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Chemistry Senior High

この問題の問3について質問です!答えは「大きくなる」で理由が「過マンガン酸イオンは塩化物イオンを酸化させてしまうためその分だけ過マンガン酸カリウム水溶液を加えてしまうことになるから」だったのですが、よく分かりません💦なぜ酸化させてしまうと過マンガン酸カリウム水溶液を加えてし... Read More

6 次の文章(a) と(b)を読み、 以下の問1~ 問5に答えよ。 (a) (CODの説明) 湖沼などの水質汚濁の程度を表す指標に化学的酸素要求量 COD がある。 汚水 などに含まれる有機化合物は、水中の微生物の餌となり,これを繁殖させたり還元剤として溶存酸 素と反応したりするため, 異常に多く含まれると, 水中の生物を酸素欠乏に陥らせ, 汚濁や悪臭の 原因となる。 湖沼水(試料水)に含まれる有機物を過マンガン酸カリウム KMnO 4 などの強力な酸化剤で酸化 分解した時に使われる酸化剤の消費量を、酸素を酸化剤として用いた場合の酸素の量[mg/L] に換算 した値を COD とする。 この値が大きいほど水が汚れていることになる。 COD は汚れた湖沼で 5.0mg/L以上,きれいな湖沼では 3.0mg/L 未満であるとされる。 以下の手順で COD の値を求める実験を行った。 手順① 試料水 (河川水) 50mLに,塩化物イオンを除去するために (a) 硝酸銀水溶液を 10mL加え、沈殿を生じさせ, ろ過して塩化銀AgCl の沈殿を取り除いた。 手順② 手順①のろ液に 5.0 × 104mol/Lの過マンガン酸カリウム20mLと希硫酸を加え, 30分間加熱をした。 手順③ 加熱後,試料水溶液の赤紫色が消えていないことを確認した後, 2.5×103mol/Lの シュウ酸ナトリウム水溶液を10.0mL 加えると無色になった。 手順④ この溶液を5.0× 104mol/Lの過マンガン酸カリウム水溶液で滴定したところ, 終点 に達するまでに 5.08mL 要した。 手順⑤ 試料水の代わりに純水 50mL を用いて同様の操作を行い, 5.0×10 -4 mol/Lの過マ ンガン酸カリウム水溶液で滴定したところ, 終点に達するまでに0.08mL 要した。 +20 d 問1 MnO4 + 8H+ + 5e¯ この試料水中の有機物を酸化した過マンガン酸カリウムの物質量は何molか, 有効数字2桁 で求めなさい。 ただし, 過マンガン酸イオンとシュウ酸イオンは各々次式のように反応する。 Mn2+ + 4H2O A → C2O42- ← 2CO2 + 2 問2 この試料水の COD [mg/L] を有効数字2桁で求めなさい。 ただし, 酸素が酸化剤として働く ときの反応は次式で示しておいた。 酸素 O2 の分子量は32である。 O2 + 4H + 4¯ ->>> 2H2O 53 下線部(a)の操作を行わなかった場合, COD の値は問2の値と比べ, 大きくなると想定され るか,それとも小さくなると想定されるか, 解答欄の 『大きくなる』 『小さくなる』 のどちらか に○をした上で, それを選んだ理由を説明しなさい。 6 2.571 b

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Japanese history Senior High

徳川家の出来事A〜Fまでを年代の古い順に並ばなければいけないのですが、BFDAECの順であっていますか?教えて頂きたいです🙇🏻‍♀️

3 以下の問に答えよ。 A: 徳川家宣は、 朱子学者の(Ⅰ)と側用人の間部詮房を信任して、 政治の刷新をはかろうとした。 しかし、 徳川家宣は在職わずか3年余りで死去し、 そのあとを継いだ徳川家は満3歳であったため、 引き続き ( I )らが幕府政治を担うことになった。(I)は①長崎貿易で、 多くの金銀が流 出していたことを問題視し、これを防ぐために② 貿易額を制限した。 B:③関ヶ原の戦いで勝利したⅡは、1603年、④全大名に対する指揮権の正統性を得るための 征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開いた。1605年、将軍が世襲であることを諸大名に示すため、 子の(Ⅲ)に宣下を受けさせた。その後(Ⅱ)は駿府に移ったが、大御所として実権を握り続 け、大坂の陣で豊臣氏を攻め滅ぼし、その直後、大名の居城を1つに限り、⑤武家諸法度を制定して大 名をきびしく統制した。(Ⅲ)は、⑥天皇や公家が守るべき朝廷の運営などの基準を定め、娘を御 水尾天皇に入内させた。 C : 徳川宗家 (本家) がとだえると、 ⑦ 御三家の紀伊藩主であった(Ⅳ)が将軍になった。 ( N )は、29年間の在職のあいだ、諸政策を実行して②幕政の改革に取り組んだ。18世紀後半 は⑨幕藩体制にとって大きな曲がり角となった。 ⑩ 三都や城下町の町人地中心部に住む都市民衆は、零 細な棟割な側に住み、わずかな ① 貨幣収入で暮らしを支え、物価の上昇や飢饉、災害のときには、たち まち生活を破壊させた。 D : 幼少の徳川家綱を会津藩主で叔父の(V)が支えたことで、 社会秩序が安定しつつあった。 平和 が続く中で、 重要な政治課題となったのは、戦乱を待望する 12牢人や 「かぶき者」 への対策であった。 17 世紀後半には、政治の安定と経済の発展とを背景に(VI)が将軍となった。 ( V )の政治 は(VI)が(a)として支えた。 (VI)は代がわりの武家諸法度を出し、 13 幕府の統治理念 に変化があった。 また (VI)は、 1生類すべての殺生を禁じ、 捨子の保護なども命じた。 E 15 田沼意次が退いたあと、 徳川家斉の補佐として (b)に就任したのが、 白河藩主(VII)で ある。 国内外の危機がせまるのを感じて、飢饉で危機におちいった農村を復興することによって、幕府 の財政基盤を復旧し、 ⑩6 打ちこわしを受けた江戸の治安問題を解決し、 17 ロシアを中心とする 18 海外勢 力に対応するための 19 諸政策を実行していった。 IX SUPRA CRE F:徳川家は、 1635年、新たな武家諸法度を発布し、諸大名に法度の遵守を厳命した。 その中で、 大名には20国元と江戸とを1年交替で往復する制度を義務づけ、大名の妻子には江戸に住むことを強 制した。こうして()の頃までには、2幕府の職制についても整備された。 1637年、2島原 の乱後、幕府は、キリスト教に対してきびしい監視を続けていった。 問1 A~Fの文中(I) ~ (V)に入る人物名をそれぞれ漢字で答えよ。 IX 知・技 9

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