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現代文 高校生

Q本文中のアラベスクの意味とは? ①神秘的な雰囲気をたたえた装飾 ②幾何学的に組み合わせられた模様 ③視覚的効果を計算した多彩な色彩 ④意味をはぎ取られたむき出しのもの ⑤脈絡のない細部を縫い合わせた布地 という選択肢で②と⑤で迷って⑤を選択してしまったのですが、答えは②... 続きを読む

121 スージ LのE伝統においてはほとんどの場合、身体は「物体」(bodylcorps)の一つとして、「心」や「精神」 (mind/esprit)と ]わたしの身体は、わたしが見、触れることのできる物的対象の一つである。それは物体としての密」 悩されてきた。[a LAt積とをもち、叩けば音もする。それは疑いえないことで、【 b 】西洋の科学の歴史のなかでは長らく、身体はもっぱ 後室)のモデルに沿って医学や生理学の対象として分析されてきた。【 c ]、あらためて考えると、人の身体は物体とし しは知覚情報があまりにも乏しい。具体的にいうと、たとえば見える部分は全体の半分にも満たない。後頭部や背中はどうあが しても絶対じかには見ることができない。つまり、〈わたし〉の身体はわたしにはトータルには不可視なものであり、〈像〉と インヴィジプル してしか体験できないのである。わたしの身体はそれなしに〈わたし〉のありえないもの、というか〈わたし》自身でもあるの それ全体から当のわたしは遠く隔てられているという事態がここにはある。「各人は各自にもっとも遠い者である」とかつ (にー) てニーチェは書いていたが、この言葉は身体にこそよく当てはまる。 この点について、いますこしタンネンに見ておこう。 じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだとおもっている。たとえばホウチョウで切った傷の Sはわたしだけが感じるもので、他人は頭でわかっても、わたしの代わりに痛んでくれるわけではない。その意味で、わたし わたしの身体であるといいうるほどに、わたしはまちがいなくわたしの身体の近くにありそうである。ところが、よく考え 。おたしがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なものだ。身体の全表面のう い、ましてや他人がこのわたしをわたしとして認知してくれるその顔は、終生見ることができない。そして難儀なこと 97 んで見える部分というのは、ごく限られている。だれもじぶんの身体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじがに見た

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Q本文中のアラベスクの意味とは? ①神秘的な雰囲気をたたえた装飾 ②幾何学的に組み合わせられた模様 ③視覚的効果を計算した多彩な色彩 ④意味をはぎ取られたむき出しのもの ⑤脈絡のない細部を縫い合わせた布地 という選択肢で②と⑤で迷って⑤を選択してしまったのですが、答えは②... 続きを読む

121 スージ LのE伝統においてはほとんどの場合、身体は「物体」(bodylcorps)の一つとして、「心」や「精神」 (mind/esprit)と ]わたしの身体は、わたしが見、触れることのできる物的対象の一つである。それは物体としての密」 悩されてきた。[a LAt積とをもち、叩けば音もする。それは疑いえないことで、【 b 】西洋の科学の歴史のなかでは長らく、身体はもっぱ 後室)のモデルに沿って医学や生理学の対象として分析されてきた。【 c ]、あらためて考えると、人の身体は物体とし しは知覚情報があまりにも乏しい。具体的にいうと、たとえば見える部分は全体の半分にも満たない。後頭部や背中はどうあが しても絶対じかには見ることができない。つまり、〈わたし〉の身体はわたしにはトータルには不可視なものであり、〈像〉と インヴィジプル してしか体験できないのである。わたしの身体はそれなしに〈わたし〉のありえないもの、というか〈わたし》自身でもあるの それ全体から当のわたしは遠く隔てられているという事態がここにはある。「各人は各自にもっとも遠い者である」とかつ (にー) てニーチェは書いていたが、この言葉は身体にこそよく当てはまる。 この点について、いますこしタンネンに見ておこう。 じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだとおもっている。たとえばホウチョウで切った傷の Sはわたしだけが感じるもので、他人は頭でわかっても、わたしの代わりに痛んでくれるわけではない。その意味で、わたし わたしの身体であるといいうるほどに、わたしはまちがいなくわたしの身体の近くにありそうである。ところが、よく考え 。おたしがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なものだ。身体の全表面のう い、ましてや他人がこのわたしをわたしとして認知してくれるその顔は、終生見ることができない。そして難儀なこと 97 んで見える部分というのは、ごく限られている。だれもじぶんの身体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじがに見た

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直後にエの選択肢の"バイアス"という言葉があったので"エ"だと思ったのですがナゼダメで"ウ"になるのですか。

(ニ) つぎの文章を読んで、後の問いに答えよ。 日本の散文芸術(和文体) の歴史を振り返ったとき、厳密な意味での「三人称」の世界が存在したかどうかはきわめて疑わしい。 物語にせよ軍記にせよ、時に現場に密着したある一人の人物から語られているかと思うと、次の瞬間には全体を傍厳する、全一 能的、バノラマ的な視点に切り変わっていたりもする。大宅世継が夏山繁樹に語るのを作者が聞き書きする(「大鏡」)、という 形に象徴されるように、そこでは多くの場合、誰が誰に語るのか、という具体的な「場」が前提となるのであり、たとえ客観的一 0をH6Jき 融通無得な様態を。 の一貫性を求めて無意識のうちに蓋合性をつけて読もうとしているからなのではないだろうか と感じるのであるとするなら、それはわれわれが近代的な「人称」の概念の影響を受け、視点- 近代以降の小説は、雨洋の十九世紀的なリアリズムを取り込もうとする動きの中で、「人称」という発想に出会い、これを日 本語の言文一致体に実現していこうとする悪載苦闘の歴史でもあった。物語の内容を表現するにあたって、誰が、どのような 資格で語るのか、という問題が、おそらくこれほどまでに厳しく問われた時代はほかにはなかったのである。たとえば一人」 な叙述の形をとっていたとしても、それはあくまでも「よそおわれた三人称」とでもいうべきものなのである。もしもこうした一 64 2014年度 国語

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鷲田清一さんの思考の肺活量の問題で教科書の下の部分の答えを教えていただきたいです。『思わくを測』るとはどういうことか?というのと『論理にくるんでしま』うとは、どういうことか?という問題がわかりません。

「これは何ですか?」と問われるといつも、「これはこれです」と答えるのだと言 う。そういう意味では、暖味なものを暖味なままに正確に表現する、一か所もゆ るがせにしないで、正確に、これしかないという表現へともたらすこと、これが 画家の力量である。 このように、政治、ケア、描画のいずれにおいても最もだいじなことは、分, らないもの、正解がないものに、分からないまま、正解がないまま、いかに正確 に処するかということである。そういう頭の使い方をしなければならないのが私 たちのリアルな社会であるのに、多くの人はそれとは反対方向に殺到する。分か りやすい言葉、分かりやすい説明を求めるのだ。だが本当にだいじなことは、恐 難な問題に直面した時に、すぐに結論を出さないで、問題が自分の中で立体的に" 見えてくるまでいわば潜水し続けるということである。知性に肺活量を付けると いうのはそういうことである。目の前にある二者択一、あるいは二項対立にさら ?「外へ出る」とは、ど ういうことか され続けること、対立を前にして考え込み、考えに考えてやがてその外へ出るこ」 o ④超勢 ある方向へと動 それが思考の原型なのに、 そうした対立をあらかじめ削除しておく、ならし 「論理にくるんでし ま」うとは、どういう」 ものなのか、そういうことをきちっと見極めるような視力である。そのためには、 目下の 例えば目下の自分の関心とはさしあたって接点のないような思考や表現にも触れ " ることがだいじだ。自分のこれまでの関心にはなかった別の補助線を立てること 鍛える闘 鍛練 範もる闘竹範·簡城 で、より客観的な価値の遠近法を自分の中に組み込むことがだいじなのである。 1 121|思考の肺活量 6評論 ゆるがせにしない 息が詰まる …にあらがう 暖味 圏味覚一 ことか 哲学はこういう趨勢にあらがって、知性のそういう肺活量を鍛えるものである。 人は、思いどおりにならないもの、理由が分からないものに取り囲まれて、い らだちや焦り、不満や違和感で息が詰まりそうになると、その懲ぎを突破するた一 めに、自分が置かれている状況を分かりやすい論理にくるんでしまおうとする。 その論理に立て篭もろうとする。分からないものを分からないまま放置している ことに耐えられないからだ。だから、分かりやすい物語にすぐに飛び付く。 だが、本当にだいじなことは、ある事態に直面して、これは絶対手放してはな らないものなのか、なくてもよいものなのか、あるいは絶対にあってはいけない一 ただ今/現在

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どうしてもこの問題だけ解けないんです。 教えていただけないでしょうか?🙏 抜き出しではないです!文章中の言葉を使って要約するそうです!

「哲学の使い方』鷲田清 B西洋の思想伝統においてはほとんどの場合、身体は「物体」(body\corps)の一つとして、 「心や「精神」(mind\esprit)と対置されてきた。たしかにわたしの身体は、わたしが見、触 れることのできる物的対象の一つである。それは物体としての密度と容積をもち、叩けば音もす る。それは疑いえないことで、だから西洋の科学の歴史のなかでは長らく、身体はもっぱら《機 械》のモデルに沿って医学や生理学の対象として分析されてきた。けれども、あらためて考える と、 人の身体は物体としては知覚情報があまりにも乏しい。具体的にいうと、たとえば見える部 分は全体の半分にも満たない。後頭部や背中はどうあがいても絶対じかには見ることができない。 つまり、〈わたし〉の身体はわたしにはトータルには不可視なものであり、〈像)としてしか体 ら」 インヴィジブル けれ 験できないのである。わたしの身体はそれなしに〈わたし〉のありえないもの、というか(わた し》自身でもあるのに、それ全体から当のわたしは遠く隔てられているという事態がここにはあ ニーチェは書いていたが、この言葉は き) わた (一階) る。「各人は各自にもっとも遠い者である」とかつて一 身体にこそよく当てはまる。 この点について、いますこし丹念に見ておこう。 じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだとおもっている。た とえば包丁で切った傷の痛みはわたしだけが感じるもので、他人は頭でわかっても、わたしの代一 わりに痛んでくれるわけではない。その意味で、わたしとはわたしの身体であるといいうるほど に、わたしはまちがいなくわたしの身体の近くにありそうである。ところが、よく考えると、わ たしがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なもの だ。 身体の全表面のうちじぶんで見える部分というのは、ごく限られている。だれもじぶんの身 体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじかに見たことがない。ましてや他人がこのわたしを そ。 だ。 じぶんの身体を、いわば目隠ししたまま経験するほかないのであって、危ういばかりに無防備な 想川 のである。 身体は、別の意味でも不安を呼び起こす。身体としての〈わたし〉の存在、とりわけ感覚や 欲望というかたちでのその現象は、〈わたし〉自身がうまく統御できないものである。あるいは、 病や痛み、こういう身体の現象も、〈わたし〉には不意を襲うかたちでやってくる。それに対し て(わたし》はいつもただ受動的に、襲われるがままになっているしかない。この意味でもひと は、それが何であるか正確に理解できないまま、身体のさまざまな情況に対応しなければならな 身体はこのようにそれなしではわたしが〈わたし〉でありえない存在でありながら、それに」 《わたしはつねに部分的にしか関与できない。それは〈わたし〉が制御できるものではない。 それゆえに身体は、(わたし〉にとってなによりも不安の源泉である。そしてそれが意識の外か」 ら〈わたし〉を突き上げる(たとえば欲動、あるいは体調の不全や病気)。《わたし〉を刺し(た とえば他人の冷ややかな視線)、引っぱり(たとえば修行や競技)、そして(わたし)に貼りつく 18 わたしとして認知してくれるその顔は、終生見ることができない。そして難儀なことにこの顔に、 だ だ

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