Contemporary writings
Senior High

⑶.⑷.⑺.⑻を教えてください

昨日、久しぶりに“梅雨の晴れ間に、大文字山を登った。先月の激しい雷雨で土砂が“クズれ、 足もとが悪いところもあって、散歩にしては 。ゲワしい道程である。そのぶん、登り切ったときの爽 快感も格別だ。山頂からの眺めを楽しみに登る人も多い。僕は大体、考えごとをしながら登るので、 山頂に着くとそのまま景色を °一督して引き返してしまうのだが、昨日は珍しく、しばらくぼうっと していた。 すると、遠く彼方に連なる山の緑の中に、キラッと光るものが見える。正体はいまひとつ。判然 としないが、山の中の何かが太陽の光を反射しているのだろうと思う。それが、キラッキラッと、繰 り返し光る。僕は遠くのその光が、遠くに見えるということが何とも不思議に思えて、ただ。ギョウ ふした。 太陽の光が何かに当たって跳ね返り、その光の粒子が空中を伝わって。フクザツな物理化学的過 程を引き起こし、結果として、脳内にある活動のパターンが生成していく。この脳の活動によって、 僕の「見える」という経験が生み出される。~大雑把に言えば、これが 科学的な説明になるだろうか。 しかし、だとしたら、なぜ山の風景は「目の前」にではなくて、遠くに、ずっと向こうに、「あ そこに」はっきり見えるのか。僕が見ているのが山の中の光そのものではなくて、そこから空中を伝 わり、目の中にまでやってきた光の粒子なのだとしたら、なぜ僕にいま「見える」のは、その到来し てきた日の前の粒子ではなくて、身体のずっと向こうの、遠くの、山の中の、まさに「あそこの」光 なのだろうか。考えれば考えるほど不思議になって、僕はただじっと、その光を見つめ続けた。 いま僕の手前の床の間に、花瓶に生けられたスターチスがある。花は、その花が生けられたまさ に「そこ」にあるように見える。僕は花から到来した光の粒子を見ているというより、その花を、 直に見ているように感じる。手の届かない、日で直接触れているわけではないその花が、その場所 森田真生「白紙」ワークシート*読んで考えたことを、話してみよう* ト (1)-7見える」ということの にありありと、はっきりと見える。 光の粒子と網膜の物理的接触というよりも、もっとはるかに親密な関係を、僕は花と結んでいる ように思える。花が「見える」ということは、どこか深いところで花と直に触れ合っていることだと いうふうに思える。花だけでなく、花瓶と、あるいは山と空と、つまりは環境のすべてと、いつの間 にか僕は心を通わせ合っていて、その「通い合う心」が「見える」「聞こえる」「わかる」ということ を、背景で支えているような気がしてくる。 「見える」ということは実際、今の人類にはとてもまだ言葉にできないような、不思議で奇跡的 な事態なのではないか。あまりに不思議で、あまりに大きな謎なので、(かんら)「当たり前」と いうことにされてしまう。 不思議なことを当たり前のこととして、(すなわて) は前に進めないところがある。 (下とんに)「見える」「聞ごえる」機械は作れないとしても、「見える」ことを前提として、そ の能力を拡張する眼鏡や望遠鏡や顕微鏡を作ることならできる。自力で「わかる」機械はなかなか作 れそうにないが、人の「わかる」力を前提として、それを延長することならコンピュータにできる。 そうして人は、最大の謎を、最奥の深秘をひとまず括弧にくくることにして、不思議の先に、広 大な知と実用の世界を構築してきた。いまや 前提の、すべてを支える原初の不思議の、不思議であることすら自覚されない。 「前提」とすることによってしか、人 い その構築された世界はあまりに壮麗で、足もとの
数学に取り組んでいると、それまでわからなかったはずのことがある瞬間にふとわかる経験をす ることがある。それは、数学を学ぶ最大の喜びの,シュンカンでもある。 高校時代の僕はその喜びをまだ知らず、ただ受験科日の一つとして数学を学んだ。問題集の解答 を繰り返し書き写して解法を「暗記」するという勉強の仕方をしていた。それによって知識やテクニ ックは身についても、肝心の「わかる」という経験の喜びを味わうことはできなかった。 大学に入って岡潔のエッセイに出会い、自力で解く前に解法を知ると、「 い問題になってしまう」と彼が書いているのを読んで、はじめて、解答を閉じて問題と向き合うこと を知った。問題を頭に入れて、あとは白紙と。対侍する。それはとても怖いことである。 白紙と向き合う時間は、地図のない森をさまようのにも似た心細さがある。つい誰かに道を尋ね たくなる。そこをぐっとこらえて、ただ自分の身一つで、白紙と辛抱強く向き合う。 方針を立てる。計算してみる。幾度も失敗を繰り返しながら、それでもあきらめずに イドみ続 ける。そうすると、ときに本当に、真っさらの紙から始めて自分で歩んで、わかってしまう瞬間があ る。最後までどうしてもわからないことももちろんあるが、最初はさっぱりわからなかった問題を、 独カで解決した瞬間の喜びは格別である。 わからない自分が白紙と向き合い、“辛抱強く試行錯誤を繰り返しているうちに、ある瞬間「わ かった」自分に変わるのだ。それはまるで母親の胎内にある日突然いのちが宿るような、「零」から 何かが生まれる『センレツな体験である。それがどんな小さな、“取るに足らない発見だとしても、 白紙から始めて、自力で何かをわかる瞬間の喜びは何ものにも代え難い。 「見える」ことや「聞こえる」ことがそうであるのと同じように、「わかる」こともまた、大き な不思議だ。その喜びに立ち会おうとするならば、人はその不思議の芽生える場所にまで、降り立っ ていく必要がある。簡単に言えば、 最初はどんなに心細く、惨めに思えたとしても、自分の身体と、一枚の白紙から、まずは始める それはもう解けな 白紙と向き合う勇気をふりしぼらないといけないのである。 ことにしよう。 二重傍線部 a~jについて、カタカナは漢字に直し、漢字はその読みをひらがなで示しなさい。 2太線部A~Eについて、意味を(I)推理し、(=)調べなさい。 (-)推理する=今までに知っている似たような意味の言葉で置き換えてみる、置き換えに使える 似た意味の語句を本文から探してみる、漢字の意味から考えるなど、いきなり辞書を引かず にちょっと考えたり、探したりしてみる。 ()調べる=辞書を引く 3ア傍線部 (1) と「同じことを言っている」場所を探し、本文に線を引いてみなさい (何か所でも)。 イ線を引いた中から、傍線部(1)と同義の部分を十五字以内で抜き出しなさい。 ウ「『見える』ということ」について、筆者なりの説明がされている形式段落を番号で答えなさい。 4傍線部(2)と「同じこと」を比喰を用いて表現した部分を十字以内で抜き出しなさい。 5傍線部(3)とは、どのような世界か、本文中の言葉を用いて七十字以内で説明しなさい。 6傍線部(4)とあるが、それはどうしてか、本文中の言葉を用いて五十字以内で説明しなさい。 傍線部(5)とあるが、「白紙と向き合う」のにどうして「勇気」が必要なのか、比輸を用いて説 明した段落を段落番号で答えなさい。 8最終段落は筆者から読者への誘いであるが、それによって得られるのは何か、本文から解答欄の字 数で抜き出しなさい。

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