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現代文 高校生

現代の「世論操作」の意味段落を教えてくれませんか🙇‍♂️

る宣伝操作 2ロバート・マーサー Mercer (一九四六―)。 アメリカのコンピュ ータ科学者で、保守 系政治運動の支援者。 3ヘッジファンド投 資家から預かった資 金を投機的に運用し、 高い利回りを追求す る投資組織。 4CEO 最高経営責 任者。 学習のねらい 情報操作の具体優 現代の「世論操作」 絶対的をもって国の て支配する人 今、かつてのような、独裁者によるプロパガンダといったイメージとは違う形での世 論操作が行われています。 ◎有名な例で言いますと、アメリカの大富豪ロバート・マーサーは、大手ヘッジファン ドのCEOで、トランプ政権誕生の陰の立役者の一人です。 マーサーは、データ分析を もとに投資戦略を立てて収益を上げ、巨額の富を築きました。 マーサーは、こうしたデ ータ分析をもとにした投資で儲けてきたスペシャリストなのです。彼はその経験から、 政治もビッグデータ分析をもとに操作し、成功に導くことができると考え、トランプ政 権の選挙参謀となったケンブリッジ・アナリティカ(以下CA社)というコンサルティン グ会社に多額の資金を提供しました。このCA社は、二〇一六年のアメリカ大統領選の 際に、フェイスブックの情報データを無断で使用して親トランプの世論形成を主導した と報道されました。その後、同社は批判を浴びて二〇一八年五月に業務を停止しました。 CA社は、人々の政治傾向や意見分布をフェイスブックから得たビッグデータによっ て見事に調査分析したと言われており、一躍有名になりました。 CA社の副社長は次の ように言っています。 「水曜日の雨の朝に投票所に行かせることと、いつも使っている歯 磨き粉のブランドを変えさせることは、さほど変わりはない」。たとえば、ある選挙区で 共和党候補者を強化したいと決めたら、その地域のさまざまな関連データを徹底的に収 集・分析して共和党に有利な選挙キャンペーンを打ち、さらにその地域の人になるべく 投票所に行かせるような仕掛けを作り出して、共和党支持を増やしたと言われています。 これは、いろいろなやり方があるようですが、たとえば、フェイスブックを使ってい るとすれば、私の場合、自分の勤務先とか、さらには写真も載せています。ですから、 何歳ぐらいで、女性で、大学に勤めていることもわかるし、友達が誰かというのもわか ります。さらに、私はネットショッピングでトイレットペーパーや洗剤から缶詰まで買 っていますし、本もたくさん買いますから、私がどのような生活をしているのか、何を 考えているのか、フェイスブックやアマゾンは、おそらく私のことを私より知っている のではないでしょうか。 そして私が、たとえば、どこかで特定の政党の支持者と知り合いになったとして、フ フェイスブックの友達申請をされて、ま、いいやとプチっと押して友達になると、今度は Robert Leroy 5トランプ Donald John Trump (一九四六 -)。 アメリカの第 四十五代大統領。 6ビッグデータ 多種 多様で、リアルタイ ムに生成・更新され る膨大なデータ群。 コンサルティング会 社 経営上の問題や 課題などの解決をサ ポートする会社。 8共和党 民主党と並 ぶアメリカの二大政 党の一つ。トランプ 大統領の所属政党。 9選挙キャンペーン 選挙に勝つための組 織的な宣伝活動。 「私のことを私より 知っている」とは、 どういうことか。

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山崎正和さんの、水の東西という作品です。 傍線部分の、「そういうこと」とは、どういうことか教えていただきたいです。

SURB! O そののちにや、良秀がよち 山崎正和 水の東西 「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌のなかに、なんとなく人生のけだるさのようなものを感じることがある。 かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、や がて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気にとけて水受けが跳ね上がるとき、竹 が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。 見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし 何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも 引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせきと め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。 私はこの「おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介され るなかで、あの素朴な竹の響きが西洋人の心を魅きつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに 忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聴くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴 水の方が、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。 流れる水と、噴き上げる水。 そういえばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場にはいたるところにみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に 行けば、噴水はさまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という 噴水の群れが庭をぎっしりと埋めつくしていた。樹木も草花もここではそえものにすぎず、壮大な水の造型が轟きながら林 立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音をたてて空間 に静止しているように見えた。 時間的な水と、空間的な水。 そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統のなかに噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘 って水を見ることはあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代にいたるまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の 都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜け て、表情に乏しいのである。 西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発 達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そ ういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮した りねじまげたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。 言うまでもなく、水にはそれ自体として定まったかたちはない。そうして、かたちがないということについて、おそらく 日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむ しろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、かたちなきも のを恐れない心の現れではなかっただろうか。 見えない水と、目に見える水。 もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないと言える。た だ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本 人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕掛けだと言えるかもしれない。

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現代文 高校生

文章系がほんとにできなくて、、良かったら教えて欲しいです、、

解法テクニック m P叫エ社 松浦寿輝「小動物のユートピア』 判 展開図 主張の提示一1~3段落 次の文章を読んで、後の設問に答えなさい。 ただしそれは紙型の大小という物理的な問題でもなければ、頁数が厚いか薄いかという大著小著 の差の問題でもない。一冊の書物が「想像的」な対象としてわたしたちの内なる空間に浮上して くるとき、もしそれを小さなものとして想い描けないかぎり、わたしたちはその書物を本当には一 所有しえないということだ。そして、所有しえない書物とは、結局わたしたちには縁のない書物 のことなのだ。大きな本。それは、わたしたちがいまだ自分の肉体の内に摂り込みかねている本一 筆者の見解 時 書物の魅力は何と言ってもその小ささにある。人が本当に好きになれるのは小さな本だけだ。 書物の魅力はその【小ささ】にある 「想像界」の内で本を【小さくつ ろ一こ %D 本を【木わう)という行為 のことである。ことは哲学であろうが漫画であろうが変わりない。そして、大きな本が小さくな一 る手応えを味わう瞬間の、何という至福。 「想像界」の内で本を小さくすること。そのために必要なのは本当は、その本を全部読み通す とか内容を十分に理解するといっただけのことではない。たとえ隅々まで知的に把握しえたとこ 9 ろで大きいままにとどまる書物はいくらもある。わたしたちの肉体が、それを小さなものとして一 受容するという奇蹟が起こらねばならぬ。それがつまりは、愛するということだろう。そしてわ一 一般的な見解(本を愛すること) 。紙型などの【物 」な大小;ものと一 して所有できる書物の【物理】な」 まいに執着すること II 外見の審美的な鑑賞(4段落) たしたちが愛せるのは決まって小さなものだけである。こう言ってもいい。愛のただなかでは存一 在も事物も決まって小さくなる。それは、本が物質としてのものでなくなるというのとほとんど 同じことかもしれない。 本を全部読み通すとか内容を十分に理解」 かつう、愛書家とは、ものとして所有できる書物の物質的な位いに執着する人間のことと見な一 するとかいうように【 ん】に理解す されている。何年に出た第何版という歴史的な出自とともに、装工や紙質や印字の配置といった」 II 内容の知的な理解(4段落) 前段の主張からの発展|4.5段落一 だがわたしたちは、内容の知的な理解からも外見の審美的な鑑賞からも距離をおいたところで」 書物を愛したいと思う。そのとき書物は小さくなる。本当は、大きさ小ささといった物理的範略一 そのものから逸脱してしまうと言ってもよいのだが、ここではあえて「想像的」な比喉としての一 筆者の見解」 愛の対象」 II ||小ささ の利点は何よりも「【憶E]」性 小ささにこだわっておこう。その場合、小ささの利点は何よりもまずその「携帯」性にあるだろ う。わたしたちはどこにもかしこにも持ち歩ける本を好む。その対極にあるのは、どこか外国の s 図書館にたった一冊しか現存せず、然るべき身元証明を提示し、ややこしい書類手続きを経たう えでなければ閲覧することのできない稀観本といったもののイメージだろう。おいそれとは近寄一 物理的なもの =小さくてどこへでも持って 行ける(=携帯性) ることもできないし、ようやくそれに触れる機会にめぐりあっても、うっかりするとたちまち装一 本を愛すること 丁が壊れたり紙葉が制落してしまうので殊の外大切に取り扱わねばならず、そもそも頁をめくる」 のだけでも一仕事であるような、凝りに凝った革装の四つ折り本か何かのイメージ。そうしたも3 のとの出会いが喚ぶであるう感動や興奮も、それなりに理解できないわけではない。だが、小さ な本の魅力は、そうした厳かに蛇立する不動なもののまとうアウラとは無縁である。それは、近 寄り難いものが人に強いるような敬意を要求することもない。どこへ行こうとそれはいつも人と一 ともにあるからだ。ポケットの中を探ればいつでも指に触れてそれがあることを確かめられるお 守りのようなものなのである。よく懐いた小動物のようにと言ってもよい。ドリトル先生の物語 " に出てくるあのハッカネズミは、敬愛する先生のくたびれたフラノの上着のだぶだぶのポケット」 にもぐりこんで、どんな遠い旅行にでもついて行くことができたではないか。 だが、繰り返して言っておけば、この小ささは必ずしも物理的なそれではない。物理的に小さ くてどこへでも持って行ける本の魅力というものはたしかにあるし、ジーンズのポケットにこの一 一冊などと言うとどこかの出版社の文庫本の宣伝惹句みたいになってしまうけれど、岩波文庫の e 小林秀雄訳「地獄の季節」を或る時期肌身離さず持ち歩いていたといった体験に覚えがある人は一 多かろう。あれは菊判の大冊のランボー全集か何かではやはり様にならない振舞いなのである。 II 現実としては書物が一 1である場所 で、書物の内容を一 】の中で一 1思い浮かべられること 一般的な見解」 本を愛すること 厳かに乾立する【不】なもののまとう アウラ 合 近寄り難いものが人に強いるような 高」を要求する しかし、本当のことを言えば、ひとたび所有することのできた書物はもはや実際に持ち歩くには一 2 松通寿「小動物のユートヒ 対比設明の 物質的な表情をめぐる趣味階好の洗練が彼の主要な関心事となるだろう。彼は、自分の躯の外に あるものを愛しているのだ。書物はそのとき、或る確固とした色と大きさと重さと手触りを備え一 ていなければならない ロ:目

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現代文 高校生

7段落目の それ とは何ですか?

論(11) い」。これは隣人との比較や不平等一般の問題ではなく、絶対的な必要を充足することが できないということである。づまりその生きている社会の中で「普通に生きる」ことがで きない。これは羨望とか顕示といった心理的な問題ではなく、この社会のシステムによっ て強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。 「貧困」のコンセプトは二重の疎外であるということを、「南の貧困」に即してみてきた。5 貨幣からの疎外という目に見える規定の以前に、貨幣への疎外という目に見えない規定が あると。このコンセプトは、形態を全く異にするようにみえる「北の貧困」にもそのまま あてはまる。 。情報→6ページー 現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存 することを、この社会の「正常」な成員の条件として強いることを通して、本来的な必要 の幾重にも間接化された充足の様式の上に、必要の常に新しく更新されてゆく水準を設定」 してしまう。新しい、しかし同様に切実な貧困の形を生成する。 この新しくつり上げられた絶対的な必要の地平は、このようにシステムが自分で生成し 設定してしまうものだけれども、同時にこの現代の情報消費社会のシステムは、この新し い必要の地平を含めて、必要から離陸した欲望を相関項とすることを存立の原理としてい15 る。本来的な必要であれ新しい必要であれ、すでにみたように現代の情報消費社会は、人 間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーケット(市場)」として存 在する「需要」にしか相関することがない。システムがそれ自体の運動の中で、ますます 複雑に重層化され、ますます増大する貨幣量によってしか充足されることのできない必要 を生成し設定しながら、必要に対応することはシステムにとって原理的に関知するところ 5 ではないという落差の中に、「北の貧困」は構成されている。 ぞれはシステムの排出物である。つまりシステムの内部に生成されながら外部化される 場 問「それ」は何を指す ものである。 現在の「豊かな国々」において、この貧困の相当部分は、実際には種々の政策的「手当 て」を通して救済されている。アメリカ国勢調査局の、この国でなお一○O○万人が飢え0 ているという報告を紹介したあとに続けて、「イギリス、フランスでも、もし失業保険制 度がなければ、両国合わせて一○○万人を下らぬ人々が飢えに襲われるにちがいない」と ジョージが記述していることは、この政策の機能を端的に表現している。 ー u co Susar George 一九三四年~ アメリカの農業経済学一 者。著書に「なぜ世界」 の半分が飢えるのかー 食糧危機の構造」など」 「福祉」という、現代の「豊かな国々」のシステムが対象とする人々は、「労働する機会」 のない人々」と「労働する能力のない人々」である。後者には、傷病者、児童と高齢者な15 どが含まれる。医療福祉、児童福祉、高齢者福祉などがこれに対応する。「労働する機会 闘米 地平 相関 南の貧困/北の貧困駅

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現代文 高校生

この解説を見たいのですが何年度のものか分かったりしますか?

0 現代文·小説(20点) 解答·配点 ウ 4点 (各2) 問ニ速雄が典子の蜜柑を食べていたことで、他人には一 分からない心の交流が速雄との間にあることを、典 子が実感したということ。(切字) 伊藤整「典子の生きかた」(新潮文庫) 伊藤整は、 6点 九〇五(明治三十八)年、 北海道生まれ、東京商科大学(現在の一 橋大学の前身)中退。詩人·評論家とし ても活動。一九六九(昭和四十四)年没。 問三 工 3点 問四 かたくなに心を閉ざす速雄にこれまで遠慮してい 4点 た典子が、自分の気持ちをはっきりと言うように なったこと。(的字) 典子の生きかた』では、自分ひとり の力で生きていこうとする自立心旺盛な一 主人公典子の姿を通して、作者は当時の 社会の窮屈な家族制度から解放された自一 由な女性の生きかたを追求している 問五 イ 3点 本文解説 そして、その蜜柑の皮が速雄に対する自分の好意を彼が受 け入れてくれた証としてこの日の典子には理解されたこと を傍線部0は表しているのである。また、「ひそかな感情 心を閉ぎしがちな病気の速雄には自分こそ必要な人間だ と考える典子は、叔母と従姉妹の清子とともに速雄を見舞 いに訪れた際にも、自分と速雄との間だけに流れる心の交」 流があることを強く感じる。そして、叔母たちと見舞った」 後の四日目にひとりで速雄を訪れたとき、こちらに寄り添 おうとする思いと遠ざけようとする思いとの狭間で揺れ動一 く速雄の心情に典子は気づくのであった。やがて、冷淡な一 態度に潜む速雄の孤独な内面を前にし、そんな彼が遠く いとこ のつながり」という表現からは、速雄との間にあると典子 が信じる温かな心の交流が、叔母や清子といった他者には一 見えない秘密めいたものとして、典子には捉えられている ことが読み取れる。したがって、速雄が典子の持ってきた 蜜柑を食べていたこと、その蜜柑によって典子が速雄との

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