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歴史 中学生

御成敗式目(1232年)に近いのは承久の乱(1221年)でアだと思ったら、答えはイの元寇(1274年1281年)でした。何でですか?

人 A ほうじょうやすとき 北条泰時 かまくらぼく 物 鎌倉幕府の基礎を固め、 武家政 治をおし進めた。 一をめざした。 B おだのぶなが 織田信長 ほんち 安土城を本拠地として, 天下統 C 豊臣秀吉 関白太政大臣として政治の実 権をにぎり,全国を統一した。 りとも 関連資料 諸国の守護の職務は, 頼朝公 の時代に定められたように, 安土城下住民へ - この町中の住民のいっさいの ごしょ 都の御所の警護と、謀反や殺人 などの犯罪人の取りしまりに限 る。→ むほん めんじょ 税は免除する。 ふしん 普請は免除する。 御成敗式目(部分契約)/ (部分要約) 11-32) 制定以来、長らく武家政治の手 ほうりつ 本となった法律の一部である。 商工業の発展をはかるため、安 土城下では,座が廃止された。 検地のようすをえがいたもので ある。 へい しめつぼう (1) Aの関連資料の法律が制定された時期を,次のア~エから1つ選べ。 じゅうきゅう らん げん けんむ 平氏滅亡ーアー承久の乱一イー元寇ーウー永仁の徳政令エ--建武の新政 ヒント えいにん とくせいれい しんせい

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日本史 高校生

検地帳、御前帳、国絵図の違いを教えてください!!

鎌倉 室町 安土楼. 12 天皇を京都の 13 に招くなど朝廷の権威を利用した。 秀吉が占領地に実施した検地を太閤検地という。この検地では, まちまちであった枡の容量を 14 に統一し、田畑屋敷地の 6557 面積・石盛を調査して生産力を米量に換算した 15 を定めた。 検地の際には村の境界を確定する村切が行われ, 村ごとに田地・ 百姓を登録した 16 が作成された。それにより, 百姓は村の しょう • 17 に応じた年貢 諸役の負担が義務づけられ 総石高である 17 た。一方、秀吉は全国統一を終えた1591年, 全国の大名に対し て領国の石高を示す 18 と国絵図の提出を命じた。 これによ り大名が領国の石高に見合った軍役を奉仕する体制ができあがっ 11 北条氏政 12 後陽成天皇 13 聚楽第 きょうます 14 京 こくだか 15 石高 16 検地帳 むらたか 17 村高 ぜんちょう 18 御前帳 (検地帳) そして、 1588年には、 一揆を防止し, 1591年には、 19で農民から武器を没収して 20 19 刀狩 (令) へいのうぶんり を禁じた。 これらの政策により兵農分離が進んだ。 人が町人 百姓になることや, 百姓が町人・職人になることなど (身分統制令) で武家奉公 ほうこう 20 人掃令 ◆ 秀吉は、 21 が長崎の一部をイエズス会に寄進しているの おおむらすみただ 21 大村純忠 22 バテレン追放令

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日本史 高校生

徳川家の出来事A〜Fまでを年代の古い順に並ばなければいけないのですが、BFDAECの順であっていますか?教えて頂きたいです🙇🏻‍♀️

3 以下の問に答えよ。 A: 徳川家宣は、 朱子学者の(Ⅰ)と側用人の間部詮房を信任して、 政治の刷新をはかろうとした。 しかし、 徳川家宣は在職わずか3年余りで死去し、 そのあとを継いだ徳川家は満3歳であったため、 引き続き ( I )らが幕府政治を担うことになった。(I)は①長崎貿易で、 多くの金銀が流 出していたことを問題視し、これを防ぐために② 貿易額を制限した。 B:③関ヶ原の戦いで勝利したⅡは、1603年、④全大名に対する指揮権の正統性を得るための 征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開いた。1605年、将軍が世襲であることを諸大名に示すため、 子の(Ⅲ)に宣下を受けさせた。その後(Ⅱ)は駿府に移ったが、大御所として実権を握り続 け、大坂の陣で豊臣氏を攻め滅ぼし、その直後、大名の居城を1つに限り、⑤武家諸法度を制定して大 名をきびしく統制した。(Ⅲ)は、⑥天皇や公家が守るべき朝廷の運営などの基準を定め、娘を御 水尾天皇に入内させた。 C : 徳川宗家 (本家) がとだえると、 ⑦ 御三家の紀伊藩主であった(Ⅳ)が将軍になった。 ( N )は、29年間の在職のあいだ、諸政策を実行して②幕政の改革に取り組んだ。18世紀後半 は⑨幕藩体制にとって大きな曲がり角となった。 ⑩ 三都や城下町の町人地中心部に住む都市民衆は、零 細な棟割な側に住み、わずかな ① 貨幣収入で暮らしを支え、物価の上昇や飢饉、災害のときには、たち まち生活を破壊させた。 D : 幼少の徳川家綱を会津藩主で叔父の(V)が支えたことで、 社会秩序が安定しつつあった。 平和 が続く中で、 重要な政治課題となったのは、戦乱を待望する 12牢人や 「かぶき者」 への対策であった。 17 世紀後半には、政治の安定と経済の発展とを背景に(VI)が将軍となった。 ( V )の政治 は(VI)が(a)として支えた。 (VI)は代がわりの武家諸法度を出し、 13 幕府の統治理念 に変化があった。 また (VI)は、 1生類すべての殺生を禁じ、 捨子の保護なども命じた。 E 15 田沼意次が退いたあと、 徳川家斉の補佐として (b)に就任したのが、 白河藩主(VII)で ある。 国内外の危機がせまるのを感じて、飢饉で危機におちいった農村を復興することによって、幕府 の財政基盤を復旧し、 ⑩6 打ちこわしを受けた江戸の治安問題を解決し、 17 ロシアを中心とする 18 海外勢 力に対応するための 19 諸政策を実行していった。 IX SUPRA CRE F:徳川家は、 1635年、新たな武家諸法度を発布し、諸大名に法度の遵守を厳命した。 その中で、 大名には20国元と江戸とを1年交替で往復する制度を義務づけ、大名の妻子には江戸に住むことを強 制した。こうして()の頃までには、2幕府の職制についても整備された。 1637年、2島原 の乱後、幕府は、キリスト教に対してきびしい監視を続けていった。 問1 A~Fの文中(I) ~ (V)に入る人物名をそれぞれ漢字で答えよ。 IX 知・技 9

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