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情報:IT 高校生

高三 情報です。  問4の問題の答えは11になるのですが、その回答にはならないし、解答を見ても納得できません、解説をお願いしたいです。

回ベネッセ・駿台マーク模試 マング 高3生・高卒生 第1回ベネッセ・駿台 大学入学共通テスト模試 2025年度 9 掲載内容を無断で 第三者 行為はこれを いけません。 用紙の 従っ に注 第2問 次の問い (A・B) に答えよ。(配点 30 ) A ある高校の文化祭では、文化祭実行委員会が管理・運営を任されているス ステージ発表についての、次の実行委員の会話文を読み、問い (問1~5) に答え よ。 委員長:ステージ発表者の募集は初めての試みだったけど、応募がたくさんあっ てよかったね。 委員A:そうですね。 応募数は全部で30組でした。 1組当たりの持ち時間は、入 れ替え時間も含めて10分です。この段取りなら、抽選なしですべての組 が発表できます。 コピーバンド (他者の曲を演奏するグループ)が多い んですけど、使う楽曲の著作権などは大丈夫でしょうか。 委員長: 文化庁の資料 (図1) で確認したけど, 文化祭で著作権が発生する楽曲 を使用することは,(A) 一定の範囲であれば著作権者の了解なしに利用 できる場合に当てはまるから大丈夫みたいだよ。 でも念のため、先生に 確認しておくね。 文化祭、 部活動などでの上演等 (第38条第1項) どうすれば自由に利用できる? ①作品を利用する行為が上演、演奏、上映、口述 (朗読など) のいずれかで あること ②既に公表された著作物であること ③営利を目的としないこと ④聴衆又は観客から鑑賞のための料金等を取らないこと ⑤演奏したり、演じたりする者に報酬が支払われないこと ⑥原則として著作物の題名、著作者名などの 「出所の明示」をすること 図1 文化祭, 部活動などでの上演等における著作物利用のルール (出典: 文化庁 「学校における教育活動と著作権 (令和5年度改訂版)」により作成) 委員B: 来年のステージ発表のために, 生徒会用として一時的に音源だけ記録し ておこうと思います。 ただ、記録用に500MBのメモリーカードしかな いので、容量に不安があるのですが、 委員長:そうだね。 音声だけなら映像も記録するよりは容量が抑えられると思う けど、実際どれくらいの容量なのか計算してみようか。 標準音質で録音 すると(B)サンプリング周波数が44100Hz 量子化ビット数が16ビッ F. (C) チャンネル数が2,これを全部掛け合わせたものがビットレート だよ。ビットレートに数を掛けるとデータ量が求められるから、長さ が1分で圧縮していない音声データなら約 X MB になるってこと だね。この場合のビットレートは、パソコンでもこのように (図2), 単に確認できるよ。 オーディオ | ビットレート 図2 1411kbps 26900 -4400 h 10400 パソコン上に示された標準音質のビットレ 委員A:ヘー、そうなんですね! でも、その設定だとすべての組の発表を記録 するには 500 MB じゃ容量が足りないんじゃないですか? 委員長:そうだね。だから, 明らかに音質が悪いと感じられない程度にピット レートを下げればいいんだよ。 試しに今から少しずつビットレートを下 げて音を出すから,音質が悪くなったと感じたところで教えてね。 (少しずつビットレートを下げて音を出す) 委員A: 96kbps で急に悪くなった気がします。 委員B: 私は 96kbps ではそんなに気にならなかったけど, 64kbps になると音質 が悪くなったと感じました。 表1 委員Aと委員Bが感じたピットレートごとによる音質 64kbps 96kbps 128kbps 160kbps 192kbps 320 kbps 委員 A × × O O O ○ 委員B × A O ○ ○ 音質に問題なし △ 音質に気になる点がある × 音質が悪い 委員長 2人とも128kbpsなら問題なく聞こえるってことだから、ビットレート の下限は128kbps か。 委員A: でもせっかくならメモリーカードに収まる程度に、よい音質で録音した いですよね。 委員長:そうだね。 改めて聞くけど, 音のデータ量はどうやって求められる? <-15->

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現代文 高校生

山崎正和さんの、水の東西という作品です。 傍線部分の、「そういうこと」とは、どういうことか教えていただきたいです。

SURB! O そののちにや、良秀がよち 山崎正和 水の東西 「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌のなかに、なんとなく人生のけだるさのようなものを感じることがある。 かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、や がて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気にとけて水受けが跳ね上がるとき、竹 が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。 見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし 何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも 引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせきと め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。 私はこの「おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介され るなかで、あの素朴な竹の響きが西洋人の心を魅きつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに 忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聴くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴 水の方が、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。 流れる水と、噴き上げる水。 そういえばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場にはいたるところにみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に 行けば、噴水はさまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という 噴水の群れが庭をぎっしりと埋めつくしていた。樹木も草花もここではそえものにすぎず、壮大な水の造型が轟きながら林 立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音をたてて空間 に静止しているように見えた。 時間的な水と、空間的な水。 そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統のなかに噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘 って水を見ることはあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代にいたるまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の 都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜け て、表情に乏しいのである。 西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発 達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そ ういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮した りねじまげたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。 言うまでもなく、水にはそれ自体として定まったかたちはない。そうして、かたちがないということについて、おそらく 日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむ しろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、かたちなきも のを恐れない心の現れではなかっただろうか。 見えない水と、目に見える水。 もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。た だ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本 人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。

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現代文 高校生

問2番が解説を読んでも分かりません。説明をよろしくお願いします。

文化論?| 『「集団主義」という錯覚』商野陽太郎 出題 小樽商科大学 [解答·解説は本冊の127ページ] つぎの文章を読んで、あとの問いに答えなさい。設問の都合により、原文を改めた箇所がある。 戦後日本の歴史を綴った著作「敗北を抱きしめて」でピューリツァー賞を受賞したアメリカの歴史家ジョン·ダ ワーは、「集団主義的な日本人」というイメージについて、これは日米合作の「オリエンタリズム」であり、『ジッ イとは違う。という見解を述べている。 デオリエンタリズム」というのは、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者エドワードサイードが著書「オリエン」 タリズム」のなかでつかって有名になった言葉である。こんにち、この言葉は、だいたいつぎのような意味でつか われることが多い。…「オリエント」を支配の対象としたヨーロッパが、事実にもとづいてではなく、みずからの 願望にもとづいて、「オリエント』に、ヨーロッパとは対照的でエキゾチックな、そしてヨーロッパより劣った特質 を見いだした、その認識のありかた。」 日本人=集団主義」説が成立した。ケイイをしらべてみると、この説は、ダワーの指摘どおり、「オリエンタリ ズム」としての資格を充分にそなえているようにみえてくる。「日本人=集団主義」説は、日本人についての正確一 な観察から生まれたものではない。まず、欧米人の側に「個人主義」というイデオロギーがあり、それとは対照的 なイメージを日本人に投影した結果、生まれた説なのである。 (暴号) 満 る い <「オリエンタリズム」は、ヨーロッパ人がつくりあげるものである。だが、「オリエント」のほうにも、それを受」 けいれ、その確立にっキヨするひとたちがでてきて、結局、「オリエンタリズム」は、ヨーロッパ人と「オリエント」 人の「合作」になる。その点でも、「日本人=集団主義」説は「オリエンタリズム」の資格を充分にそなえている といっていいだろう。 オリエンタリズム」という観点からみれば、「集団主義的な日本人」を観察していたとき、欧米人は、自分が見 たいものを見ているにすぎなかったということになる。「集団主義的な日本人」、「集団主義的なアジア人」という 見解は、。すでに確立している強固な図式にうまくあてはまり、しかも、欧米人の自民族中心主義をくすぐるので、 新たな衣装をまとって登場するたびに、欧米では、即座に“コウハンな支持を獲得することになるのである。 マネディクトの「菊と刀」がたちまちにして「古典」の地位を確立したのは、その一例である。集団主義·個人」 主義についての国際比較研究がさかんになったときにも、データは「日本人 = 集団主義」説とまったく一致してい なかったにもかかわらず、研究者たちは「集団主義的な日本人」について語りつづけた。西ヨーロッパに起源をも つ文化を個人主義的な「相互独立的自己観」、それ以外のすべての文化を集団主義的な「相互依存的自己観」と色 分けしてみせた自己観理論も、ヨーロッパ系アメリカ人の自民族中心主義が明白であるにもかかわらず、あるいは、 おそらくそうであるがゆえに、アメリカの心理学界では、短期間のうちにきわめてコウハンな支持を獲得すること一 に成功した。 「個人主義」が、欧米、とくにアメリカの自己己賛美イデオロギーだとすると、劣位におかれることになる日本人 自身が「日本人=集団主義」説を唱えてきたことは、一見、*キイに感じられるかもしれない。しかし、明治以来、 日本の知識人が欧米の思潮を受けいれつづけてきたこと、また、欧米の観点から日本を批判することによって日本一 を欧米風に「改善」しようとする伝統がつづいてきたことなどを考えあわせてみれば、じっさいには、これはすこ」 回 o 文化論の「「東団主義」という錯覚」高野陽太郎 8 演習目安時間 30 66

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