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数学 大学生・専門学校生・社会人

 微分方程式についての質問です。  写真はある円の微分方程式を求める方法について2通りの説明をしています。  赤枠の部分がどのような過程で求まったのかが分かりません。  自分は △PTA∽△QPA ∴∠QPA=∠PTA=θ ∴AQ=PQtanθ だと思いました。 ... 続きを読む

(I-1図参照),この円群に属する円を任意にとり, その中心を, A(c,0) とすれ である。ところが, PA と PTは直交するから, I-1図からわかるように I- 第1章 微分方程式 2 平面上で、エ軸上に中心をもち, 半祐一定の長さょである回m. ば、この円の方程式は YA --y=r P(エ) P T A(c0) 0 X リ=ーr I-1図 (ェ-c)+ y° =r? である。ここで,定数cに種々の値を与えることによって,この円群に属士る すべての円の方程式が得られる。そこで, この(1)をいま考えている円群の方 程式という。また,定数cには任意の値を与えることができるから, cを任意 定数という.さて, この円群に属するすべての円が共通にもっている性質を求 めるために,方程式(1)から出発して任意定数cを含まない関係を求めよう。 そのために,(1)の両辺をェで微分すれば (z-c)+ y = 0 が得られる。そこで, (1) と (2) から文字cを消去すれば dy + y° = r? de が得られる。これが求めている共通性質であって,これは1階微分方程式での る。さて,I-1図のように,点 A(c.0)を中心とする円群に属する円を考え,て の上に任意の点P(x, y) をとり,点Pにおける接線を PT とすれば PQ? + AQ? = AP? =D r

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現代文 高校生

⑶.⑷.⑺.⑻を教えてください

昨日、久しぶりに“梅雨の晴れ間に、大文字山を登った。先月の激しい雷雨で土砂が“クズれ、 足もとが悪いところもあって、散歩にしては 。ゲワしい道程である。そのぶん、登り切ったときの爽 快感も格別だ。山頂からの眺めを楽しみに登る人も多い。僕は大体、考えごとをしながら登るので、 山頂に着くとそのまま景色を °一督して引き返してしまうのだが、昨日は珍しく、しばらくぼうっと していた。 すると、遠く彼方に連なる山の緑の中に、キラッと光るものが見える。正体はいまひとつ。判然 としないが、山の中の何かが太陽の光を反射しているのだろうと思う。それが、キラッキラッと、繰 り返し光る。僕は遠くのその光が、遠くに見えるということが何とも不思議に思えて、ただ。ギョウ ふした。 太陽の光が何かに当たって跳ね返り、その光の粒子が空中を伝わって。フクザツな物理化学的過 程を引き起こし、結果として、脳内にある活動のパターンが生成していく。この脳の活動によって、 僕の「見える」という経験が生み出される。~大雑把に言えば、これが 科学的な説明になるだろうか。 しかし、だとしたら、なぜ山の風景は「目の前」にではなくて、遠くに、ずっと向こうに、「あ そこに」はっきり見えるのか。僕が見ているのが山の中の光そのものではなくて、そこから空中を伝 わり、目の中にまでやってきた光の粒子なのだとしたら、なぜ僕にいま「見える」のは、その到来し てきた日の前の粒子ではなくて、身体のずっと向こうの、遠くの、山の中の、まさに「あそこの」光 なのだろうか。考えれば考えるほど不思議になって、僕はただじっと、その光を見つめ続けた。 いま僕の手前の床の間に、花瓶に生けられたスターチスがある。花は、その花が生けられたまさ に「そこ」にあるように見える。僕は花から到来した光の粒子を見ているというより、その花を、 直に見ているように感じる。手の届かない、日で直接触れているわけではないその花が、その場所 森田真生「白紙」ワークシート*読んで考えたことを、話してみよう* ト (1)-7見える」ということの にありありと、はっきりと見える。 光の粒子と網膜の物理的接触というよりも、もっとはるかに親密な関係を、僕は花と結んでいる ように思える。花が「見える」ということは、どこか深いところで花と直に触れ合っていることだと いうふうに思える。花だけでなく、花瓶と、あるいは山と空と、つまりは環境のすべてと、いつの間 にか僕は心を通わせ合っていて、その「通い合う心」が「見える」「聞こえる」「わかる」ということ を、背景で支えているような気がしてくる。 「見える」ということは実際、今の人類にはとてもまだ言葉にできないような、不思議で奇跡的 な事態なのではないか。あまりに不思議で、あまりに大きな謎なので、(かんら)「当たり前」と いうことにされてしまう。 不思議なことを当たり前のこととして、(すなわて) は前に進めないところがある。 (下とんに)「見える」「聞ごえる」機械は作れないとしても、「見える」ことを前提として、そ の能力を拡張する眼鏡や望遠鏡や顕微鏡を作ることならできる。自力で「わかる」機械はなかなか作 れそうにないが、人の「わかる」力を前提として、それを延長することならコンピュータにできる。 そうして人は、最大の謎を、最奥の深秘をひとまず括弧にくくることにして、不思議の先に、広 大な知と実用の世界を構築してきた。いまや 前提の、すべてを支える原初の不思議の、不思議であることすら自覚されない。 「前提」とすることによってしか、人 い その構築された世界はあまりに壮麗で、足もとの

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現代文 高校生

答えが無くて、合っているか分かりません。 どなたか答えを知っている方いたら、教えて頂けませんか?宜しくお願いします。

本七分 n m w ステップ3| )度6画図を把握する しい プ ) と理徳を考える 伝田帳属 『回W0かむために! こるゆえに のからは出るとこうがあるものの、 生に対して積極的であり、 受け身ではない。それ ゴが トのでありながら、なしろ努力によって理得するものであり、 文明のぬるま湯に浸って自己満足 しているかぎり、 自覚されることはない。 海い受 件 や () に> 隣を深めよう 「監型」の哲学 約のための確 N 人間 (野性)的動物 … 出を除外しない く S にる 「るに記型にしていることが高く評当されたが、ニ十一世紀に求められるのは、 身体性を疎外しない全人 に駅JPS「かれた(野)」である"そうでなければ、 ますます先起化する情報化社会の波に国洋されて、 空な知識ばかりを頭に防め込み、みずからの身体に本来備わっている生命力を、どんどんと先掘りさせていく 『. du 筆者の注目している点 文明社会で * く り 個人間が 理ぶ2を失わ *に 的なことを言えば、高度に発達した文明社会で、人間が合理観を失わないためにも、人間 10 他の動物的側面を回復することが大切なのである。理性が突出して身体に備わる動物性が排民されてしまうと 自分が生きているのだという生命感覚もなければ、他者もまた同じ生命を生きているのだという連帯感がなくなっ に ないために… 側面 の国復 生命感覚」 連帯感 十 知的性格は感覚の外にあって之を統一するのではなく、感覚の内になければならぬ、感覚の奥に閃くもの一 でなければならぬ、然らざれば考えられた人格にすぎない。それは感ずる理性でなければならぬ の廃 (世)。 (西田焼多郎 「思薬と体験」) 学的悪修にボットウするあまり、やや肉体をおろそかにしすぎた感のある西田ですら、叡知と感覚が切って も切れない関係にあることを早くから気づいていたのである。「感ずる理性」を持ちあわせない人格者が、いくら 立脈な道徳論を振り回してみたところで、いったん生命の連帯感が逸切れてしまえば、人権の無視やら他の生命一 に対する暴力が発生してくるのは必然的である。他者の痛みを自己の痛みとして感じる能力を喪失してしまうわ 如 みだから、強い者は自分より弱い者に対しては何だってできる、ということになりかねない。したがって、道徳。 N r 2 まとめてみよう 要約に向けて一 ,主張を四十字以内で書こう。【6点】 の遺廃すら人間の内面世界における理性と〈野性)のバランスが崩れてしまったことに起因していると言っても、一 決して過言ではない。 文明を進化させることは人類に与えられた使命のひとつだと思うが、人間の〈野性)的感覚を去勢化するという (解) -こ rreN 「型型」間 した「近代」に対し、 ポストモダン(近代以後)において こrnへさ ー - FriNはさ 一 w 筆者が、他者の説の引用を通じて言おうとしたことをまとめている一文に線を引こう→問五を攻略一 は、「理性」が切り捨てたものにこ そ(「狂気」ほか、本文では「野性」)、 人間の本質があるとされる。 H回!-O >」 9」最屋年 e4 一雪映避田図 の説明として、最も適切なものを、次から選べ 現代社会において、叡知や理性を重視すべきことを述べるため。 これまでの哲学における、感覚軽視の傾向を批判するため。 理性というものが、人間の感覚の内にあることを指摘するため。 私たちの肉体に備わっている、感覚の重要性を訴えるため ニ十一世紀を見据えて、あるべき人格者の姿を提示するため。 間六事読解)傍線部@とあるが、「理性と〈野性》」のバランスが崩れたことで「道徳の退廃」 が引き起こされるのは、なぜか。解答欄に合うように、四十字以内で書け。 S N 間二(語句)波線部A「先鋭」と似た意味をもつ語句を、次か 3 営調 3 学 3 四三( 節B「逆設」の意性として、最も運切なもの を、 次から選べ。 営治 理性ばかりが重視されて動物性が排斥されることで を否定して、独自の説を展開した表現 盾しているようで、実は真理を言いあてた表現 空 自説をあえて批判し、異なる視点を提示する表現 四真理に逆らい、真っ向から対立するような表現 E結舗を先に示したうえで展問していく表現 生 2 【o) く S 問四(内容)傍線部のとあるが、筆者は、「知識偏重」がこの まま続けば、どのようなことが起こると考えているか さ 2 新間七 (内容)本書18番(PR)の文章と、本文とでは、人間のあり方について共通した考え を読み取ることができる。その考えとして最も適切なものを、次から選べ み七 2月4 も 野性的段階から進化を遂げてきたように、人類には文明を進歩させる義務がある。 高度に情報化される現代のなかで、人間も一生命であることを忘れてはいけない 人間の生命力が減退している現状を改善するには、身体感覚を鍛えるほかない 今後さらなる情報化が予測され、知性を磨く重要性も増していくだろう & 人間本来のあり方に戻るため、人間はただちに知性を捨て去るべきである。。 生 書 る。 問五0課題)傍線部のについて、筆者がここで西田幾多郎の説を引用している、その意図 漢字)傍線部の~Gについて、カタカナは漢字で、漢 字はその読みをひらがなで書け。 テップ3 評論

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現代文 高校生

もし問2の問題が15字以内という指定がなかったら、 線を引いた「転向は道徳的にいかがわしいと感ずる意識」を抜き出しても丸でしょうか?

5 評論 20 43 田 来 R 2 日本的思考は、しばしば、模倣をこととする雑居性を特徴とするといわれる。それは、かつては中国を 模倣し、近代では西欧を模倣したといわれる。それがひどくいけないことのようにいわれるのは、 空欄に適当 異化である。差異と反復が模倣の本質である。そうなると、模倣と独創との差異の境界はきわめて小さく なる。西欧諸国の文化は、ギリシアとローマの差異化的模倣である。日本の場合にも同様に、中国と西欧 の差異化的反復である。差異化には、何らかのオリジナルな改作的工夫が必要である。 日本では、I_、儒教を儒学に変換し、宗教性をできるかぎり払拭して、操作可能な「知識」へと改 作する。これは日本におけるひとつの独自な特徴である。キリスト教であれ何であれ、宗教性がなくなる わけではないが、宗教性は、他国にくらべて限りなく小さくなる。日本では、宗教的イズムが、宗教戦争 なしに共存できるが、それは諸宗教がいつのまにか操作可能な、道具性の知識に転換しているからである。 またそのゆえに、日本では、ある宗教イズムから他のものに容易に転向できるのである。転向は道徳的に いかがわしいと感ずる意識は、純粋主義のイデオロギーのなせるわざであり、日本人は古来つねに転向を やり続けてきたのである。古代における中国文化の導入はひとつの転向であったし、そして近代における 西欧との出会いは、中国文化から西欧文化への転向を劇的に実現した。すべてを道具的な操作可能な実用 知に変換すること、これが日本の文化の雑居性を生みだす原因、いやむしろ精神の鋳型である。 しかし雑居は、そのままでは雑種性にいたりはしない。たしかに雑居を許す文化は、雑居を許さない純 粋主義文化よりも、雑種性を生む可能性は高い。 動的に雑種を生むわけではない。われわれは、雑居環境を存分にいかして、雑種文化という本来の文化の ありかたにいたる道を構想しなくてはならない。 雑居は他者の文化を変換する装置が作動した結果をさす用語であり、雑種は精神の創造力に関わる用語 である。雑居性は雑種の精神なしにも可能であり、雑居はかならずしも雑種の精神に通ずるものではない。 雑種の精神がないままに、他者の文化との出会いを喜び、それを実用知に変換するだけでは、雑居的流行 しか生まれないであろう。日本人がタイテイやっているのはまさにこれだ。日本人は一般に、雑居性のなか に雑種性を溶解し、雑種の精神を自覚的にバイヨウすることを無視してきたと思われる。 tすは純粋なるものがいかに空虚であるかを自覚してかからなくてはならないだろう。なぜなら、か「2 日本的 居性を特 質は一 |による。模倣は簡単なことではない。改作なしの模倣などどこにもない。反復はかならず差 5 日本 欧文化 換する 立した 主張 =それはあくまで環境ないし条件ではあっても、自 力に M w w. て一度も、純粋な文化も、純粋な精神も、存在したことはないからである。なるほどI? 紙の思想家

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