学年

教科

質問の種類

現代文 高校生

評論の問題が分からないので解いてもらいたいです

新傾向 [合計 ***** ふくおか しんいち 福岡伸一 3 生命工学の現状 福岡 生物と文学のあいだ 【文章I】は生物学者福岡伸一による生物の「動的平衡」についての文章、【文章Ⅱ】 はそれを読んだ作家の川上未映子と福岡伸一の対談である。 【文章Ⅰ】 はいせつ ■日本が太平洋戦争への道を進もうとしていた頃、ナチスから逃れたひとりのユダヤ人科学者が米国に来た。 ルドルフ・シェーンハイマーで ある。彼は、アイソトープ(同位体)を使ってアミノ酸に標識をつけた。そして、これをネズミに三日間、食べさせてみたのである。アミノ 酸は体内で燃やされてエネルギーとなり、燃えかすは呼気や尿となって速やかに排泄されるだろうと彼は予想した。 アイソトープ標識は分子 の行方をトレースするのに好都合な目印となる。結果は予想を鮮やかに裏切っていた。食べた標識アミノ酸は瞬く間に全身に散らばり、 そ の半分以上が、脳、筋肉、消化管、肝臓、膵臓、脾臓、血液などありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部となっていた。三日 の間、ネズミの体重は増えていない。 すいぞう ひぞう ②これは一体何を意味しているのか。 ネズミの身体を構成していたタンパク質は、三日間のうちにその約半分が食事由来のアミノ酸によって がらりと置き換えられ、もとあった半分は捨て去られた、ということである。 標識アミノ酸は、インクを川に落としたごとく、流れの存在 と速さを目に見えるものにした。 つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間 ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという画期的な大発見がこのときなされたのだった。 全く比喩ではなく生命は行く川のごとく流 れの中にある。そして、さらに重要なことは、この分子の流れは、流れながらも全体として秩序を維持するため相互に関係性を保っていると いうことだった。シェーンハイマーは、この生命の特異な在りように「動的な平衡」という素敵な名前をつけた。 それまでのデカルト的な機械論的生命観に対して、還元論的な分子レベルの解像度を保ちながら、コペルニクス的転換をもたらしたこの シェーンハイマーの業績は、ある意味で二十世紀最大の科学的発見と呼ぶことができると私は思う。しかし、皮肉にも、当時彼のすぐ近くに いたエイブリーによる遺伝物質としての核酸の発見、ついでそれが二重らせんをとっていることが明らかにされ、分子生物学時代の幕が切っ B て落とされると、シェーンハイマーの名は次第に歴史の澱に沈んでいった。 それと軌を一にして、再び、生命はミクロな分子パーツからなる 精巧なプラモデルとして捉えられ、それを操作対象として扱いうるという考え方が支配的になっていく。 ひるがえって今日、臓器を入れ換え、細胞の分化をリセットし、遺伝子を切り貼りして生命操作をするレベルまで至った科学・技術・医療 の在り方を目の当たりにし、私たちは現在、なかば立ちすくんでいる。ここでは、流れながらも関係性を保つ動的な平衡系としての生命観は 極端なまでに捨象されている。 それゆえにこそ、シェーンハイマーの動的平衡論に立ち返ってこれらの諸問題をいま一度見直してみることは、2 閉塞しがちな私たちの生命観・環境観に新しい示唆を与えてくれるのではないだろうか。 の在り方を目の当た 極端なまでに捨象されている。 それゆえにこ 閉塞しがちな私たちの生命観・環境観に新しい示唆を与えてくれる る 69 生命工学の現状・ 生物と文学のあいだ 69 生命工学の現状・生物と文字のめん

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

オリンピックについて 解答がないので六番から一緒に答え合わせして欲しいです!! 間違ってるところがあれば教えて頂きたいです🙇‍♂️ 4国

次の文章を読んで、後の 呆れ返った。 「東京オリンピック2020」は、カイサイ直前まで開会式など担当のトップクリエーターたちの人権感覚欠如の言動が明るみに出て、辞任やら解任やらで 大混乱していた。オリンピックとはどこまでも差別と偏見をジョチョウする人たちに支配されているのだと、次々と入って来る報道に一 ところが、 b 本番の開会式では、全体のヨウショに次々と女性が登場。最後は大坂なおみさんが聖火を点火し、日本は女性や多様なルーツを もつ人たちを応援する国だというイメージが繰り広げられた。日本チームの旗手の一人として、父親がアフリカ・ベナン出身のバスケットボール選手・八村 塁さんも起用され、結局、開会式のメインテーマは震災復興でもパンデミック克服でもなく、 「ダイバーシティ」(多様性)と相成った。 しかし、元来、オリンピックはダイバーシティと相性が悪い。国際オリンピック委員会(IOC)の会長は、初代からの約130年もの間にバッハ現会長 を含めて9人しかおらず、全員白人男性で、1人のアメリカ人を除いて全員ヨーロッパ出身者で固められてきたという。オリンピックというシステムは、2 世紀に漂流する19世紀の遺物であり、驕奢の上に成り立ち、地政学的に偏り、汚職や不正が蔓延する改革不能の組織だと、ニューヨーク・タイムズの記 事は手キビしい。 きょうしゃ まんえん バイエ・マクニールは、八村さんの旗手起用が多文化共生社会につながるかというと、結局、傑出した選手個人の成果のつまみ食いに終わり 「何とも言い 難い」と苦悩する。 この記事に登場するガーナ系日本人ペレ・ヴォンクジョビヴィも、結果が出ない場合、「スポーツを通して得たように見えた多様性と包括 は非常に早く消えるだろうね」と距離をとる。 日本社会でダイバーシティの実現に努力してきた人たちにとって、このオリンピックは複雑なメッセージを放つ。 マイノリティと呼ばれるグループに属する人々は、しばしば、 と見なされ、さらにステレオタイプという檻に押し込められ、孤立する。 あたる 梅津有希子によるシンガー・ソングライター中村中さんへのインタビューで、中村さんは、デビューした年に身体は男性だが女性を自認しているトランス ジェンダーであることを公表し、「NHK紅白歌合戦」にも出場した経験を語っている。 メディアによる過度に劇的な演出(司会が読み上げる母親からの手紙、 赤いドレスにちょっとだけ白が入っているデザインの衣装など)によって、次第に絶望に追い込まれていったという。ここにも表向きには「ダイバーシティ」 を理念に掲げながらメディアが安直なステレオタイプに頼る様子、そこに拍手を送る聴衆、 そしてそれが個人をいかに傷つけるのかが如実に描かれている。 このような状況下で、分断されてきたマイノリティたちを横につないで現状を突破しようとする概念も現れてきた。 「インターセクショナリティ」 (交差性) は、性自認だけでなく、人種、民族、階級、障害の有無といった様々なカテゴリーを意識し、それらの差異の交差部分で深刻化する差別や抑圧に意識を向け という概念であり運動だ。 交差は、たとえば外国籍の女性、トランスジェンダーの女性、障害を持つ女性、貧困層から抜け出せない女性など。こうした考 えは、男女二元論で男性と女性を紋切り型に分断する力を抑え、多様な差異(たとえば、トランスジェンダー、難民、貧困者、障害者など)をもとに横につ ながる力を私たちにサズける。 (林香里「五輪と多様性」による) テー 1 あき

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

文章系がほんとにできなくて、、良かったら教えて欲しいです、、

解法テクニック m P叫エ社 松浦寿輝「小動物のユートピア』 判 展開図 主張の提示一1~3段落 次の文章を読んで、後の設問に答えなさい。 ただしそれは紙型の大小という物理的な問題でもなければ、頁数が厚いか薄いかという大著小著 の差の問題でもない。一冊の書物が「想像的」な対象としてわたしたちの内なる空間に浮上して くるとき、もしそれを小さなものとして想い描けないかぎり、わたしたちはその書物を本当には一 所有しえないということだ。そして、所有しえない書物とは、結局わたしたちには縁のない書物 のことなのだ。大きな本。それは、わたしたちがいまだ自分の肉体の内に摂り込みかねている本一 筆者の見解 時 書物の魅力は何と言ってもその小ささにある。人が本当に好きになれるのは小さな本だけだ。 書物の魅力はその【小ささ】にある 「想像界」の内で本を【小さくつ ろ一こ %D 本を【木わう)という行為 のことである。ことは哲学であろうが漫画であろうが変わりない。そして、大きな本が小さくな一 る手応えを味わう瞬間の、何という至福。 「想像界」の内で本を小さくすること。そのために必要なのは本当は、その本を全部読み通す とか内容を十分に理解するといっただけのことではない。たとえ隅々まで知的に把握しえたとこ 9 ろで大きいままにとどまる書物はいくらもある。わたしたちの肉体が、それを小さなものとして一 受容するという奇蹟が起こらねばならぬ。それがつまりは、愛するということだろう。そしてわ一 一般的な見解(本を愛すること) 。紙型などの【物 」な大小;ものと一 して所有できる書物の【物理】な」 まいに執着すること II 外見の審美的な鑑賞(4段落) たしたちが愛せるのは決まって小さなものだけである。こう言ってもいい。愛のただなかでは存一 在も事物も決まって小さくなる。それは、本が物質としてのものでなくなるというのとほとんど 同じことかもしれない。 本を全部読み通すとか内容を十分に理解」 かつう、愛書家とは、ものとして所有できる書物の物質的な位いに執着する人間のことと見な一 するとかいうように【 ん】に理解す されている。何年に出た第何版という歴史的な出自とともに、装工や紙質や印字の配置といった」 II 内容の知的な理解(4段落) 前段の主張からの発展|4.5段落一 だがわたしたちは、内容の知的な理解からも外見の審美的な鑑賞からも距離をおいたところで」 書物を愛したいと思う。そのとき書物は小さくなる。本当は、大きさ小ささといった物理的範略一 そのものから逸脱してしまうと言ってもよいのだが、ここではあえて「想像的」な比喉としての一 筆者の見解」 愛の対象」 II ||小ささ の利点は何よりも「【憶E]」性 小ささにこだわっておこう。その場合、小ささの利点は何よりもまずその「携帯」性にあるだろ う。わたしたちはどこにもかしこにも持ち歩ける本を好む。その対極にあるのは、どこか外国の s 図書館にたった一冊しか現存せず、然るべき身元証明を提示し、ややこしい書類手続きを経たう えでなければ閲覧することのできない稀観本といったもののイメージだろう。おいそれとは近寄一 物理的なもの =小さくてどこへでも持って 行ける(=携帯性) ることもできないし、ようやくそれに触れる機会にめぐりあっても、うっかりするとたちまち装一 本を愛すること 丁が壊れたり紙葉が制落してしまうので殊の外大切に取り扱わねばならず、そもそも頁をめくる」 のだけでも一仕事であるような、凝りに凝った革装の四つ折り本か何かのイメージ。そうしたも3 のとの出会いが喚ぶであるう感動や興奮も、それなりに理解できないわけではない。だが、小さ な本の魅力は、そうした厳かに蛇立する不動なもののまとうアウラとは無縁である。それは、近 寄り難いものが人に強いるような敬意を要求することもない。どこへ行こうとそれはいつも人と一 ともにあるからだ。ポケットの中を探ればいつでも指に触れてそれがあることを確かめられるお 守りのようなものなのである。よく懐いた小動物のようにと言ってもよい。ドリトル先生の物語 " に出てくるあのハッカネズミは、敬愛する先生のくたびれたフラノの上着のだぶだぶのポケット」 にもぐりこんで、どんな遠い旅行にでもついて行くことができたではないか。 だが、繰り返して言っておけば、この小ささは必ずしも物理的なそれではない。物理的に小さ くてどこへでも持って行ける本の魅力というものはたしかにあるし、ジーンズのポケットにこの一 一冊などと言うとどこかの出版社の文庫本の宣伝惹句みたいになってしまうけれど、岩波文庫の e 小林秀雄訳「地獄の季節」を或る時期肌身離さず持ち歩いていたといった体験に覚えがある人は一 多かろう。あれは菊判の大冊のランボー全集か何かではやはり様にならない振舞いなのである。 II 現実としては書物が一 1である場所 で、書物の内容を一 】の中で一 1思い浮かべられること 一般的な見解」 本を愛すること 厳かに乾立する【不】なもののまとう アウラ 合 近寄り難いものが人に強いるような 高」を要求する しかし、本当のことを言えば、ひとたび所有することのできた書物はもはや実際に持ち歩くには一 2 松通寿「小動物のユートヒ 対比設明の 物質的な表情をめぐる趣味階好の洗練が彼の主要な関心事となるだろう。彼は、自分の躯の外に あるものを愛しているのだ。書物はそのとき、或る確固とした色と大きさと重さと手触りを備え一 ていなければならない ロ:目

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

唯物論についてお聞きしたいのですが、マーカーで引いてある部分の意味が全く理解できません。わかりやすく教えて頂きたいです😭😭

入試でキーワードをチェック! 人間 読解のポイント (心霊)写真に写るという時点で、その、この世ならぬ何ものかは、結局こ 心霊写真をめぐる現代人E 霊的な存在を科学的! という近代的な欲求 唯物論的イデオロギ 姿=死の不安を慰め の世の中の何ものかであったと証明されてしまうとは、どうして考えないので 一時的に物理的な あろうか。或いは、実体は不可知、不可触であるとしても、 仮象を纏って顕現することはあり得るという考え方であろうか。それならば、 一応筋は通っている。こうした考え方は、霊魂の再受肉を認めないキリスト教 社会よりも、輪廻のイメージが漠然と世俗化されて残っている我が国に於いて の方が、受け容れられやすいかもしれない。が、何れにせよ、私が心霊写真を 巡る現代人の反応の中に見出すものは、霊的な存在を科学的に証明したいとい う近代的な欲求とともに、死後の生があるとしても、それが何らかの形で物質一 性を帯びているか、或いは物質との接触可能性を有しているかでなければ、死 の不安は決してめられることはないという。唯物論的。イデオロギーの 1倒錯した姿である。 りん ね 心霊写真をめぐる現代 心霊を科学的に証明し な欲求と、 唯物論的イ とがある。 nelur 口レマ わs S おSいちろう 田典平野一郎『文明の憂懲』 田題法政大学·文学部·経営学部 人間環境学部など ゆううつ

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

Q本文中のアラベスクの意味とは? ①神秘的な雰囲気をたたえた装飾 ②幾何学的に組み合わせられた模様 ③視覚的効果を計算した多彩な色彩 ④意味をはぎ取られたむき出しのもの ⑤脈絡のない細部を縫い合わせた布地 という選択肢で②と⑤で迷って⑤を選択してしまったのですが、答えは②... 続きを読む

121 スージ LのE伝統においてはほとんどの場合、身体は「物体」(bodylcorps)の一つとして、「心」や「精神」 (mind/esprit)と ]わたしの身体は、わたしが見、触れることのできる物的対象の一つである。それは物体としての密」 悩されてきた。[a LAt積とをもち、叩けば音もする。それは疑いえないことで、【 b 】西洋の科学の歴史のなかでは長らく、身体はもっぱ 後室)のモデルに沿って医学や生理学の対象として分析されてきた。【 c ]、あらためて考えると、人の身体は物体とし しは知覚情報があまりにも乏しい。具体的にいうと、たとえば見える部分は全体の半分にも満たない。後頭部や背中はどうあが しても絶対じかには見ることができない。つまり、〈わたし〉の身体はわたしにはトータルには不可視なものであり、〈像〉と インヴィジプル してしか体験できないのである。わたしの身体はそれなしに〈わたし〉のありえないもの、というか〈わたし》自身でもあるの それ全体から当のわたしは遠く隔てられているという事態がここにはある。「各人は各自にもっとも遠い者である」とかつ (にー) てニーチェは書いていたが、この言葉は身体にこそよく当てはまる。 この点について、いますこしタンネンに見ておこう。 じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだとおもっている。たとえばホウチョウで切った傷の Sはわたしだけが感じるもので、他人は頭でわかっても、わたしの代わりに痛んでくれるわけではない。その意味で、わたし わたしの身体であるといいうるほどに、わたしはまちがいなくわたしの身体の近くにありそうである。ところが、よく考え 。おたしがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なものだ。身体の全表面のう い、ましてや他人がこのわたしをわたしとして認知してくれるその顔は、終生見ることができない。そして難儀なこと 97 んで見える部分というのは、ごく限られている。だれもじぶんの身体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじがに見た

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

出口さん現代文問題で 問2の部分で予想と省略の要求された言葉で部分的を獲得することができるって書いてありますがなぜ部分的が獲得できるんですか??

外山滋比古 『聴覚考 日本語をめぐる0章』 次の文章を読んで後の問題に答えなさい。 日常のことばにおいて漠然と論理と考えられているのは、話の筋道である。この筋道がしっかり はっきりしていないと、話が通じにくく、 誤解を招きやすい。つまり、 「線」的なものである。線一 は、曲がったり、折れたりせず、まっすぐに一直線であるのが、明快でのぞましい、とされる。 ことばの送り手は、線のようなことばを並べ、つなげていく。それを受け手がたどって意味をと ることになる。 その送り手と受け手が、心理的に近接、親密であるとき、形式の整った線的論理が情報過多と感一 じられるようになる。わかり切った、見当のつく部分を切りすてても伝達が可能になるだけではな一 い。線がうるさくなり、部分的に省略、欠落させる。それが表現を引き締め、密度のあるコミュニー ケーションとして歓迎されるようになる。そこで線の部分的風化がおこる。 普通の線的筋道がこうして、だんだん短くなり、さらに、退化すると、点になる。線的論理がい わゆる論理であるが、身近な同士においては、点的論理が通じ合い、おもしろくなってくる。 人と人との心理的距離が大きければ、用いられることばは、つよく線的な性格をおびる必要があ る。典型的なケースは法律や法廷のことばであって、ことばはしっかりした線的筋道であるのが好 ましい。線が切れたり、曲がったりしては、重大な誤解、混乱をおこすおそれがある。水ももらさぬ" 論理が求められる。 欧米語は、送り手と受け手が大きく離れている点で、特異なもので、法律の用語に通じるところ がある。日本人が母国語では意識しなかった論理が気になったのはそのためである。もともと日本 人は、ひどく立場の異なった人間の間での、コミュニケーションを考えることが稀であったから、 固い論理を考える余地がなかった。 #家族の間で交わされることばは、法律用語とは大きく性格を異にする。法律のことばでは一から 8 十をのべるのに、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十とすべての数をおさえなくてはならない。それ に引きかえ、親しいものの間では、すべての点をたしかめるようなことばは、うるさく、わずらわ しく感じられるのである。一、二とくれば、三、四とつづくだろうことを受け手は予想する。それを一 はっきり三、四とおさえると、わかり切ったことを言わないでほしいという気持ちを受け手ももつ だろう。三、四を飛ばして五、六とし、そこでまた飛んで九、十に達する。それが省略と感じられな いようになっているのが普通である。# |外山限比古『聴覚思考 日本語をめぐる 20章」 あり 11 ともある) 与えられ こも証明1 a=bk 学習日 目標タイム 20 解答解説> P.4

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

野矢茂樹さんの猫は後悔するかというので、なぜ猫は後悔しないのか5歳児に分かるような言葉をつかって説明をしてください。お願いします。 ○可能性があることも考える→もしもの世界を考える。 ○文を分けることが出来る。 ○分けた分を組み合わせ出来る。 ポイントとして、この3つが出来... 続きを読む

「猫は後悔するか」 に関して、出題は以下の一題のみを予定しています。 チコちゃんは五歳児です。 ある日、近所に住む国語教師のネコマタ先生に、 次のような質問をしました。 「ねえねえネコマタ先生、ねこって「しまった」とか『やってしまった』とかって考えることってあるのか なあ」 チコちゃんは五歳児にしては頭のよい子ですが、 難しすぎる言葉は理解できません。ネコマタ先生は慎重に 言葉を選びながら、次のように説明しました。 「チコちゃん、猫は後悔しない、『しまった」とか「やってしまった』とか考えないんだよ。 なぜなら… 「なぜなら」に続く説明を、あなたの言葉で記述しなさい。 ただし、採点は下記のループリックに沿って われます。 秀 良 可 説明すべき項目 説明に必要な項目が過不 |説明に必要な項目に関し 足なく全て揃っている。 説明に必要な項目に関し て、過不足が1つまたは て、過不足が3つ以上 2つある。 る。 論理展開の明確さ 接続詞を有効に用いるな ど、説明の順序がわかり やや論のつながりに不明 確な点があるものの、説 明として成立している。 五歳児にもわかるような 五歳児の質問に対して、 説明ができていない。 やすく読みやすい。 ことばのわかりやすさ 具体例を用いるなど、五 歳児にもわかりやすい説 たんに文章を写してい 説明になるよう心がけて だけである。または五」 児には難しい語句のみ いている。 明である。 いる。 文量 8文以上 4文~8文 4文以下 【出題のねらい、ならびにヒント】 来年度から教育に関する法律(学習指導要領)がかわり、 教育内容が少しずつ変わっていきます。 基礎的 基本的な「知識理解」 に基づいて、 「思考力 判利断力 表現力」 を育むことが、国語の授業に求められま 特に現代文は単純な 「暗記科目」ではありません。与えられた文章に対して、自分のことばで理解(思考· 断)し、他の人に向かって自分の考えを表現することが重要です。 今回の問題では、高校生にとっても読みごたえがある「猫は後悔するか」を五歳児に説明する、というも です。 人に説明するためには、普段の 10倍内容を理解する必要がある、といわれています。 授業中の説明 ーク等を駆使して、 自分なりの説明をあらかじめ作成しておくとよいかもしれません。 ポイントとしては、以下の二つです。 の難しいキーワードは五歳児にも理解しやすいように、 優しいことばにあらかじめ言い換えておく。 「猫は後悔しない」ことをどのような順番 (論理展開)で説明 (証明)しているのかを整理しておく。

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

問2番が解説を読んでも分かりません。説明をよろしくお願いします。

文化論?| 『「集団主義」という錯覚』商野陽太郎 出題 小樽商科大学 [解答·解説は本冊の127ページ] つぎの文章を読んで、あとの問いに答えなさい。設問の都合により、原文を改めた箇所がある。 戦後日本の歴史を綴った著作「敗北を抱きしめて」でピューリツァー賞を受賞したアメリカの歴史家ジョン·ダ ワーは、「集団主義的な日本人」というイメージについて、これは日米合作の「オリエンタリズム」であり、『ジッ イとは違う。という見解を述べている。 デオリエンタリズム」というのは、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者エドワードサイードが著書「オリエン」 タリズム」のなかでつかって有名になった言葉である。こんにち、この言葉は、だいたいつぎのような意味でつか われることが多い。…「オリエント」を支配の対象としたヨーロッパが、事実にもとづいてではなく、みずからの 願望にもとづいて、「オリエント』に、ヨーロッパとは対照的でエキゾチックな、そしてヨーロッパより劣った特質 を見いだした、その認識のありかた。」 日本人=集団主義」説が成立した。ケイイをしらべてみると、この説は、ダワーの指摘どおり、「オリエンタリ ズム」としての資格を充分にそなえているようにみえてくる。「日本人=集団主義」説は、日本人についての正確一 な観察から生まれたものではない。まず、欧米人の側に「個人主義」というイデオロギーがあり、それとは対照的 なイメージを日本人に投影した結果、生まれた説なのである。 (暴号) 満 る い <「オリエンタリズム」は、ヨーロッパ人がつくりあげるものである。だが、「オリエント」のほうにも、それを受」 けいれ、その確立にっキヨするひとたちがでてきて、結局、「オリエンタリズム」は、ヨーロッパ人と「オリエント」 人の「合作」になる。その点でも、「日本人=集団主義」説は「オリエンタリズム」の資格を充分にそなえている といっていいだろう。 オリエンタリズム」という観点からみれば、「集団主義的な日本人」を観察していたとき、欧米人は、自分が見 たいものを見ているにすぎなかったということになる。「集団主義的な日本人」、「集団主義的なアジア人」という 見解は、。すでに確立している強固な図式にうまくあてはまり、しかも、欧米人の自民族中心主義をくすぐるので、 新たな衣装をまとって登場するたびに、欧米では、即座に“コウハンな支持を獲得することになるのである。 マネディクトの「菊と刀」がたちまちにして「古典」の地位を確立したのは、その一例である。集団主義·個人」 主義についての国際比較研究がさかんになったときにも、データは「日本人 = 集団主義」説とまったく一致してい なかったにもかかわらず、研究者たちは「集団主義的な日本人」について語りつづけた。西ヨーロッパに起源をも つ文化を個人主義的な「相互独立的自己観」、それ以外のすべての文化を集団主義的な「相互依存的自己観」と色 分けしてみせた自己観理論も、ヨーロッパ系アメリカ人の自民族中心主義が明白であるにもかかわらず、あるいは、 おそらくそうであるがゆえに、アメリカの心理学界では、短期間のうちにきわめてコウハンな支持を獲得すること一 に成功した。 「個人主義」が、欧米、とくにアメリカの自己己賛美イデオロギーだとすると、劣位におかれることになる日本人 自身が「日本人=集団主義」説を唱えてきたことは、一見、*キイに感じられるかもしれない。しかし、明治以来、 日本の知識人が欧米の思潮を受けいれつづけてきたこと、また、欧米の観点から日本を批判することによって日本一 を欧米風に「改善」しようとする伝統がつづいてきたことなどを考えあわせてみれば、じっさいには、これはすこ」 回 o 文化論の「「東団主義」という錯覚」高野陽太郎 8 演習目安時間 30 66

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

問 の答えはどういうところになりますか??

の中で初めて現実化される。 生徒のいない教師はいない。患者のいない医師や看護師はいない。教師としての、あ るいは医師、看護師としての同一性は、たとえそれが一方的な関係であっても、やはり 相互補完的なものである。その意味で、いかなる人間関係であれ、そこには他者による -自己の、自己による他者の「定義づけ」が含まれている。問題なのはそういう役柄の同一 一性でなく、端的に「誰」としてのこの自己の同一性である。このときに他者であるの 「そういう意味での 他者」とは、どうい うものか は教師でも医師でもなく、別の「誰」という単独的な存在である。そういう意味での他 者のいずれに対しても、自分の存在はなんらの意味を持っていないのではないかという 思いにとらわれたとき、人はひどく落ち込む。 求められるということ、 見つめられるということ、語りかけられるということ、時に は愛情のではなくて憎しみの対象、排除の対象となっているのでもいい、他人のなんら かの関心の宛て先になっているということが、他人の意識の中で無視し得ないある場所 を占めているという実感が、人の存在証明となる。寺山修司もある文章の中で触れてい るが、人は「誰もわたしに話しかけてくれない」という遺書を残して自殺することだっ 5寺山修司 一1九三五|1九 八三。歌人·劇作家。 5PAP州ゅう じ てあるのである

回答募集中 回答数: 0
1/2