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世界史 高校生

世界史のプリントで空欄の部分がわからないです、、 教えてください💦💦お願いします、

【3】 文章中の空欄にあてはまる適切な語句を記入しなさい。 回 中世ヨーロッパには支配階級の 1 聖職者と2騎士、支配を受ける階級の 3 農民1 といった身分制度があった。支配階級の 騎士は4土地 によって支配関係が成り立っていた。農民は_6 5 た。農民は _と呼ばれた。その後、鉄製の農具が使用され、農地を三つに分ける9 力が向上した。領主は_10不輸の権といって税を拒否する権利や、11不人の権 ar _ を仲立ちとした主従関係である、 JAN によって支配されてい って国王を支配する土地に立ち入らせない権利を持っていた。そのため、有力者に進んで土地を譲り渡す、 12 が行われた。これを受けた教皇の権力は増大し、13イン/テンティウス3世 ときに絶頂となった。 国東 11世紀にはローマ教皇によって200年間に7回にわたって 140 教皇 15 ウルバヌス2世は1095年に 16 クレルモン宗教会議 征軍の派遣を決定した。 第一回目の遠征軍はパレスチナに 17エルサレム王国 _を開いてこの遠 というキリスト教国 家を建設することに成功した。 第四回遠征軍はコンスタンティノープルを占領して 18 ラテン帝国西 建設した。 083 に服さなければならず、土地を離れることができなかったために、 8 圃農法によって生産 とい の _が派遣されるようになる。 ち ①帝 EVE すぐ 【4】 以下の問いに答えなさい。 第5回放送講座から出題しています。 1. 教皇によって遠征軍が派遣された目的はどこを取り返すため? 2. 教皇は誰からの救援に応じて遠征軍の派遣を決定しましたか? 豊一イェルサレム ビザら皇国 OF 140* 81 3. 第四回遠征軍はどのような人々の要求によってコンスタンティノープルを占領しましたか? ヴェネツィア商人

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世界史 高校生

世界史B【至急】 ()の中に入る語句を教えてください‼️75問もあって申し訳ないのですが、よろしくお願いします🙇‍♀️🙏

次の文章の )に適する語句を入れ、 ノ帝の死後、( 2 ) 年にローマ帝国は東西に分裂した。東ローマ帝国は、別名をビザン H国のといい、( 3 ) 年にオスマン皇帝に減ぼされるまで長く存続した。一方西ローマ帝国は 4)年、ゲルマン人傭兵隊長( 5 )によって滅ぼされた。( 6 )人の侵入により、(7 ) 、グルマン人②の一派 ( 8 ) 族が、ライン川·( 9 ) 川を越えてローマ領内に移住してきた 天機に大移動を始めた。西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパにはゲルマン人国家が成立して たが、その中でも強勢を誇ったのが、フランク王国である。フランク王国では、481年、( 10 ) がメロヴィング朝を創始し、( 11 ) 派に改宗したことで、 発展の基礎礎を固めた。 メロヴィング朝では次第に家政の長官である宮宰が力を持ち、 特に( 12 )は732年、( 13 ) の戦いでイスラム勢力③を破り、 実権を握った。その子、( 14 ) は教皇の支持を得て、メロヴィン グ朝を廃し、( 15 ) 朝を創始した。教皇は、ビザンツ皇帝( 16 9と、やむをえない事情④からそれに対抗せざるを得なかったが、西ローマ帝国滅亡以来、政治的保 護者を失っていたため、フランク王国との結びつきを求め、(15) 朝を承認した。 その見返りに教皇は (14)から( )が726年に( 17 ) を出 18 )地方を寄進され、これ以来教皇領という経済的基盤を得た。 さらに教皇( 19 ) は、(14)の子カール大帝⑤を ( 20 ) 年に戴冠した。このできごとは、政治的には西ヨーロッパ世 界の再統合、宗教的には東西教会の分離、文化的にはローマ·キリスト教·ゲルマンの文化を融合さ せたという意義がある。 カール大帝の死後、843年に( 21 ) 条約、870年に( 22 ) 条約が結ばれ、フランク王国 は分裂した。西フランク王国は後のフランスとなり、東フランク王国は後のドイツのもととなり、中 部フランク王国は後のイタリアのもととなった。各国で (15) 家が断絶すると、イタリア地方では都 市·諸侯の勢力が分立する状態となり⑥、同じく西フランク王国では ( 23 ) 伯ユーグ=カペーが カペー朝を創始したが、諸侯との力の差はなく、王権は弱体であった。 この頃のヨーロッパは、ノルマン人⑦やアジア人·スラブ人®、イスラム勢力などの外敵の侵入を 受けるようになった。中世ヨーロッパではローマの ( 24 ) 制とゲルマンの( 25 ) 制を基礎と して成立した封建制が成立し、 そのもとで主従関係を結ぶ国王や諸侯などは荘園③領主でもあった。 このような社会を封建社会といい、その性格は時代とともに変化していった。 一方東フランクでは、919年から( 26 ) 朝が始まり、第2代の王( 27 )は955年( 28 ) の戦いで( 29 ) 人を倒すなどした功績が認められ、( 30 )年に戴冠された。これにより ( 31 ) 帝国が成立した。皇帝は、聖職叙任権を握って教会組織を統治に利用する帝国教会政策を行い、 また その強化のために ( 32 ) 政策と呼ばれる遠征を行った。皇帝が (32) 政策に没頭することは、帝国 内における諸侯の台頭を招き、 帝国の分裂、 衰退へとつながった。 一方9世紀から10世紀にかけて、カトリック教会@では、( 33 ) や妻帯に象徴されるような腐 敗、世俗化が進んでいた。 この状況を刷新すべく、フランス中部で開墾運動を行った 道会や托鉢修道会などが活動する中、 改革の中心となったのが、 ( 35 道院出身の(36 ) は、聖職叙任権を教会に譲るよう、皇帝( 37 ).に求めたが、 応じなかった。 そのため、( 38 ) 年教皇は、皇帝を破門して屈服させた。このできごとを ( 39 ) という。 聖職 叙任権闘争は1 122年 ( 40 ) により終結した。 このような教皇権の拡大は、 耕地を三分して春耕地· 秋耕地·休耕地とする ( 41 ) や重量有輪率 などの普及によって、 ヨーロッパの農業生産力が向上したことなどに伴い、 「キリスト教世界の拡大」 という動きへとつながっていく。 例えば ンキス②タがあるが、中でも1096年教皇 ( 43 ) が ( 44 ) 公会議で提唱したことにはじま る十字軍はその象徴といえる。第1回十字軍では聖地をイスラム教徒から奪還し、( 45 ) 王国が建 国された。しかし、( 46 ) 朝のサラディンによって、反撃を受けたため、 第2回· 第3回の十字軍 が編成された。 特に第3回十字軍では、イギリス王( 47 )、フランス王( 48 )、皇帝 ( 4 )が軍を率い、十字軍の最高潮期と言える。一方第4回十字軍は、 ( 50 ) 商人の策謀により、 商敵である ( 51 ) を占領し、( 52 ) 帝国を建設しており、 宗教的性格は弱まった。 第5回 十字軍は皇帝 ( 34 )派修 )修道院であった。(35) 修 42 )川以東への東方植民①、教会の開墾運動、レ=コ 9 53 )によって行われ®、 外交交渉により聖地を一時奪回した。 第6·7回十字軍 フィリップ

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