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ロ
講制にもとづく政治をおこなった。(①) は北条氏一族の有力者を(②) に任命し,
執権の補佐役とすることで執権政治を補強しようとした。ついで重要政務や裁判の
評議·裁定のために (③) を設けた。(③) の構成メンバーには三浦氏 安達氏
などの有力御家人が選ばれた。またo(③)設置からおよそ7年後の1232(貞永元)
年には,武家にとって最初の体系的な法典となる御成敗式目 (貞永式目)を制定した。①塩
これは,(O)の言葉によれば,式目制定は@[ただ(④) のおすところを記され
候者也」とあるように, 源頼朝以来の先例とともに、武士社会で成立した道徳や習
慣をもとにして制定されたものであった。 もちろんこの式目は,朝廷や荘園領主の (1)
支配領内のすべてに及ぶものではなく, @「これによりて京都の御沙汰,律令のお
きて卿もあらたまるべきにあらず候也」と述べているように、一方では律令に系
譜を引く(⑤)法や, 荘園領主のもとで成立した (6) 法がまだその効力を保って
いた。しかし@武家法典の制定は後世に強い影響を与えた。執権政治を発展させた (4) 右
(O)の政策は,やがて孫の (⑦) に受け継がれた。 (⑦) は裁判制度の充実をはかり,
(3)のもとに(③) を創設して, o御家人たちの所領に関する訴訟を担当させた。
(1) 空欄のの役職に最初に任命された人物を答えよ。
(2) 下線部Oの三浦氏は後に北条氏によって討伐されている。その戦いの名を答
の
みうち
あだち
じょうえい
5
こさ
いささか
(5) ア
イア