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英語 高校生

この問題の青線部の挿入部分のsayはなぜ必要なんですか?下の全文訳のどこにsayが現れてますか?また、挿入部分両脇にカンマがあって、sayの両脇にもカンマがあるのですごく訳しづらいのですが、挿入はどうすればうまく訳せるようになりますか?よろしくおねがいします

11 演習 11 (問題→本冊: p.23) The stranger in London, especially if he has come, say, from Paris, finds London at first a little drab, but later on as he explores the city and begins to make friends he finds that it has its own special intimacy and charm. 【全文訳】 ロンドンに初めて来た人は、 特にたとえばパリから来た場合, 初めは少々つ まらないと思う。 しかし後でその都市 [ロンドン] を踏査して友人を作り始めるうち に, それ [ロンドン] 独自の特別な親しみと魅力があるのに気づく。 【解説】 前半は主節の主語と述部の間に副詞的 if節が挿入されているが, at first 「初 めのうちは」 を( )にくくり a little を除くと, stranger finds London drab 「初め 来た人はロンドンをつまらないと思う」。 but の後は [as... friends] のようにくく 。 まずas は「~しながら, 〜するうちに」の従属接続詞。 この課のポイントは nds の直後の that を見のがさず, さらに finds that it has ... の形から that を it has とセットにし, that 節が finds の目的語であることを確認して「それ [ロンドン ] が ... ARCHE を持っているのがわかる」とする。 LT-1

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英語 高校生

moreがなぜ代名詞になるのでしょうか? また、whether節が名詞節になるのは前置詞をorが繋いでいるというよりは、自立した節にvからくっついているから、名詞節だと判断するのはダメですか?また、どうでも良いことだってどうやったらそんな意味になるのでしょうか、make n... 続きを読む

え る か 置 TU P 一組 √x> 副詞節には必ず or があり,よく, 〈Whether SVX or not> あるいは〈Whether or not SVX> のように 〈or not> が使われます。 [Whether it rains or not (,) I will go out. S (1) Vi Vi S(2) 「雨が降っても降らなくても外出するよ」 ④ 文頭の Whether-節 (名詞節) 「~かどうか」 名詞節では or, or not がある場合とない場合があります。 語順が倒置 ( 69課) されない限り, Whether-節がSか否かが名詞節か副詞節かの分かれ目です。 第1文 節の種類で従属節の先頭に立つ語の品詞を判定 文頭の従属節が What ・ Which です。 いずれも品詞はさておき, 疑問詞 (What す。 When-節· Where-節は名詞節にも副詞節にもなるのですが、 語順の倒置 (69 課)がない限り, それぞれSになっていれば名詞節で, When Where は疑問副詞, また,Sでなければ副詞節なので, When Where ともと判定します。 (botl 91 bull] . 接 Whether の支配範囲は2つ目 のSである I の前まで。 仲間 is the company Vi C あるいは or (等) かどうか(は)それがである [Whether it S → (接) S • TEINEN AS Who How などで始まるのであれば名詞節 ラジオは である 普通 多くのもの より 単なる 情報伝達手段 それはである 仲間 Radio is usually more (than just a medium ); it is company. wovi(副) C (代) (前)(副) (2) S Vi MCDI How は関係詞にもなる) だからで 第2文 さあ文頭に Whether があります。 Whether-節は何節でしょうか。履売記 の最初の 選択 ((of first choice) M を生じる ゼロの違い makes no difference. Vt in NONTO の最後の頼み (of last resort) ] O M paper 等 or が2つの前置詞句をつないでいるのがわかれば makesのSが Whether - 節な のは明白です。したがって Whether-節は名詞節。 《全文訳》 ラジオは普通単なる情報伝達手段を超えた存在だ。 仲間なのだ。それが最 初に選んだ仲間か最後に頼る仲間なのかはどうでもよいことだ。 【語句】 medium 情報伝達手段 / company 友人 / choice 選択 / resort ③頼る こと / make a difference 「違いが生じる, 重要である」 47 SとVを発見する技術 文の主要素の把握 等位接続詞の働き 時間関係の把握 従属節の把握 関係詞節の把握 関係詞の省略 業者 (乗り物 場所 悪態を に…. 択 るこ が生

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現代文 高校生

この問題の答えを教えてください🙇‍♀️

Since 1994 N TURITORY 【二】 次の文章は、小池昌代の随筆「道について」の一部である。後の問いに答えよ。 (30点) 知っている道に出たときの、あの不思議にほっとする、あたたかい感じ。わたしたちはどんなに大人になっても、身体の奥に、迷子に なることの恐怖をかかえて生きているのではないだろうか。 しかしどんな道も、いかなる町も、生きているひとと知り合うのに似て、少しずつ、だんだんと、なじんでくるものだ。 町の構造がようやく身体に入ってきたころ、「近道」とか「遠回り」というガイネンも入ってきた。 目印だけを頼りに通っていた道が、 案外回りであることがわかったり、思い切って足を踏み入れてみた小路が、思いがけぬところへ抜けていたり。 道を歩くことは、こ うして全身をかけて土地を切り開き、土地にもぐりこみ、土地になじんでいく行為にほかならなかった。 知らない道が見知らぬ場所へひとを誘うのは当たり前だが、知っている道が見知らぬ場所にひとを運んだり、知らない場所がよく知る 道に通じていることを知ることには、いつもささやかな感動がある。 1 道には知っていることと知らないことを結びつける機能が備わってもいるようだ。知っていることを伸ばしていけば、知らないところ へ出る。 知らないものを伸ばしていくと、知っている道に出る。 外国に旅に出ると、特に一人旅では、こういうことは明瞭に起こる。 言葉の不自由さに加えて、土地そのものからはじかれている感じ は、ひとを二重に異邦人にするが、それでもひとつの道が次第に親しい道になっていき、日々、見知らぬ場所へとひとを運び、再び宿へ とひとを戻すとき、その道はひとにとって、水や塩に等しい、命をつなぐ脈ともなる。 そうした道に付けられてある通りの名前を知った りすると、道は、いつでも記憶のなかに呼び出せる、親しい友のような表情さえ表す。 初めての道に足を踏み入れるときは、いつも身体に緊張が走るが、すべての道は、二度目に通るときから、「知っている道」になるこ とも面白い。当たり前のことだが、そのことはうれしい。 二度目に通るとき、ひとは、今の道と記憶のなかの道の、二つの道を同時に歩 くのだ。 以前、わたしの友人に、新しい記憶ほど剥がれ落ちてしまうという記憶障害を持っているひとがいた。そのせいなのだろうか、彼は何 度来ても、わたしの家へたどりつけない。 わからなくなったと、途中で電話が入る。 障害のことをそのとき知らなかった。そのたびに駅 まで迎えに行って、目印になるものを教えながら歩いたが、ついに、ひとりではやってくることができなかった。 わたしの祖母の呆けも、自分の家に帰れなくなったところから始まっている。 祖母も友人も、どれほどに自分がもどかしく、ふがいなく、心もとなく、不安だったことだろう。あのときは、ただ困った状況として とらえるだけで、彼らの不安そのものには目が向かなかった。 行きたい場所へ、行き着けないいま思うと、彼らの不安は、わたしの不安そのものに思える。 不安はすべて、未来を先取りした途 上に生まれ、その意味で、生きることはそのまま丸ごと、「不安」そのものだ、とわたしは思う。 子供のころ、迷子になったことがある。 夏の朝、家の前の道を、ひとりでずんずんと進んでいった結果、とんでもないところへ出てし まったのであった。 気がついて見回した町並みは自分のまったく見知らぬ場所である。見知らぬひとが歩いている。 見知らぬ自転車がとまっている。 自分 で勝手に歩いてきただけなのに、自分の帰るべき根元のようなものが、ぷっつんと音をたてて切れてしまったようだった。 遠心力のよう な透明な力によって、リフジンに道端に捨てられたような気がした。 わたしは、ひとりだった。 あたたかい共同体からはじきだされて。 こん棒で胸をつかれたような、激しい悲しみの感情がわいた。 わたしは大声をあげて、泣いたのではなかったか。 今でも遊園地やデパートや公園などで迷子のアナウンスがなされると、その子供の不安が自分のなかで、同じくらいの大きさにふくら んでしまう。きっと誰かが迎えに来てくれるに違いないと思うが、そうしたアナウンスは、見つかりましたという結果までは流さない。 とっ さに脳裏に浮かぶのは、親から見捨てられた、永遠の迷子としての子供のイメージである。 それが自分のなかの悲しみのようなものと共 鳴する。 ここはどこ? すべての迷子は、まずその疑問に射抜かれている。いつも暮らしている場所にいるとき、わたしはそんな質問をもった ことがなかった。自分が生きている場所を見失う不安、それは自分自身を見失う不安のことなのかもしれない。 ここはどこ? というひ とつの疑問は、わたしはだれ? という次の疑問を容易に呼び出しそうな気配を持っている。 しかし、わたしは、自分が迷子になったあのときの、ひりひりとした、 異様に新鮮な不安を、大人になった今、時々、味わいたいと思 & e 1

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