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世界史 高校生

板書して一部分からないところがあったので教えてください これは、オーストリアということですか?🟢

世界の中の 日本 日本も巻き込んだ いけつ イギリスとロシアの対立 清との条約締結地 (数字は締結年) ロシアの進出 イギリスの進出 クリミア戦争後の 北極海 資金調達のため 1867年、アラスカ をアメリカに売却。 ひがい ていこく しょうとつ 器も投入されて被害は拡大した。 この戦いを皮切 りに、大帝国イギリスに対するロシアの挑戦は始 まった。 ロシアは英領インド近くの中央アジアで イギリスと衝突し、 中東進出に力を入れていたビ スマルクもロシアの視線をそらそうとそれを支援 対立の視線は東アジアにも向かった。 クリ ミア戦争後、英仏露が開国した日本と条約を結び、 その後にイギリスが日本と日英同盟を結んだのも、 こうした理由からであった(→p.77)。 日露戦争 はこの英露対立の代理戦争という見方もあり、こ のアジア各地を巻き込んだ英露の対立は「グレー トゲーム」 ともよばれた。 クリミア戦争は大国どうしの戦いとなり、新兵 オーストリア ワルシャワ バンガリー帝国 サンクトペテルブルク モスクワ ちょうせん クリム(クリミア)半島 ロシア帝国 清との条約 (北京条約 1860年) により、 日本海 への出口を得る。 地 バルカン 半島 セヴァストーポリ クリミア戦争 ( 1853~56) 中サン オスマン ステファノ 帝国 海 |露戦争 (1877~78) 不凍港 南 求めて ネルチンスク 16890 オホーツク 海 かくとく 1855年ま での獲得地 1914年ま キャフタ 1727 トルキスタン イリ 1881 ウラジャ オストク 日本海 での獲得地 1914年の ロシア国境 イラン 「アフガニ スタン ロシアの影 響下にある地域 北京1860 清 英領インド チベット 日本 日露戦争 (1904~05) 1 3 ロシアの対外政策 64) できるもの れば分かるこ まれ、その 分かってい 痛みず、固 れに他なら 実記」より製 末期にヴ ン国王ヴィ 71~88 をヴェ 仏、サルデーニャ 二国民 QR, 域で ため、南下政策を進めるロシアはバルカン半島への侵 汝を図り、オスマン帝国に対してクリミア戦争を起こした。この戦争によ 185356 ヨーロッパ巻き込んだ クリミア戦争と 19世紀半ば、 黒海から地中海への海路を確保する ロシア大改革 しん けいもう じょうきょう イー が、 一進 道を こうてい p.23 こう り、ウィーン体制後の均衡状態が破れ、ヨーロッパ列強どうしの戦争が再 5 開することとなった。 ロシアの地中海への進出をはばむために、イギリス とフランスがオスマン帝国を援助して戦い、ロシアは敗北した。 皇帝アレクサンドル2世は、敗戦の原因はロシアの近代化が遅れてい 在位 1855~81 QR のうど るからであり、 遅れの根幹部分は農奴制にあると考え、 1861年に農奴解 20.46 放令を出した。この結果、 農民は人格の自由を得たが、 土地所有には多額 はら 10 の支払いが必要だったため、 苦しい生活は変わらなかった。 同時期に地方 行政、 司法、 軍事などの面でも改革が行われ、 「大改革」 の時代とよばれた。 てってい 「大改革」によりロシアでは都市化・工業化が進んだ。 しかし、不徹底な 改革に対する農民の不満に加え、 工場労働者たちによる労働運動、社会主 義者による革命運動が重なり、専制政治は危機を深めた。 せいおう えいきょう TTI かれ ロシアの状況に不満をもち、農民への啓蒙 活動による社会改革を目指す人々をナロードニ とよぶ。 彼らの運動は「ヴ・ナロード (人民のな かへ)」をスローガンとした。 2部3章 ※人の名前です。 日本 のう のうど ↑4 農奴解放令を読み上げるアレクサンドル2 A えが

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世界史 高校生

問題 独立宣言と合衆国憲法が果たした歴史的な役割はどのようなことだったか、説明している本文に下線を引こう。 答えがないためどこか教えてほしいです🙇‍♀️

イギリスの革命と 議会政治の成立 17世紀前半、 イギリスでは、支配を強める国王と 議会との対立が深まり、 内戦となった。 議会派はクロ しょけい はい ムウェルの指導で王党派に勝利し、国王を処刑して専制君主政を廃し、共 1599~1658 巻末 1 和政を打ち立てた(ピューリタン革命)。クロムウェルは、続いてアイルラ 1642~49 せいふく かれ ンドを征服し、独裁体制を敷いた。彼の死後、王政が復活したが (復古王政)、5 むすめ 再び国王が議会と対立したため、議会はオランダから国王の娘とその夫を めいよ 招き、夫妻は王位についた(名誉革命)。議会は権利の章典を制定し、立憲 3 1688 89 1689 QR こくさい 君主政が確立した。 その後、 イングランド銀行が創設され国債発行で多く QR 【2巻末 1 の資金が調達可能になったイギリスは、対外戦争を有利に進めた。 p.24 植民地をめぐる 18世紀半ばまでにイギリスは、北アメリカ大陸の『 英仏の抗争 東海岸に 13 の植民地を建設していた。一方、フラン スはカナダからルイジアナに連なる植民地を築いていた。 このため、両者 ふんそう 巻末 1 の間でたびたび紛争が起こり、やがてヨーロッパ諸国間の七年戦争とも連 QR 動して世界規模での戦争となった。イギリスは、この戦争に関連した植民 地での戦いで決定的な勝利を収めたものの、ばく大な戦費に苦しみ、その 結果、植民地の人々への課税を強化した。 アメリカ 1765 印紙税などの重税が、 植民地の代表者のいないイギリス本 独立革命 国の議会で定められると、 13植民地の人々は結束してこれ 15

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現代文 高校生

答えは「ニ」なのですが、なぜ「ハ」はダメなのですか? 第3段落の話は17世紀以前の話ではないのですか?

/co/ ■■ FRUST EE] et 第七問 次の文章を読んで、後の問に答えよ。 a_ [ かつて、人間の生活と生命の安全を脅かすものは「自然」であった。 地震、津 波、洪水、火山の噴火、台風、あるいは野獣の襲撃など、 「自然の脅威」と呼ばれ るものが、人間にとって、最大の危険であった。もちろんその前に、十分な食料 や雨露を凌ぐだけの住居の確保、あるいは病気と怪我への対策などが、よりキ ンキュウな関心事であったろうが、しかし共同体が、あるいはそこで育まれた知 恵が、そうした対策をある程度引き受けたとしても、「自然の脅威」はどうにもな らなかった。この事情はどの文化圏においても、本質的には同じだったと言って よいだろう。 5 *き 西欧の歴史においても、事情は変わらなかった。とくにキリスト教の支配する ヨーロッパにあっては、創造主である神の計画に支配されている自然は、人間の 制御や支配の能力を超えたものとして、ある程度以上の自然への人為の介入は忌 避され、あるいは諦められていた。むしろ自然のなかで人為を如何に生かすか、 ということに人々はフシンしていたとも考えられる。たとえば、森林のなかに 溶け込むように建っている古い修道院や教会の建築などは、そう思わせる オモムキがある。しかし、一八世紀になって、ヨーロッパは俄然大きな転回を 5 経験する。 がぜん もちろんユダヤ・キリスト教の伝統のなかには、神がこの世界を創造したのち、 その管理を人間に委託したという思想が含まれている。「創世記」 第一章の記事 は、そのことを語っているし、神学的にも「地の支配」という言葉が残ったこと も、それを裏書きしている。かつてアメリカの技術史家リン・ホワイト・ジュニ 2 アは、そのことを根拠に、キリスト教こそ、今日の地球環境の危機を招いた元凶 *げんきょう *さくしゅ であるという告発をした。「創世記」の言うところを根拠に、ヨーロッパは、自然 を人間の自由になるもの、搾取すべきものとして捉えてきたために、地球的な危 機が生じたからだ、と言うのである。口 この見解に従えば、キリスト教的ヨーロッパには、本来、自然を人間の意の 25 ままに制御、支配、搾取する契機が内包されていたことになる。 5 しかし、 この言い分は、一七世紀までのヨーロッパの自然に対する姿勢が、 一八世紀になって急旋回を遂げたという点を考慮に入れていないという点で、根 本的な ケッカンがあるように、私には思われる。 けいもう めいもう 言うまでもなく、 一八世紀ヨーロッパの特徴は啓蒙主義である。 彼らが攻撃目 標に定めたのは、キリスト教そのものだった。人間をキリスト教という迷蒙から 解放し、 人間理性を至上のものとして位置付け、すべてを、人間理性の支配の下 に再編成すること、これが「啓蒙」という考え方の根本であった。そこから「文 明」という概念も誕生した。 弟

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