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地理 中学生

中学一年生の方、公立中学校に通っている方、教科書が同じな方、このページはもう授業でしましたか?したならどこまでしましたか? 教えてくださると助かります! それと、中間テストの地理の範囲を分かってる方はご自分の範囲で良いので教えてくださると助かります!

「第2章の問い日本の位置や広がりには、どのような機。 120度から155度の間にあり,オーストラリアと同じくらいで 球で、日本と同じくらいの緯度の国を探してみると,ニュージー すがた あるのだろうか。 P.14~24 第2章||日本の姿 こく *2日本と同じくらいの緯度にあるアメリカ合衆国(ニューミ 0日本と同じくらいの緯度にあるイタリア(ローマ) -B日本と同じ緯度。 けいどはんい 東経 120° 東経 155 同じ経度の範囲 -80° ロシア 大 北半球で日本 と同じくらい の緯度にある イタリアローマ 日本 「東京 アメリカ合衆国ニューヨーク 40° 中 国 -20 北場20 国は、どこの 赤 道 国かな? インド洋 大 平 洋 20 オーストラリア 40° ニュージーランド アルゼンチン 60° 地球の反対側に日本を移した位置 0° 80° 100° 120° 140" 160° 180° 160" 140° 120 100 80° 40° 20 20° 40° 60° たし い ど けいど 学習 私たちが暮らす日本の位置は,緯度·経度で見た場合や,世界 世界の中での 課題 他地域から見た場合,どのように表されるのだろうか。 日本の位置 ど 世界の中での日本の位置を説明するには 1部第1章で学習した緯度,経度や,周りの けいど 緯度·経度で 見た日本の位置 いど けいど 北極 →p.8 陸や国との位置関係で表す方法などがあります。 緯度,経度を用いて日本の位置を見てみると,緯度では、ロイ およそ北緯 20度から 50 度の間にあり、アメリカ合衆国やサー アフリカ大陸北部からヨーロッパ南部などと同じくらいで ほくい がっしゅうこく 45°33Y A120'25 いこ 『んい *口増度で見た日本の南北の範囲日本は面積 のわりに,国土が広がる闘度 経度の範囲が広 い国となっています。 14 小学校●歴史●公民との関連世界の中での日本の位置(小) 日本の南北の範囲

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世界史 高校生

歴史総合の「世界をめぐる銀の流れ」という単元のものなのですが、2枚目のプリントの東アジアのところが何を書けばいいか分かりません( ߹꒳​߹ )助けてくださいᔦᕀ ᕀᔨ

の強大な国家に対してはあまりに無勢であった。 中国との貿易を有利に進める策をとった。まず、 い暴力的に各地の産物や人間を略奪したが、アジャ に金本位制を採用したイギリスは、「世界の工場」「世界の銀行」 としての 地位を背景に国際金本位制を打ち立てていく。こうして,世界経済を結ぶ カトリックの宣教師とともに世界各地に進出した 15世紀後半以降,ポルトガルスペインの商人、 前近代の世界-69 世界をめぐる銀の流れ 15世紀後半以降,ポルトガル·スペインの商」 カトリックの資教師とともに世界各地に進出し、 赤教活動を支援しつつ,地中海経由で入手して。 アジアの物産を直接獲得するための動きであっ 彼らは、アフリカやアメリカでしばしば銃極。 い暴力的に各地の産物や人間を略奪したが、ア の強大な国家に対してはあまりに無勢であった。 のため16世紀なかばから、海外の銀を用いて特、 せん |1600年前後 における駅 の材動量 日本 シア50-80 万量の長績 ヨーロッパへの 輪出(約250) 石見山 セビリト まさ コ ガレオン編 5-500) 食料 オン編 50) とし モザンビー 工業 は ルトカルによるアジア への副解出( ジアの既存の交易ネットワー クに参入し、各地の貿易商人 きそん のた 94年 ルデシリャス約 よる分界線 16-17世紀の世界と銀の流れ 15世 半以降、アジアの物産を求めて、 ーロッパ勢力が世界進出を本格化させ 「大航海時代)。銀の流通によって、 『を一周する世界経済が誕生した。 や優意などと渡り合いながら日本の銀を仕入れた。 ついで、1570年ごろにスペインが植民地メキシコ と植民都市マニラを結ぶ太平洋航路を開き,中南米 の植民地でつくった銀や銀貨を東アジアに大量に持 ちこんだ。 あこう このように貿易を通じて巨額の銀が動いた背景に は、最大の取引先である中国が慢性的な銀不足で苦 まんせい 目ぎんにょう しんでいたという事情がある。輸入された銀は銀錠 に改鋳されて北方の軍事地帯へ優先的に送られ,軍 ぐん かち にんじん E 費のほか,北方諸民族から毛皮や薬用人参などを購 入する資金にあてられた。こうした交易がくり返さ じょしん れた結果,軍事的な商業集団が成長し,やがて女真 明代後期中国の設 いわみ 2石見銀山でつくられ た丁銀(16世紀後) 石見銀山は1530年代 に本格的操業がはじ ょうぎん レン の王朝である清が生まれる。17世紀末から日本の 産銀,輸出量は減少したが、18世紀になっても中 まった。 南米の銀の大量生産·輸出は続いた。特にメキシコ 産の銀貨は、その品質の高さから,アジアの地域間交易の決済通貨として 広く流通した。これらは中国では「銀画(元)」 とよばれ,のちの中国の元 や日本の円,朝鮮のウォンの語源ともなった。 一方,大西洋を介して直接ヨーロッパに向かった銀は,スペインの対イ ギリス·オランダ戦争に多くが消えた。80年におよぶオランダ独立戦争 は、当時ヨーロッパ最大の集散地アントワープを凋落させ、アムステルダ ムの地位をおし上げた。17世紀前半の三十年戦争ではフランスがオラン ダに加勢し,かつてアジア貿易により繁栄したスペインの没落が決定的な けっさい ぎんえん げん コ銀貨 スペイン領のメキシコ どでは、本国にならって8レ ペン) 銀貨が大量につくられた。 ちょうらく ものとなった。 ぼつらく こののち,18世紀にはイギリスが世界経済の覇権を確立する。1816キ に金本位制を採用したイギリスは、「世界の工場」 「世界の銀行」として 地位を背景に国際金本位制を打ち立てていく。こうして、世界経済を和 主役が銀であった時代は徐々に幕をとじていった。 1 1866年以降、イギリ 当港ドル。 はけん 界 →p.46

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現代文 高校生

これの答えは何番だと思いますか?

観光旅行というものは、そのほとんどが都市と建集の見物なのだが、そのことに気づいている人は意外に少ない。国内でも 神社仏閣や城跡巡り、そして町歩きは旅行に欠かせないし、温泉も町の風情が楽しく、温泉旅館も建築に ったものが多く て、それがひとつの魅力になっているはずだが、そうと意識することは少ない。ファッショナブルな観光スポットも、その多一 くは新しい町角の風景や揚所としてのショッピング·センターだったりするのに、目当ては商品とショッピングだと思い込ん一 の文章は、鈴木博之「都市へ」の一節である。これを読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。なお、設問の都合で本文の一 段落に1|~|2の番号を付してある。(配点 0) でいる。ヨーロッパ旅行なら、まず都市巡りがその中心になり、都市巡りは町歩きそのものということになる。 そこで目に一 しているのは、町並みと建築物ばかりといってもよいのだが、それもまたあまり意識されない。 。われわれが観光旅行を都市·建築見物旅行といわないのはなぜなのだろう。 たぶん、旅行では町や建築も見るが、その ー1 3たが、はたして町や建築は単なる器なのだろうか。「だとえばゴシックの大聖堂がある。明らかにそこには中世の精神世界ま」 でもが、造形的に表現されている。さらにいうならば、ヨーロッパの都市は、彼らの精神がつくり上げたものであり、その精一 なかにある遺物や、商品、あるいはそこにまつわる歴史やユイー名ョのにうが大切で、町や建築は器にすきないからだという 気持ちがあるからだろう。 神を体現したものなのだ。魅力的な都市は町並みと建築が美しい町ばかりだ。パリもロンドンもウィーンもパルセロナもブダ ペストも、みな例外ではない。 +けれとも、それでは都市と建築にはいったいどのような精神が込められていて、それは町のどこを眺めれば解るのだと問い詰一 ーロ B められると、答えはすぐには出てこない。町により、建築によってその現れは異なるからだといってみてもおなじことである。 レ 5|ひとつの答えを用意してみよう。ヨーロッパにおいては、それは廃壊、遺跡といった概念だ。 、ヨーロッパには明らかに廃 壊や遺跡が多い。とくに古代ローマの遺跡は、驚くほど広範囲にヨーロッパ中を覆っている。スコットランドに行っても、 あるいは東欧に行っても、ローマの遺跡に出会う。そこにヨーロッパ世界の拡 がりを感じることになるのだが、遺跡というものがそもそもヨーロッパ的な存」 在であるように思われるのだ。 6|石やレンガで建物をつくればそれが時代とともに廃壊となり、遺跡となる のはあたり前だといえるかもしれない。しかし、そうした建設材料の特質だけ」 が廃媒や運跡をむのだろうか。ヨーロッパの建築や都市は、生まれたときか」 らそのなかに廃壊や遺跡の葬を含んでいるのではないだろうか。これはとくに 日本人であるわれわれの感覚に照らして考えてみたい点だ。 い 日本の社寺は手をかけていなければ、消えて山野に戻ってしまうし、町や一 建築も、「方丈記」や『徒然草」を思い起こすまでもなく、どこかしら 「仮の 宿り」、あるいは「うたかたの嘘」の風情を漂わせてきた。「終の概家」 うような表現にも、移ろいつづけた果ての住居という心が垣間見られて、か えって無常を感じさせるのである。つまり、われわれの町や建築は根本的に一 仮のもの、移ろいゆくものという精神の上に成り立っているかのようである。 そこからは名残の風情、名のみが残るという精神が浮かび上がる。木造建築 によって生み出される町の伝統がそうした名所意識を生んだのだろうか。 ローマの古代遺跡 ヨーロッバでは、古代遺跡と現代都市が同居する 町が多い

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