奈良時代後半〜平安時代まとめ【歴史】
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中学1年生
奈良時代の後半から平安時代のまとめです!
奈良時代はほんとに少ししか書いてないです💦
追記 R8.2.2
1ページ目の奈良時代の桓武天皇のところが重複していました。すみません💦
下のほうが若干見やすいと思います。確認不足で申し訳ないです💦
ノートテキスト
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No. Date R7 12:15 奈良時代 743年(墾田永年私財法) 自分で(新に)開墾した土地は、(永久)に所有することを 認める=国民が(私有地)をもつことを許可 土地の(墾田永年私財法)によって(公地公民)の原則が崩れ、 飛鳥~奈良時代に成立した(天皇)を中心とする(中央集権国家の 体制がしくずれる)きっかけを作った。 →奈良時代の後半~ (朝廷)の支配力の衰え&(寺院・貴族)の権力拡大 (桓武天皇 乱れた政治を改め、中央集権国家体制の立て直しを目指す。 政策①農民の負担軽減(雑徭60→30日、防人廃止など) 政策② 国司など役人の不正の取り締まり 政策③(平安京遷都(794年) 現在の京都市:1869年、東京に遷都するまで1000年以上となった。 政治の中心地が鎌倉に移るまでの約400年間を(平安時代という 勢力をもった(貴族や仏教勢力との関係を断ち切り、新しい都で (中央集権国家体制の立て直しをはかろうとした。 「奈良時代後半 (桓武天皇 目標活乱れた政治を改め、中央集権国家体制の立て直しを目指す。 政策①農民の負担軽減(雑徭60→30日、防人廃止など) 政策② 国司など役人の不正の取り締まり 政策③(平安京遷都(794年) い 現在の京都市 1869年東京に遷都される。 まで1000年以上都となった。 794 なくようぐいす平安京 で覚える!! 政治の中心地が鎌倉に移るまでの約400年間を (平安時代という ねらい・勢力をもった(貴族や仏教勢力との関係を断ち切り、 新しい都で(中央集権体制の立て直し)をはかろうとした。
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No. Date R8 18 奈良時代~平安時代 逆に政治と結びついた奈良の仏教勢力に批判的な桓武天皇は、 唐に僧を派遣して、より正しい仏教の在り方を学ばせた。僧たちは 帰国後、山中にこもって厳しい修行を積み、国の繁栄を祈る仏教の 宗派を開き、桓武天皇によって保護された。 ・(最澄)…805年帰国。比叡山延暦寺)で(天台宗)を開く。 ・(空海)・806年帰国、高野山(金剛峯寺)で(真言宗)を開く。 漢詩文や書道にもすぐれ、昔の名人としても有名、弘法大師とも、 政策④ 東北地方への進出 …(蝦夷)を支配下に入れるため、(坂上田村磨呂)を (征夷大将軍)に任命し、東北地方に遠征させた。 ねらい・朝廷に対する(不満を減らす) ・税収入を増やす) 3 「平安京の造営、東北地方への進出という二大事業はその後・・・ 805年12月(民衆の負担増)から打ち切り 平安京は未完成のまま 13か月後に天皇は亡くなり、改革は途中で終わった。 <律令制の変化> 19世紀 (班田収授法)を行うことが困難に ↓ [10世紀朝廷は班田収授の制度を諦め、有力な農民に土地を まとめ 割り当て、税を納めさせることにした。 =(会地公民)制の完全な崩壊 地方の政治は(国司)に一任された。 奈良時代~平安時代初頭にかけて失策が続き、(農民の負担増)。 (貴族、寺社の勢力拡大)を招いた。 →飛鳥時代から続いた天皇を中心とする中央集権体制が 平安時代に崩壊 KOKUYO LOOSE-LEAF ノー8368T mm ruled×30 lines
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|No. Date R81 平安時代 平安初頭~ 公地公民制の崩壊 ⇒ 手院・貴族の勢力拡大 中央集権国家の崩れ 二天皇の支配力の低下 他の勢力を退け、(藤原氏)が勢力を拡大 藤原氏はどのようにして力を握ったのか? 娘を天皇の后にし、その間にできた男の子を次の天皇にすることで、 天皇の祖父という立場につき、力を握った。 (摂関政治) 天皇が幼いとき→(摂政)、天皇が成人したあと→(関白)の位につき、 天皇に代わって政治を行う。(天皇の祖父という立場から後見した) 11.世紀前半の(藤原道長)(藤原頼道)親子の時に最盛期 天皇から(貴族)へと政治の実権が移っていった。 <東南アジア情勢の変化と国内への影響> 飛鳥・奈良時代 遣隋使・遣唐使の積極的な派遣 中国を手本とした国づくり 894 はくしに 平安時代 9世紀末唐の衰退 もどそう (遣唐使) 894年(菅原道真)の進言 =(遣唐使)の停止 中国風 日本風への変化 「(国風文化)・平安時代に栄えた日本の風土や生活にあった。 貴族の文化 <建築> (寝殿造)・・・貴族の住まいに取り入れられた日本風の建築様式 部屋は板の間で、間仕切りがほとんどなく、屏風などで 仕切られていた。建物同士が渡り廊下でつながれている。 ・(平等院鳳凰堂)…藤原頼道が宇治に建てた阿弥陀堂。 10世紀~治安の悪化などで社会が乱れ、不安定な世の中を嘆き 念仏を唱え、阿弥弛仏にすがれば、死後は極楽浄土に生まれかわる ことができるという(浄土の教え(浄土信仰))が貴族の間に広まったため、 このような阿弥弛堂が盛んに造られた。
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平安時代 V 文学> (仮名文字)・漢字をもとに生まれた文字 No. Dein R8112 日本語の発音を簡単に読み書きでき、自分の考えや感情を 自由に書き表せるようになった。 (古今和歌集)…10世紀はじめに(細覚え)が編纂した和歌集 代表歌人:小野小町、在原業平など ・(源氏物語)…11世紀初めに(紫式部)が貴族社会の恋愛 模様を物語に描いた。藤原道長の娘、彰子に仕えた ・(枕草子)…11世紀初めに(清少納言)が宮廷生活で体験した ことを記した随筆、藤原道隆の娘、息子に任えた。 武士の登場 奈良~平安時代の国内の様子 厳しい税から逃れるために農民たちが逃亡偽籍を繰り返し、口分田は 荒れ、朝廷の税収入は減る一方、これを解消するために、743年に (墾田永年私財法)が出されたが、全ての土地と人民が天皇のもの であるという(公地公民)の原則が崩れてしまう。さらに、私有地を持てる ようになったことから、貴族や寺社などが私有地(荘園)を広げて力を 強めていく、結果として、都では〈藤原氏)という貴族が天皇をしのぐほどに なった。朝廷は、これまでの方法で税を集めることをあきらめ、都から派遣した 役人である(国司)にすべて任せてしまった。そのため、必要以上に税を集の 自分の収入を増やすなど勢力を伸ばす者も出てきた。こうして政治は乱れ、 地方も都も治安が悪化していった。 <武士の誕生> 地方 (国司)とその子孫 地方に住み着き勢力を 国司の厳しい取り立て 伸ばす、税の取り立てをから自分の私有地を守る 厳しく行うため、武装をために武装をはじめた。 はじめた。 (有力農民) 都(平安京)] (軍事貴族) (武官) 下級貴族や地方有力者が 武官に任命され、都の警備 などをするようになった。 武士たちは有力なリーダーを中心に主従関係を結び、一族の長が、 子や兄弟をまとめ、郎党(家来)を従え、「武士団」を形成した。 特に、天皇家の血を引く(源氏)(先祖は清和天皇)、(平氏)(先祖は 桓武天皇)の元には、多くの武士が集まり、彼らを棟梁とする武士団が 勢力を拡大していった。 KOKUYO LOOSE LEAF -83627 6mm ruled 38 lines
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No. Date R8 112 平安時代 やがて地方武士は・・・ 国司が支配するエコ(公領)の管理者となる。 →年貢(税)の取り立て、犯罪の取り締まり 自ら土地の開発も進めるように 有力貴族・寺社=荘園領主(表向きの所有者) (土地を奇進) 土地の支配を認める。 農民から集めた年貢を納める名前を貸し、権力で土地を守る。 地方武士(実質的な土地の支配者) <武士の台頭> 939~41年(藤原純友の乱 935~40年(平将門)の乱 元は伊予の国司だったが、 瀬戸内海の海賊たちを率いて 太宰府を攻撃したり、近くまで 攻めこんだりした。 三原経基が平定。 みずから「新皇」と名乗り、関東地方 全体を朝廷の力の及ばない独立国に しようと、武士を率いて役所を襲った。 平貞盛が平定 このような反乱が相次いで起こったことで、朝廷は衝撃を受けた。 戦力を持たない朝廷は武士を使い、これらの地方の反乱を収めた。 →反乱を収めた武士の力が認められ、天皇や藤原氏など有力貴族に仕える 「待」として取り立てられ、彼らの(身辺警護や都の警備)に当たるように、 • ・相次ぐ地方の反乱をおさめたことにより、(朝廷と武士団)の関係が強まった。 12世紀~ 1051~62年前九年合戦・1083~87年後三年合戦 瀬戸内海の海賊などの反乱が東北地方の有力者同士の勢力争いから 相次ぐ。 平忠盛が平定 起こった二度の戦乱、源頼義&義家が平定 「西国(西日本)では(平氏)が、東国(東日本)では(源氏)が勢力を持つように 東北地方の発展 源氏の助けを借り、後三年合戦に勝利した(奥州藤原氏)によって統一され、 北方との交易や、砂金や馬の売買で築いた審をもとに、独立国のような勢力を持つ ようになった、本拠地である平泉(今の岩手県)には、金色堂で知られる(中尊寺)などの 寺院や立派な屋敷が立ち並び、親子三代、約100年間にわたって襲栄した。
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平安時代 平安時代の朝廷内の様子 Date R81.15 No. 娘たちを天皇に嫁がせ、その間に生まれた男子を次の天皇にし、天皇の祖父という 立場から(摂関政治)を行い、政治の実権を握った藤原氏、中でも、 (藤原道長),頼通親子のときに絶大な権力を持つようになったが、11世紀 半ばを過ぎた頃から、その権力にもかげりが見え始める。 1086年(白河上皇)による(隠政)の始まり 白河天皇は幼少の息子(堀河天皇)に位をゆずり、自らは上皇(院)となって 摂政・関白を抑えて実権を握った 3 上皇の力が増すと、諸国の有力武士や中小貴族などは、自分たちの 私有地を守るため、上皇の権力を頼って、次々と土地を寄進するように なった。彼らは、荘官として実質土地を管理し、上皇は代わりに、土地に 国司が立ち入ったり、朝廷が税を課したりすることができないようにした ※天皇は立場上、私有地を持てないという制約があったが、上皇は制約の ない自由な立場。 [北面の武士] 上皇…年貢をおさめてもらえる。 武士・土地を保護してもらえるア 結びつきを強めた ・上皇の住まいの北側に、上皇に直接仕える武士1000人ほどを配置する 詰め所が置かれた。(これまでに功績を挙げた(平氏)や(源氏)が採用された) 身辺警護をしたり、寺社の(強訴)を防いだりするために動員された 1156年(保元の乱) 上皇と天皇の対立に、藤原氏一族の争いが結びついて起こったもの。上皇側と 天皇側は、それぞれ平氏・源氏の武士を味方につけて戦った。 皇室・上級貴族内部の争いを、武士の力で解決した戦い。 勝利したのは(後白河天皇つ側 1159年(平治の乱) 保元の乱後に勢力を増した後白河上皇の側近と平氏に対する不満が、その他の上皇の 側近や二条天皇派、源氏の中で高まっていった。平清盛が京都を留守にする隙を 狙って、源義朝が後白河上皇の御所を襲ったことで始まった. 結果(平清盛)が勝利し、後白河上皇の信頼が厚くなり、一方の(源氏)は勢力を 失い、武士団は壊滅した。
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No. Date ・R81.20 平安時代 • . <平治の乱後の源氏> 源義朝、長男義平、次男朝長ら、主だった武将は死亡。生きのびた一族も 地方で散り散り 13歳だった三男(源頼朝つは捕らえられるも助命→伊豆に流罪. その他の幼い弟たち(今若って若)は出家して僧侶に 当時2歳だった牛若(のちの(源義経))も寺へ預けられるが、のちに東北の <奥州藤原氏)のもとで育てられた。 2つの合戦は、朝廷のある「平安京」で起き、政治の争いを武士の力で決着をつけた。 →武士の政治への影響力が強まっていった) <平治の乱後の平氏> ・有力武士団であった源氏の壊滅 平氏がいなければ、朝廷は戦乱を収められなかった。 ・相次ぐ戦乱による都の治安悪化 →(朝廷の中の軍事力、警察力がすべて平氏に集まるように) <平氏の政治> 後白河上皇と、上皇の第一皇子である二条天皇の両方に仕えて信頼を得て、大納言や 内大臣など、次々と高い役職に出世した. 1167年、武士として初めて、朝廷の最高位である(太政大臣)の位に就いた →(軍事力だけでなく、政治の実権を握った。) ・一族の者たちを高い役職や国司にし、日本全国にある66か国のうち、半数以上を 支配した.また,500余りの荘園を有し、そこから収入を得た。 10世紀後半に中国を統一した(宋)と(大輪田泊)で、(日宋貿易)を行い、 莫大な財貨を手に入れた。…宋銭が大量に輸入され、大陸との交流が活発に →(朝廷内の誰よりも豊富な財力を得た。) 娘の徳子を高倉天皇に嫁がせた →(娘を天皇に嫁がせ、地位を固めようとした) 平子一族の繁栄「平氏にあらずんば、人にあらず」
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平安時代 Date R81 .22 No. <平氏政権のゆらぎ> 1176年 後白河法皇の妻平滋子が亡くなる。 →清盛と後白河法皇の対立が表面化 1177年ヶ谷の陰謀・平氏打倒の陰謀 事前に発覚 → 多くの後白河法皇の側近が処分 1179年治永三年の政変…後白河法皇を幽閉、法皇による院政を停止 1180年 高倉天皇が(安徳天皇に譲位 平家への不満が爆発した <平氏打倒へ> 1180年以仁王の挙兵 → 諸国に散らばった源氏や、寺社勢力に「平氏討伐」の命令を下す。 以仁王自身は戦死してしまうが、諸国の武士が立ち上がった。 弟たちゃ(北条氏) ↓ 木曽(源義仲) などの武士の協力力 伊豆(源頼朝) 1180年 8月 石橋山の戦い敗北、頼朝は(鎌倉)で態勢を立て直す。 10月 富士川の戦い勝利、水鳥の羽音に驚いた平氏は逃走 " 頼朝は弟の(源義経)・範頼を平氏討伐に向かわせ、鎌倉にとどまる。 →(朝廷とは距離を置いた、日本初の武士による政権を目指す) ・1180年11月侍所を設置…関東の武士たちをまとめる。軍事・警察担当 ・1184年 政所を設置・政治に関する事務・財政 問注所を設置・武士たちのもめ事を裁判で解決する。 1181年 平清盛が熱病で死亡→平氏の士気が下がる 1183年 倶利伽羅峠の戦い→勝利した事件は京都に入るが、治安悪化により追討. 1184年 宇治川の戦い=源氏同士の戦い " -1谷の戦い勝利した義経は、左衛門尉・検非違使という位を授かる 1185年 屋島の戦い " い (壇ノ浦の戦い →幼い安徳天皇は海に身を投げた→平氏滅亡
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No. R7 12 15 奈良時代 743年( ) 自分で(こ)開墾した土地は、()に所有することを 認める=国民が(L)をもつことを許可 土地の( ・白)によって(ハ)の原則が別れ、 飛鳥~奈良時代に成立した()を中心とする(パ)国家の 体制が()きっかけを作った。 →奈良時代の後半~ (…)の支配力の衰え&)の権力拡大 (1)天皇 乱れた政治を改め、中央集権国家体制の立て直しを目指す。 政策① 農民の負担軽減(雑徭60→30日、防人廃止など) 政策② 国司など役人の不正の取り締まり、 政策③(遷都(794年) 111 現在の京都市。1869年、東京に遷都するまで1000年以上となった。 政治の中心地が鎌倉に移るまでの約400年間をく 時代という。 勢力をもった( )との関係を断ち切り、新しい都で ...)をはかろうとした。 奈良時代後半 (1)天皇 目標活乱れた政治を改め、中央集権国家体制の立て直しを目指す ↓ 政策①農民の負担軽減(雑律60→30日、防人廃止など) 政策② 国司など役人の不正の取り締まり 政策③ ( )遷都(794年)794 [!! 現在の京都市 なくようぐいす 1869年東京に遷都される。 で覚える!! まで1000年以上となった。 政治の中心地が鎌倉に移るまでの約400年間を ( )時代という 「ねらい・勢力をもった( 新しい都でく との関係を断ち切り、 L)をはかろうとした。
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No. 奈良時代~平安時代 Date R8 18 逆に政治と結びついた奈良の仏教勢力に批判的な桓武天皇は、 唐に僧を派遣して、より正しい仏教の在り方を学ばせた。僧たちは 帰国後、山中にこもって厳しい修行を積み、国の繁栄を祈る仏教の 宗派を開き、桓武天皇によって保護された。 7805年帰国、比叡山( ・・・806年帰国、高野山( )で(... )でし )を開く )を開く。 漢詩文や書道にもすぐれ、昔の名人としても有名、弘法大師とも、 政策④ 東北地方への進出 )を支配下に入れるため( )を )に任命し、東北地方に遠征させた。 ねらい・朝廷に対する( 平安京の造営、東北地方への進出という二大事業はその後・・・ 805年12月( )から打ち切り→平安京は未完成のまま 3か月後に天皇は亡くなり、改革は途中で終わった。 <律令制の変化> )を行うことが困難に ↓ 19世紀 ( [10世紀朝廷は班田収授の制度を諦め、有力な農民に土地を 割り当て、税を納めさせることにした 制の完全な崩壊 地方の政治は ( )に一任された。 まとめ ( 奈良時代~平安時代初頭にかけて失策が続き、( ・)を招いた。 →飛鳥時代から続いた天皇を中心とする中央集権体制が 平安時代に崩壊 ), KOKUYO LOOSE-LEAF 3 mm rullines
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No. Date R81 平安時代 平安初頭~ 公地公民制の崩壊 ⇒ 中央集権国家の崩れ ・寺院・貴族の勢力拡大 二天皇の支配力の低下 凸 他の勢力を退け、( )が勢力を拡大 藤原氏はどのようにして力を握ったのか? 娘を天皇の后にし、その間にできた男の子を次の天皇にすることで、 天皇の祖父という立場につき、力を握った。 天皇が幼いとき→( 2、天皇が成人したあと→( )の位につき、 天皇に代わって政治を行う。(天皇の祖父という立場から後見した) ・11世紀前半の( 親子の時に最盛期 ・天皇から()へと政治の実権が移っていった。 <東南アジア情勢の変化と国内への影響> 飛鳥・奈良時代 894 はくしに 平安時代 9世紀末唐の衰退 もどそう )の進言 遣隋使・遣唐使の積極的な派遣 中国を手本とした国づくり 894年( =( )の停止 -> 中国風 日本国への変化 <建築> ○…平安時代に栄えた日本の風土や生活にあった。 貴族の文化 …貴族の住まいに取り入れられた日本風の建築様式 部屋は板の間で、間仕切りがほとんどなく、屏風などで 仕切られていた。建物同士が渡り廊下でつながれている。 「…藤原頼道が宇治に建てた阿弥陀堂。 10世紀~治安の悪化などで社会が乱れ、不安定な世の中を嘆き 念仏を唱え、阿弥強仏にすがれば、死後は極楽浄土に生まれかわる )が貴族の間に広まったため、 ことができるという(シ このような阿弥強堂が盛んに造られた。
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No. Dane R8 1 12 ・( 平安時代 <文学> ・・・漢字をもとに生まれた文字 日本語の発音を簡単に読み書きでき、自分の考えや感情を 自由に書き表せるようになった。 …10世紀はじめに(····· ・代表歌人:小野小町、在原業平など )…11世紀初めに( が編纂した和歌集、 貴族社会の恋愛 模様を物語に描いた。藤原道長の娘、彰子に仕えた …11世紀初めに(ご が宮廷生活で体験した ことを記した随筆、藤原道隆の娘、息子に仕えた。 武士の登場 奈良~平安時代の国内の様子 であるという( )にすべて任せてしまった。そのため、必要以上に税を集め 自分の収入を増やすなど勢力を伸ばす者も出てきた、こうして政治は乱れ 地方も都も治安が悪化していった ようになったことから、貴族や寺社などが私有地( 強めていく。結果として、都では( なった。朝廷は、これまでの方法で税を集めることをあきらめ、都から派遣した。 役人である( 厳しい税から逃れるために農民たちが逃亡偽籍を繰り返し、口分田は 荒れ、朝廷の税収入は減る一方、これを解消するために、743年に つが出されたが、全ての土地と人民が天皇のもの の原則が崩れてしまう。さらに、私有地を持てる )を広げて力を という貴族が天皇をしのぐほどに <武士の誕生> 地方 都(平安京) )とその子孫 ) ) ( (武官) 地方に住み着き勢力を しい取り立て 伸ばす、税の取り立てをから自分の私有地を守る 厳しく行うため、武装をために武装をはじめた。 国司の厳しい 下級貴族や地方有力者が 武官に任命され、都の警備 などをするようになった。 はじめた。 武士たちは有力なリーダーを中心に主従関係を結び、一族の長が、 子や兄弟をまとめ、郎覚(家来)を従え、「武士団」を形成した 特に、天皇家の血を引く()(先祖は清和天皇)( 桓武天皇)の元には、多くの武士が集まり、彼らを棟梁とする武士団が 勢力を拡大していった (先祖は KOKUYO LOOSE-LEAF t
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No. Date R8 1 12 平安時代 やがて地方武士は・・・ 国司が支配する土地(公領)の管理者となる。 →年費(税)の取り立て、犯罪の取り締まり 自ら土地の開発も進めるように 有力貴族・寺社 荘園領主(表向きの所有者) ↑ 土地の支配を認める。 農民から集めた年貢を納める名前を貸し、権力で土地を守る。 地方武士(実質的な土地の支配者) <武士の台頭> )の乱 みずから「新皇」と名乗り、関東地方 全体を朝廷の力の及ばない独立国に しようと、武士を率いて役所を襲った。 平貞盛が平定 939~41年( 1の乱 935~40年( 元は伊予の国司だったが、 瀬戸内海の海賊たちを率いて 太宰府を攻撃したり、都近くまで 攻めこんだりした。 源経基が平定。 このような反乱が相次いで起こったことで、朝廷は衝撃を受けた。 戦う力を持たない朝廷は武士を使い、これらの地方の反乱を収めた。 →反乱を収めた武士の力が認められ、天皇や藤原氏など有力貴族に仕える • 「待」として取り立てられ、彼らの( ・相次ぐ地方の反乱をおさめたことにより、( 12世紀~ 瀬戸内海の海賊などの反乱が 相次ぐ [平忠盛が平定] に当たるように、 )の関係が強まった。 1051~62年前九年合戦・1083~87年後三年合戦 東北地方の有力者同士の勢力争いから 起こった二度の戦乱、源頼義&義家が平定 西国(西日本)ではく )が、東国(東日本)では( )が勢力を持つように 東北地方の発展 源氏の助けを借り、後三年合戦に勝利した( 北方との交易や、砂金や馬の売買で築いた審をもとに、独立国のような勢力を持つ ようになった、本拠地である平泉(今の岩手県)には、金色堂で知られる( )によって統一され などの 寺院や立派な屋敷が立ち並び、親子三代、約100年間にわたって撃栄した。
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平安時代 平安時代の朝廷内の様子 Date R81.15 No. 娘たちを天皇に嫁がせ、その間に生まれた男子を次の天皇にし、天皇の祖父という ミ)を行い、政治の実権を握った藤原氏、中でも、 立場から( 2.頼通親子のときに絶大な権力を持つようになったが、11世紀 半ばを過ぎた頃から、その権力にもかげりが見え始める 1086年( による( )の始まり 白河天皇は幼少の息子(堀河天皇)に位をゆずり、自らは上皇( 摂政・関白を抑えて実権を握った。 となって 上星の力が増すと、諸国の有力武士や中小貴族などは、自分たちの 私有地を守るため、上皇の権力を頼って、次々と土地を寄進するように なった。彼らは、荘官として実質土地を管理し、上皇は代わりに、土地に 国司が立ち入ったり、朝廷が税を課したりすることができないようにした ※天皇は立工場上、私有地を持てないという制約があったが、上皇は制約の ない自由な立場 上皇年貢をおさめてもらえる。 結びつきを強めた 武士・土地を保護してもらえるア 北面の武士 ・上皇の住まいの北側に、上皇に直接仕える武士1000人ほどを配置する 詰め所が置かれた。(これまでに功績を挙げたく 身辺警護をしたり、寺社の( つや( )が採用された) )を防いだりするために動員された. 1156年( 上皇と天皇の対立に、藤原氏一族の争いが結びついて起こったもの。上皇側と 天皇側は、それぞれ平氏・源氏の武士を味方につけて戦った。 皇室・上級貴族内部の争いを、武士の力で解決した戦い。 勝利したのは( 1159年( 側 保元の乱後に勢力を増した後白河上皇の側近と平氏に対する不満が、その他の上皇の 側近や二条天皇派、源氏の中で高まっていった。平清盛が京都を留守にする隙を 狙って、源義朝が後白河上皇の御所を襲ったことで始まった。 結果( つが勝利し、後白河上皇の信頼が厚くなり、一方の( 失い、武士団は壊滅した。 は勢力を
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No. Date R8120 平安時代 · <平治の乱後の源氏> 源義朝、長男義平、次男朝長ら、主だった武将は死亡。生子のぴた一族も 地方で散り散り 13歳だった三男( つは捕らえられるも助命→伊豆に流罪 2つも手へ預けられるが、のちに東北の ・その他の幼い弟たち(今若て若)は出家して僧侶に 当時2歳だった牛若(のちの( ( )のもとで育てられた。 2つの合戦は、朝廷のある「平安京」で起き、政治の争いを武士の力で決着をつけた。 <平治の乱後の平氏> 有力武士団であった源氏の壊滅 • 平氏がいなければ、朝廷は戦乱を収められなかった。 . 相次ぐ戦乱による都の治安悪化 →→ → <平氏の政治> 後白河上皇と、上皇の第一皇子である二条天皇の両方に仕えて信頼を得て、大納言や 内大臣など、次々と高い役職に出世した ・1167年、武士として初めて、朝廷の最高位である( →( )の位に就いた。 ・一族の者たちを高い役職や国司にし、日本全国にある66か国のうち、半数以上を 支配した.また,500余の荘園を有し、そこから収入を得た。 )で( )を行い、 10世紀後半に中国を統一した()と( 莫大な財貨を手に入れた。…宋銭が大量に輸入され、大陸との交流が活発に →( 2 娘の徳子を高倉天皇に嫁がせた。 →( 平子一族の繁栄「平氏にあらずんば、人にあらず」
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Date R8.1 22 No. 平安時代 <平氏政権のゆらぎ> 1176年後白河法皇の妻平滋子が亡くなる。 →清盛と後白河法皇の対立が表面化 1177年鹿ヶ谷の陰謀・平氏打倒の陰謀 事前に発覚 → 多くの後白河法皇の側近が処分 1179年 治水三年の政変…後白河法皇を幽閉、法皇による院政を停止 1180年 高倉天皇がく 天皇に譲位 平家への不満が爆発した <平氏打倒へ> 1180年以仁王の挙兵 →諸国に散らばった源氏や、寺社勢力に「平氏討伐」の命令を下す 以仁王自身は戦死してしまうが、諸国の武士が立ち上がった。 ↓ 弟たちゃく ↓ 木曽( > などの武士の協力力伊豆() →敗北、頼朝はく で態勢を立て直す。 1180年 8月 石橋山の戦い 10月 富士川の戦い勝利、水鳥の羽音に驚いた平氏は逃走 頼朝は弟の( →( 11180年11月 ・1184年 ・範頼を平氏討伐に向かわせ、鎌倉にとどまる。 侍所を設置・関東の武士たちをまとめる。軍事・警察担当。 政所を設置・政治に関する事務・財政 問注所を設置…武士たちのもの事を裁判で解決する。 1181年 平清盛が熱病で死亡→平氏の士気が下がる。 1183年 倶利伽羅峠の戦い→勝利した事件は京都に入るが、治安悪化により追討 1184年 宇治川の戦い=源氏同士の戦い " -1谷の戦い勝利した義経は、左衛門尉・検非違使という位を授かる 1185年 屋島の戦い " ( つの戦い 幼い安徳天皇は海に身を投げた→平氏滅亡
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中学歴史についてです(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)” 承久の乱の結果、幕府の支配はどのようになったか。(2)の答えを参考にして、「執権政治」の語句を使って書きなさい (2)については画像参照です💦 模範解答が ・幕府の支配が西国に広まり、執権政治が確立した ・幕府がほぼ全国を支配するようになり、北条氏の執権政治がいっそう強化された。 です この場合「幕府の支配が西国まで広がり、執権政治の影響を強く受けるようになった」 は正解でしょうか? 回答いただけると嬉しいです(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”
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これではダメですか?(1)
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歴史の質問です。 文禄・慶長の役で豊臣軍が朝鮮で苦戦した理由を教えてください!また、日本の弱みと朝鮮の強みも教えてください!
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記述問題の採点をしていただきたいです。 解答では 唐が衰えだことにより独自の文化が生み出されていた。 とあるのですが私が書いたのは 唐に遣唐使の派遣が中止され日本の文化が反映された。 と書きました。 あっていますか? お願いします
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