ―もっとも してその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、からすの糞が、点々と白くこびりついてい るのが見える。下人は七段ある石段のいちばん上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据え て、右の頬にできた大きなにきびを気にしながら、ぼんやり、雨の降るのを眺めていた。 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた。と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、 格別どうしようという当てはない。 ふだんなら、もちろん、主人の家へ帰るべきはずであ る。ところがその主人からは、四、五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京 都の町はひととおりならず衰微していた。今この 真面目 使われていた主人から、 暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを 待っていた。と言うよりも、「雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれ ていた」と言うほうが、適当である。そのうえ、今日の空模様も少なからず、この平安朝 ギツネとタヌキ こと 勢いが衰えて 弱くなる 芥川龍之介 PAR 1羅生門 平安京の に当たる市中最十 らじょうも 門。羅城門。 2丹塗り 丹(赤 は赤色の絵の具 いた塗装。 5 3ぎりぎりす の古名。 4朱雀大路 平安 央を南北に貫 5市女笠 すげ、 竹皮などで編 塗りの中高の では、それを 女。 なかだか る採烏帽子 んでしわ なお。そのよ。 ここで ぶった甲 7洛中 8旧記 +7 部分の記 に見える。 9尾 宮 両端に取 の尾の形 SEALLA 10襖 襖子。 仕立ての庶 「この衰微 波」とは、 とか。 *ひととおり

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