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古文 高校生

1枚目の「奉り」の敬語の方向が知りたいです。2枚目の「奉り」は謙譲語なのになんで帝を主語にできるんですか?敬語の方向も知りたいです。解説をお願いします🙇‍♀️🙇‍♀️

旨 禁中に変化の者が現れ、貞房が「錦木」の和歌を詠んで退ける。貞房は「錦木の将軍」と呼ばれるようになった。 本文確認・現代語訳 要 きた ある時、禁中には変化の者、夜な夜な出で来りて、玉体をなやまし奉り、不思議多き中に、丈六尺ばかりなる男の、烏帽子、 夜な夜な出て来て、 帝のお体を苦しめ申し上げて、不思議なことが多い中に、身の丈が六尺ほどの男で、烏帽子、 ある時、宮中には化け物が、 狩衣着たるが、夜の大殿の東の方よりさしのぞき、おのれが胸をうちさすり、大息ほつとつき、「胸あはずして」と言ふ。声聞 大きな息をほっとつき、「胸あわずして」と言う。 自分の胸をさすり、 狩衣を着ている者が、帝の寝所の東の方からのぞいて見て、 声は 過去 おほんうら 消推・止 にしき く者の骨髄に通り、すさまじきことかぎりなし。「これただごとにあらじ」とて、神祇官にして、御占ありければ、「昔、奥州錦 聞く者の骨髄に通り、 ぞっとすることはこの上ない。 「これはただごとではないだろう。」 ということで、神祇官において、御占いをなさったところ、「昔、奥州の 婉曲・体 完了・体は過去 木の郡にて、女を恋ひかねて、むなしくなりたる男侍りしか。 その執心この世に留まり、君の御うつくしみを受けんため、かや 錦木ので、女を恋しく思う気持ちをこらえられないで、死んでしまった男がおりました。 その執心がこの世に留まり、帝のご慈愛を受けるために、 使役・用 過去 完了已 うにふるまひ候ふ」と奏開しければ、奥州へ勅使を立て、くだんの者の墓所にて、さまざまの法事を行はせ給ひたれども、禁中 奥州へ使を立て、 ように振る舞います。」と奏上したので、 例の者の墓所で、 さまざまの法事を行わせなさったが、 宮中 の騒ぎは変はることなし。 また公卿、詮議ましまして、さらば器量の武士におほせつけて退治あらん、東西の将軍にこのよし宣 それならば優れた武士に命令なさって退治しよう、と、 東西の将軍にこの旨の宣旨が くぎやろ せんぎ の騒ぎは変わることがない。 また公卿が、協識なさって、 ラ下二・巳 さんだい たち 旨ありければ、おのおの大剛の者を選び、引き具して、日暮 おのおの大変強い者を選び、 あったので、 うかがひ給へども、矢にも当たらず、太刀にもか れば参内あり。 日が暮れると参内する。 のぞいて見なさるが、 矢にも当たらず、 引き連れて、 太刀にもかか 消 完了・体 とうのじじゅう 意志・止 からねば、みな難儀してゐたるところに、藤侍従進み出でて、「君の御許し候はば、この変化の者をば貞房しとめ申さん」と申 らないので、 皆難儀していたところに、 藤侍従が進み出て、 「帝がお許しになりますならば、この化け物を貞房がしとめ申し上げよう。」と 尊敬・用 あそん ナリ体 推量・体 過去・ い。」とおっしゃったので、侍従殿は腹が されければ、将軍の宮聞こしめし、「朝臣や、抜群なる望みし給ふかないかで後手にかなふべき」とおほせければ、侍従殿腹 申し上げなさったところ、将軍の宮がお聞きになり、「朝臣 どうして後からやって勝てようか、いや、勝てま 貞房〉よ、甚だしい望みをしなさるものだなあ。 過去・止 断定・体 立ち、「田村俊仁は五歳にて大蛇をいただき侍りき。武家の大将たる身は、老若に限り候ふまじ。存ずる子細の候ふ」とて、 消推・止 こぼり としひと ひんがし WILSH 20 じんぎくわん とど さだふさ たま この

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なぜ明はモンゴル民族を追いやる事ができたのですか?🙇🏻‍♀️

KE 文行 AL CE 北朝 開廷部 未差為 是関 日本防 国事 編 来置 使日 人本 要曲 合 本 むろまち 室町時代の日本は、 東アジア諸国とどのような関 うか。 にちみん 日明貿易 おとろえると, 漢民族が明を建国し, モンゴル民族を北に追い出 みん しました。 元がおとろえるころから, 西日本の武士や商人、漁民 の中には, 集団を作って貿易を強要し, 船をおそい, 大陸沿岸を あらす者が現れ, 倭寇と呼ばれていました。 こう 34 14世紀には, 東アジアでも大きな変動が起こ りました。 中国では,元が国内の混乱などで ちゅうごく げん あしかがよしみつ 足利義満は明の求めに応じて倭寇を禁じる一方,正式な貿易船 に,明からあたえられたという証明書を持たせ、朝貢の形の ちょうこう p.35 にちみんぼうえき かんこうぼうえき 日明貿易(勘合貿易)を始めました。 →p.92 いおう しっき この明との貿易では,日本は刀や銅、硫黄, 漆器などを輸出し, 2 きいと とう じき かわりに銅銭や生糸, 絹織物,書画, 陶磁器などを大量に輸入し えいきょう たので,日本の経済や文化は大きな影響を受けました。 ちょうせん 朝鮮との貿易 世紀 さいばい 新たな技術を積極的に取り入れて綿の栽培を 後見返し 始める一方, 書物の印刷に金属の活字を使いました。 14世紀末に ちょうせんこく は,季成桂が高麗をほろぼして朝鮮国を建てました。朝鮮ではハ イソン ゲ 1 ングルという文字を作るなど,独自の文化が発展しました。 6 この見開きの時期 ▼ 6 7 8 9 10 11 12 13 14 BC AD 1 こうらい 朝鮮半島では,元に服属した高麗が中国から 2 3 4 5

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写真の下線部が分からなかったので説明お願い致します🙇‍♀️ また、なぜ幕府は徳政令を出して御家人を救おうと思ったのですか💭

ぼうへき 2 本に攻めてきました。 しかし、 幕府が海岸に築いた石の防壁や、 こけにん かつやく 御家人の活躍で、元軍は上陸できず, 暴風雨にあって大損害を受け, ごうあん えき 6 げんこう 引きあげました (弘安の役)。 この二度の襲来 (元寇) の後も、元は えんせい 日本への遠征を計画しましたが, 実際には行われませんでした。 このように戦いはありましたが、 元と日本との民間の貿易は行 ぜんしゅう そう われており, 禅宗の僧も日本と元との間を行き来しました。 ➡p.75 E かまくら めつぼう 鎌倉幕府の滅亡 日 ぶん 幕府の支配を支えていた御家人は、領地の分 とく 放す者もいました。 幕府は, 御家人が手放した土地を返させる徳 un 7 10 政令を出して救おうとしました。 しかし、モンゴルの襲来に備え かつ 割相続によって生活が苦しくなり、 土地を手 るために北条氏の一族に権力を集中させると、 幕府への反感が強 まりました。 かまくら 一方、鎌倉時代後期に全国で交通が活発になると、物資が集ま きん る港を支配して豊かになる武士が現れました。 経済が発展した近 20 畿地方を中心に, 荘園領主や幕府に従わず、年貢をうばう武士も しょうえん p.277 ねんぐ 現れ、 悪党と呼ばれました。 ごだいごてんのう ちょうてい こうした中、後醍醐天皇は政治の実権を朝廷に取りもどすため、 幕府をたおそうとしました。 天皇は, 一度は隠岐 (島根県) に流さ しまね くすのきしげ れましたが, 楠木正成などの新しく成長した武士や, 有力御家人 あしかがたかうじ の足利尊氏などを味方に付け, 1333年に幕府をほろぼしました。 モンゴルの襲来後、御家人の生活が

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なぜ足利尊氏や楠木正成は後醍醐天皇に味方したのですか?

ぼうべき2 本に攻めてきました。 しかし、 幕府が海岸に築いた石の防壁や、 かつやく こけにん 御家人の活躍で, 元軍は上陸できず, 暴風雨にあって大損害を受け 20 こうあん ばんこう 引きあげました(弘安の役)。 この二度の襲来 (元寇の後も、元は えんせい 日本への遠征を計画しましたが, 実際には行われませんでした。 このように戦いはありましたが, 元と日本との民間の貿易は行 ぜんしゅう そう われており、禅宗の僧も日本と元との間を行き来しました。 →p.75 かまくら めつぼう 鎌倉幕府の滅亡 幕府の支配を支えていた御家人は、領地の分 かつ 割相続によって生活が苦しくなり、土地を手 まりました。 放す者もいました。幕府は,御家人が手放した土地を返させる徳 高麗や せいれい 7 動きが強 10 政令を出して救おうとしました。 しかし, モンゴルの襲来に備え るために北条氏の一族に権力を集中させると, 幕府への反感が強 かまくら 一方, 鎌倉時代後期に全国で交通が活発になると、物資が集ま る港を支配して豊かになる武士が現れました。 経済が発展した近 きん ah p.277 15 畿地方を中心に,荘園領主や幕府に従わず、年貢をうばう武士も 現れ、悪党と呼ばれました。 あくとう カップ こうした中、後醍醐天皇は政治の実権を朝廷に取りもどすため、 幕府をたおそうとしました。 天皇は、一度は隠岐 (島根県) に流さ おき しまね くすのきしげ れましたが, 楠木正成などの新しく成長した武士や, 有力御家人 こう あしかがたかうじ の足利尊氏などを味方に付け, 1333年に幕府をほろぼしました。 弘安の せん! 三の丸尚 d が言 る。 **** 買関 を で目 は 2節

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武士が、領地を皇族や貴族、寺社に寄進していたのは何故ですか??🙇‍♀️

成長した武士団の中でも、天皇の子孫である 源氏と平氏が有力でした。 11世紀後半には, とうぼく ぜん く 5 東北地方の武士どうしの争いをきっかけにした大きな戦乱 (前九 しょうえん 武士団と荘園 ねんかっせん こ さんねん 年合戦 後三年合戦)が起こりました。 この争いをしずめた源氏 . みなもとのよしいえ いわて の源義家が東日本に勢力を広げ, 東北地方では平泉(岩手県)を きょてん おうしゅうふじわらし 3 拠点に成長した奥州藤原氏が力を持ちました。 12世紀前半には、 かいぞく 瀬戸内海の海賊をしずめた平氏が西日本に勢力をのばしました。 10 地方の武士は、地位や武力を利用して土地の開発を進め、領地」 き しん を都の皇族や貴族, 寺社(寺や神社)に寄進しました。 こうした 1070 園では, 武士が年貢を農民から集めて納めるかわりにその土地を ➡p.45 5⑤ 支配する権利を保護してもらい、 力をのばしました。 一方, 荘園 こくし こうりょう 以外の国司が支配する土地(公領) でも、武士が犯罪の取りしまり ➡p.43 や年貢の取り立てを任されるようになりました。 やかた こうして11世紀の後半には, 武士は荘園や公領に館を築いて 地方の社会の中心になっていきました。

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