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現代文 高校生

なぜ、この問題の答えはイではないのでしょうか?「姉の顔を見つめてしまった」って書いてあるので、その時、太郎は驚いていると思いますが、、、

◇次の文章を読んで後の問に答えなさい。 「もういいよ、諦めたら。」 その声が、あまりに低 いせいか、太郎はラケットを手入 顔を見つめてしまった。 ② 夕日の光が、木で遮られて、部 ぽつり。 つぶやいた。 れしている手を休めて、 屋の中が暗く沈められた感じになった。 「今、なんて言ったの?」 「諦めたら、って言ったのよ」 「諦めるって、今度の大会に出ること?」 太郎はラケットをじっと見つめながら、考え込んだ。 姉は言葉を続けた。 「足のけがはあなたが思っているほど軽くはないのよ。」 ①「その声が、あまりに低く重いせいか、太郎はラケットを手入れしている手を休 めて、姉の顔を見つめてしまった」 とありますが、この描写から感じられる太郎 の思いを、次から一つ選びなさい。 (ウ) ア姉が自分の思いを理解してくれないので怒っている。 イ 姉が自分の思いを的確に言い当てたので驚いている。 ウ 姉が自分に話そうとすることの真意を確かめようとしている。 エ 姉が自分に指図することをうっとうしく感じている。 Kimi

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現代文 高校生

この現代文の問題を教えてください 一つだけでも教えてくださると嬉しいです!

DELUC 四 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。(B) 見えない人が「見て」いる空間と、見える人が目でとらえている空間。それがどのように違うのかは、一緒に時間を過ごす中で、ふとした 瞬間に明らかになるものです。 たとえば、 *注木下路徳さんと一緒に歩いているとき。その日、私と木下さんは私の勤務先である東京工業大学大岡山キャンパスの私の研 究室でインタビューを行うことになっていました。 私と木下さんはまず大岡山駅の改札で待ち合わせて、交差点をわたってすぐの大学正門を抜け、私の研究室がある西9号館に向かって歩き はじめました。その途中、一五メートルほどの緩やかな坂道を下っていたときです。木下さんが言いました。 「大岡山はやっぱり山で、いま その斜面をおりているんですね」。 私はそれを聞いて、かなりびっくりしてしまいました。 ①なぜなら木下さんが、そこを「山の斜面」だと言ったからです。毎日のようにそ こを行き来していましたが、私にとってはそれはただの「坂道」でしかありませんでした。 つまり私にとってそれは、大岡山駅という「出発点」と、西9号館という「目的地」をつなぐ道順の一部でしかなく、曲がってしまえばも り忘れてしまうような、空間的にも意味的にも他の空間や道から分節化された「部分」でしかなかった。それに対して木下さんが口にしたの は、もっと俯瞰(ふかん)的で空間全体をとらえるイメージでした。 確かに言われてみれば、木下さんの言う通り、大岡山の南半分は駅の改札を「頂上」とするお椀(わん)をふせたような地形をしており、西 9号館はその「ふもと」に位置しています。その頂上からふもとに向かう斜面を、私たちは下っていました。 けれども、見える人にとって、そのような俯瞰的で三次元的なイメージを持つことはきわめて難しいことです。坂道の両側には、サークル 勧誘の立て看板が立ち並んでいます。 学校だから、知った顔とすれ違うかもしれません。前方には混雑した学食の入り口が見えます。目に飛 び込んでくるさまざまな情報が、見える人の意識を奪っていくのです。あるいはそれらをすべてシャットアウトしてスマホの画面に視線を落 とすか。そこを通る通行人には、自分がどんな地形のどのあたりを歩いているかなんて、想像する余裕はありません。 そう、私たちはまさに「通行人」なのだとそのとき思いました。 「通るべき場所」として定められ、方向性を持つ「道」に、いわば②ベル り開放的なものに思えます。 トコンベアのように運ばれている存在。それに比べて、まるでスキーヤーのように広い平面の上に自分で線を引く木下さんのイメージは、よ 物理的には同じ場所に立っていたのだとしても、その場所に与える意味次第では全く異なる経験をしていることになる。それが、木下さん の一言が私に与えた驚きでした。人は、物理的な空間を歩きながら、実は脳内に作り上げたイメージの中を歩いている。私と木下さんは、同 じ坂を並んで下りながら、実は全く違う世界を歩いていたわけです。 ③彼らは「道」から自由だと言えるのかもしれません。 道は、人が進むべき方向を示します。もちろん視覚障害者だって、個人差はあると しても、音の反響や白杖(はくじょう) の感触を利用して道の幅や向きを把握しています。 しかし、目が道のずっと先まで一瞬にして見通すこ とができるのに対し、音や感触で把握できる範囲は限定されている。道から自由であるとは、予測が立ちにくいという意味では特殊な慎重さ

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現代文 高校生

どうしても問5に2番だけかけないので、誰か例で、書いてくださるとありがたいです…申し訳ないです…

ブザンソンのスーパーでグラスを買った。レジでお金を払おうとしたら、店員に何か言われたが、聞き取れない。もう 一度言ってもらったが、やっぱり聞き取れない。 呆然としていると、店員が肩をすくめて「もう、いいよ」という諦め 顔をした。 スーパーのレジで、キーボードをたたく片手間に発した質問である。 それほど答えに窮するような難しいことをきいて くるはずがない。 気になるので、カウンター越しに身を乗り出して、「今の質問、私に何をさいたのか、気になるので、 教えてください。」と一言一区切って言ったら、向こうも一言一言区切りながら「『郵便番号は何ですか?』ときいた のだ。」と答えた。「グラスを買うのに郵便番号が必要なんですか?」と重ねて問うと、「どこから来たお客がどんな 商品を買うのか、統計を取っているのだ。」と教えてくれて、ようやく腑に落ちた。 今回私が聞き取り損ねたのは「郵便番号」 code postaleという単語である。 予想もしていないことをきかれると、簡単 な単語でも頭に浮かばない。 レジで「年齢はいくつですか?」ときかれても、たぶん私はぽかんとしていただろう。私た ちの聞き取り能力は多く文脈に依存している。だから、「予想の地平」にないものは簡単な言葉でも聞き取れないことが ある。 前に家の近所のスーパーのレジでも、やはり店長に何かきかれて意味が分からず尋ね返したことがある。 商品のバーコ ードをせわしく読み取りながら、店員が「ホレーザ、ゴリョスカ?」ときいてきたのである。 「は?」と二度尋ねてから、 ようやく「保冷剤」という漢字が頭に浮かんだ。こういう種類のコミュニケーション不調を以前はあまり経験した覚えが ないような気がする。 卒業生が家に遊びに来たので、その話をしたら、 婦人服の店で働いている一人が「そうなんです。」と応じてくれた。 彼女の店ではレジで支払いのときにお客に「サービスカードはお持ちですか?」ときくのだそうである。 お客の中のかな りの人は「サービスカード」を聞き取れずに「は?」と問い返す。 二度目のときに彼女は両手の指で四角を作り、「お買 い上げ分のポイントをつけるカードをお持ちですか?」と説明を変えるのだそうである。 それでめでたく話は通じる。 ところが、最近入社してきた若い店員の中にはこの「言い換え」ができず、「サービスカードお持ちですか?」を同じ 調 同じ早さで強度も繰り返す者がいるのだそうである。だから、話が通じない。 しかたなく、肩をすくめて話を打ち 切ることになる。 私は「話が通じないので、肩をすくめて話を打ち切る。」という作法を好まない。そのような態度をとる人は、自分の 言葉が相手に通じない理由を、もっぱら相手の理解力の不足に帰し、自分が相手の「期待の地平」から外れた言葉を口に している可能性を吟味していないからである。 「保冷剤」も「サービスカード」も普通の日本語である。 成人の日本語話者が理解できぬ言葉ではない。それが聞き返 されるのは、 「期待の地平」の設定にずれがあるせいである。そういう場合には両者のどちらにとっても誤解の余地なく コミュニケーションが可能なレベルを探り当て、そこから再度スタートする努力が必要である。この努力のことを「コミ ュニケーションのコミュニケーション」あるいは「メタ・コミュニケーション」と言う。電話で「もしもし」と言ったり、 大教室で「後ろの方、聞こえますか?」と言ったりするのがそれである。 コミュニケーションが成立していることを確認 するための手間のことである。 実は、「肩をすくめて、鼻をフンと鳴らす。」というのも一種のメタ・コミュニケーションなのである。この動作によ って、「私のメッセージはあなたに届いていないが、このコミュニケーション不調の原因は主にあなたにある。」という メッセージは誤解の余地なく相手に伝えているからである。私たちの言語状況の問題点は、メタ・コミュニケーションの 能力が衰えているということではない。 そうではなくて、このような他賣的なメタ・コミュニケーションが発達している ということにある。 しかし、コミュニケーション不調の原因は必ず両者にある。一方だけが有資で、他方にはとがめられるべき瑕疵が全く ないということはありえない。だから、コミュニケーションを回復するためには、まず自分が「身銭を切って、分岐点 まで戻るための一歩を踏み出さなければならない。 私がカウンターから身を乗り出し、言葉を一言一言区切って発音したのは、その「身」であり、それに一言一言切 って答えたのは、店員なりの「身」である。私は彼女のこの「手間暇」を多とするのである。 (内田樹「『身銭』を切るコミュニケーション」)

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現代文 高校生

できたら、答えまたは考えを聞かせて欲しいです、またこうした方がいいなどということがありましたら教えて欲しいです

作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた。」と書いた。しかし、下人は 格別どうしようという当てはない。 ふだんなら、もちろん、主人の家へ帰るべきはずであ る。ところがその主人からは、四、五目前に暇を出された。前にも書いたように、当時京 都の町はひととおりならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、 暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを 待っていた。」と言うよりも「雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて、途方に暮れて いた。」と言うほうが、適当である。そのうえ、今日の空模様も少なからず、この平安朝の カチンチマンタリス 下人の Sentimentalisme に影響した。 中の刻下がりから降り出した雨は、いまだに上がる 気色がない。そこで、下人は、何をおいても差し当たり明日の暮らしをどうにかしようと していわばどうにもならないことを、どうにかしようとして、とりとめもない考えを たどりながら、さっきから朱雀大路に降る雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。 雨は羅生門を包んで、遠くから、ざあっという音を集めてくる。 夕闇はしだいに空を 低くして、見上げると、門の屋根が、斜めに突き出したの先に、重たく薄暗い雲を支え どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。 選 んでいれば、土の下か、道の土の上で、飢え死にをするばかりである。そうして、こ の門の上へ持ってきて、犬のように捨てられてしまうばかりである。選ばないとすれば 下人の考えは、何度も同じ道を回したあげくに、やっとこの局所へ逢着した。しかしこ の「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばない ということを肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに 来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、 勇気が出ずにいたのである。 下人は、大きなくめをして、それから、大儀そうに立ち上がった。夕冷えのする京都 は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇とともに遠慮な く、吹き抜ける。丹塗りの柱にとまっていたきりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。 下人は、首を縮めながら、山の疹に重ねた、紺の襖の肩を高くして、門の周りを見 回した。雨風の憂えのない、人目にかかる恐れのない、一晩楽に寝られそうな所があれば、 そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、 幅の広い、これも丹を塗ったはしごが目についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死 人ばかりである。下人はそこで、腰にさげたの太刀が華だらないように気をつけなが ら、わら草履を履いた足を、そのはしごのいちばん下の段へ踏みかけた。 Free Pas からか ほうなん S S

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現代文 高校生

現代文の質問です。 問1のXで解説読んだら納得はしたのですが、解答の黄色で囲った部分の4行目に書いてある「同調」の捉え方が筆者独特のもの(?)だというのに気づけません。 何をポイントにして気づくものなのですか? 宜しくお願いします🙇‍♀️

T 【共通】 次の文章はコロナ禍以前に書かれたものである。これを読んで、後の問に答えよ。(配点 五十点) ○生まれ変わったら一度は相撲取りになってみたいし、人生で初めて文学賞に応募した作品も相撲小説だった私が今気に なっているのは、相撲の本場所での応援が、コンサートのアンコールみたいに変化してきたことである。 「豪、栄、道!」 とか「稀勢、の、里!」といったリズムで力士の名を呼びながら手拍子を打つのだ。相撲の応援といえば、ひいきの力士 の名を館内によく響かせる声で叫ぶのが名物だった。声援は、集団ではなく個人単位だった。 ひそ 私みたいな以前からの相撲ファンはたいてい眉を顰めているが、時代とともに応援のスタイルなどその競技の文化が変 化するのはありうることだろう。 変化には理由がある。私はそこが気になる。 ④毎場所、毎日、テレビの放映で手拍子を聞いているうち、私は何かに感触が似ているなと思った。やがて、はたと気づ いた。サッカーの日本代表の試合後などに、渋谷のスクランブル交差点で見られるハイタッチである。私はあれを見るた びに、公共空間でも弾けてよいというお祭り騒ぎを、日本の人たちはすさまじく渇望しているんだなと感じる。そして、 寂しいんだなとも。 ひとことで言えば、一体感に飢えているのだろう。一体感に飢えているのは、日常が孤独だからだろう。つまり居場所 がないのだ。あるいは、 属する場はあっても、そこに過不足なく自分が収まっていると思えないのだ。浮いている、外 れている、はみ出している、蚊帳の外、いてもいなくても同じ、存在感がない、微妙に無視されている、つきあいは表面 的で理解し合っているとは言いがたい。 そんな疎外感を常日頃からどこかに抱えている。 だから非日常の場で、日常とはまったく違う人とのつながりを求 たくなる。力関係や利害関係から解放された、無礼 きせ

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