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日本史 高校生

1.2.12が分からないので教えて頂きたいです

戦後恐慌から金融恐慌へ る11920年代以降の戦後恐慌の原因を一つだけ答えよ。 21920年代の米価低落に起因する農業不況の原因を一つだけ答えよ。 関東大震災に伴う未決済の震災手形に特別融資をしたのは、何銀行か。日本にJ の1927年若槻礼次郎内閣で、後に銀行取り付け騒ぎに発展する失言をした大蔵大臣は誰か。片岡直 の昭和の初期に、三井·三菱に迫る貿易商として台頭した総合商社はどこか。後不的店 の若槻内閣の後を受けた田中義一内閣が、金融恐慌を鎮静化させる目的で発した緊急事態 令は何か。そうピリ7ム の大正から昭和の初期にかけて金融恐慌を銀行の合併で乗り切り金融界を支配した五代銀行 はどこか。 シ#、三菱、住友、安田、第 一 8田中内閣が中国の国民党による北伐に際し、日本人居留民保護を名目に出兵を実施したの は中国のどこか。山泉 の1928年、日本の中国への出兵により国民革命軍との間で起きた武力衝突を何というかる O田中内閣の強硬外交によって擁護された満州軍閥は誰か。張作器 D1928年関東軍によって内閣の同意を得ずに実行された列車の爆破事件は、日本ではどのよ 呼ばれたか。あH県重大事件 32田中内閣は上の事件の責任を取って総辞職した。その直接の要因を答えよ。 消南事 コそ広ばセ山国国民普の代まけ誰か

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日本史 高校生

問7でxが誤y正となる理由をそれぞれ教えて欲しいです。

C戦後、幣原は知米家としての経歴を買われ、内閣総理大臣に就任した。常原内閣はGHQの五 大改革指令の実現に取り組んだほか、 新憲法草案の作成や天皇の神格を否定する設書の草案作成 にも携わるなど、f戦後改革の中心的な政策を次々と実施した内閣であったといえる。また、g終 戦直後の物価上昇や食援危機への対策にも努めたが、1946年4月は、その後も衆議院議長などを 歴任し、1951年3月に78歳で没した。 h議和条約が調印される半年前のことであった。 問6下線部fに関連して、 戦後改革期に実施された諸施策について述べた文として誤っているも のを、一つ選びなさい。 DGHQにより労働組合の結成が奨励され、 労働条件改政善を目的とする労働基準法が制定された。 2特別高等警察の廃止や、 共産党員などの政治犯の釈放が行われた。 3経済機構の民主化の一環として、 独占禁止法が制定された。 OGHQにより教育制度の自由主義的改革が指示され、 修身教育が導入された。 問7下線部gに関連して、 戦後改革期における経済対策に関して述べた文として正しいものを一 つ選びなさい。 X降伏と同時に食糧の配給制度が全面的に廃止され、 価格の統制も撤廃された。 Y物価上昇を抑制するため、 金融緊急措置令によって国民の預金が封鎖された。 0X 正Y 正 ② X 正 Y 誤 ③ X 誤 Y 正④ X 誤Y誤 問8下線部hに関して述べた文として正しいものを一つ選びなさい。 のこの条約調印と同時に小笠原諸島が返還された。 のこの条約調印をきっかけとして、 警察予備隊が発足した。 ③この条約調印と同じ日に、 日米安全保障条約が調印された。 サップナラスゴ ④この条約調印には、 ソ連を除くすべての交戦国が参加した。 解答欄 問1 問2 問3 問4 5 間5 問6 問7 問8

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日本史 高校生

問3の問題でyが誤な理由を教えて欲しいです。 解答は2です。

日本史練習問題センター試験 2009年度本試験 近代日本における代表的な外交官の一人であり、政治家としても活動した幣原喜重郎に関する 次の文章を読み、後の問いに答えなさい。 A 1872年 現在の大阪府に生まれた幣原喜重郎は、大学卒業後外務省に入省し、外交官として の経験を重ねた。第一次世界大戦下において外務次官に就任し、その後の内閣においてaロシア 半命に対する日本軍の介入の事後処理などに従事した。その後駐米公使としてアメリカに赴任し た需原は、ワシントンで実施された国際会議において全権の一人として出席し、b 海軍軍縮およ び中国大陸·太平洋における列強諸国との権益調整に尽力した。 問1下線部a に関して述べた次の文XYについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを一 つ選びなさい。 X 日本は、イギリスなど他の派兵国よりも長期にわたって介入を継続した。 Y この軍事介入の影響で、国内の米価が下落し、困窮した農民が全国で騒優をおこした。 0 X 正Y正 2 X 正Y誤 ③ X 誤Y正④ X 誤Y誤 問2下線部bに関して述べた次の文について、古いものから年代順に正しく配列したものを一つ 選びなさい。 I 国策の手段としての戦争の放棄を約した不戦条約に調印した。10 II 補助艦の総保有量を英·米の約7割とすることに合意した。 I 主力艦保有量を英·米の5分の3に制限することに合意した。 192 2 I→II→I I→I→I 5 I→I→I 6 Ⅲ→Ⅱ→I Bc原が外務大臣として活躍した機関は、 一時の中断をはさんで1924年から 1931 年までの長 い期間にわたるが、その間の外交方針はほぼ一貫しておりd「幣原外交と呼ばれた。軍縮条約 への取り組みなどにこうした姿勢は顕著である。 しかし、このような常源の外交方針は、対立勢 カやe中国における日本軍の行動によって妨げられることになる。最終的に 1931 年、陸軍が中 国東北部でおこした軍事的行動なとどによって、 幣原の外交路線は 問3下線部cに関連して、 1920年代の日本は国内で社会運動が活発化した時期としても知られて いる。次の表を参考にしながら、 この時期に農村で起こった小作争議に関して述べた下の文XY について、その正誤の組み合わせとして正しいものを一つ選びなさい。 x 普通選挙法が成立した前後の両年を比較すると、 小作争議件数は増加をみせたが、その後は 一時的に減少した。 Y 世界恐慌の影響が日本に波及した結果、困窮した農民による個々の争議が大規模化する傾向 がみられた。 0 X 正Y正 ② X 正 Y 誤③ X 誤Y正④X誤 Y 誤 した。 小作争議の件数と規模 項目|小作争議件数参加小作人数|1件当りの参加 B 年 A 小作人数B/A 1920年 408 34,605 84.8 1922年 1,578 125,750 79.7 1924年 1,532 110,920 72,4 1926 年 2,751 151,061 54.9 1928年 1,866 75,136 40.3 1930年 2,478 58,565 23.6 1932年 3,414 61,499 18.0 (安藤良雄編『近代日本経済史要覧(第2版)』より作成)

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日本史 高校生

よければ教えてください。

1】次の文を読み,(①)~(⑥)には適語を入れ, 下の設問に答えよ。 4年余りにおよんだ第一次世界大戦は,1918年,ドイツの降伏によって終結し.翌年,(a)パリで講和 会議が開かれた。この会議は, アメリカ大統領( ① )が提唱した14カ条を基礎として議論がおこなわれ, (② )の原則のもとで東欧に多数の独立国家が誕生し, 初の国際平和維持機関として(③ )の設立が決 まった。一方で, 講和条約として調印された( ④ )条約は, ドイツに巨額の賠償金を課し,さらに軍備 制限,領土割譲を求めるきびしいものとなった。 日本はこの(O)条約によって, ( ⑤ )半島の旧ドイツ権益継承を認められるとともに,赤道以北の ドイツ領南洋諸島の(⑥ )権をえた。しかし,中国国内でこの条約の内容が伝わると, 北京の学生によ る街頭運動に端を発した(b)激しい反日運動がおきるとともに,中国政府も条約の調印を拒否した。 朝鮮では,これより先に( ② )の世論の高まりを背景に,朝鮮独立を求める運動がもりあがり,1919 年3月,京城(ソウル)で独立宣言書朗読会を機とした(c独立運動が,朝鮮全土で展開された。(d)日本の 現地支配者はこの運動をきびしく弾圧したが,反面,(e)朝鮮支配の方針に若干の変更をおこなった。 [設問](1) 下線部a)について, この会議に日本全権として出席した立憲政友会前総裁は誰か答えよ。 (2) 下線部(b) - (c)の運動をそれぞれ何というか答えよ。 (3) 下線部(d)について,このときの日本の内閣の首相は誰か答えよ。 (4)下線部(e)について, このとき,朝鮮総督の資格が拡大されたが内容を20文字程度で記せ。 の 3 (2Xb) 各2点,計22点 (2) 次の文を読み, (①)~ (③) には適語を入れ,下の設問に答えよ。 大戦後,国際政治の主導権をにぎったアメリカは,建艦競争を終わらせ, 自国の財政負担を軽減する ことと,日本の東アジアでの膨張を抑えることを目的として, 1921年から翌年にかけて(a)( ① )会議を 開催した。この会議によって,(① )体制とよばれるアジア·太平洋の新たな国際秩序が形成され 1920年代は(b列国の国際協調がはかられた時期であった。日本もこの秩序を積極的に受け入れ,立憲政 友会の内閣は協調外交の基礎をつくり, 野党としてこれを批判した( ② ) も, のちに ( ② ) 総裁の (3)を首相とする護憲三派内閣が成立してからは, (c)協調外交政策を推し進めた。 [設問](1) 下線部(a)について, この会議では(A)四カ国条約,(B)九カ国条約, (C)海軍軍縮条約が調印され たが,次に示す事柄はそれぞれどの条約にもっとも関係が深いか, (A)~(C)の記号で答えよ。 また,どの条約とも関連がない場合は, 解答欄に×印を記入せよ。 イ太平洋諸島の現状維持 オ.主力艦の保有制限 ウ.日英同盟の廃棄 カ.補助艦の保有制限 ア.中国の領土と主権の尊重 エ.石井·ランシング (2) 下線部(b)について, 1928年に調印された世界で初めて戦争放棄を定めた条約名を答えよ。 (3) 下線部(c)について, この外交を推し進めた外務大臣の名を答えよ。 の廃棄 (1)ア エ 各2点,計22点

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日本史 高校生

教科書がなく、調べても分からないので困っています。よければ教えてください。

KI) 次の文を読み, (①)~(⑨)には語群から適語を記号で選び,下の設問に答えよ。 1912年7月,明治天皇の死去にどもない, 大正天皇が即位した。この頃,東京帝国大学教授の(①) が「意法講話」を刊行し, (a)憲法学説や政党内閣論を唱えたことで, 新時代に対する国民の政治的関心が 高まった。一方,元老の(② )は, 大正天皇の内大臣兼侍従長に,長州関の一員で陸軍の長老であった ()を選んだ。ときの第2次(④ )内閣は, 国家財政の悪化にもかかわらず,与党の立憲政友会から は積極的な財政政策を,商工業者からは減税を, 海軍からは(b)建艦計画の実現を, 陸軍からは(c)師団増 設をそれぞれ求められたため,困難な立場に立たされた。 中国でおこった辛支革命と清朝滅亡という事態に対し, 明確な態度をとらず, また海軍拡張を優先し ようとした内閣の姿勢を不満とする( ② )と陸軍は,2個師団増設を強くせまったが,首相は財政上困 難であるとして拒絶した。これに対し陸軍は,(⑤ )陸相が単独で辞表を天皇に提出し, 軍部大臣現役 武官制をたてに,その後任を推薦しなかったため,内閣は総辞職に追い込まれた。 元老会議は(③ )を後継首相としたが,内大臣兼侍従長である人物が首相となるのは宮中と政府(府 中)の境界を乱すとの非難の声が上がった。ここに,立憲政友会の(⑥ )と立憲国民党の( ① )を中心 とする野党勢力·ジャーナリストに, 商工業者,都市民衆が加わり,(d)[(_A)」のスローガンを掲げる (e)第1次護憲運動が全国に広がった。そのため,内閣は50日余りで退陣した。 (3 )のあとは,薩摩出身の海軍大将(8 )が立憲政友会を与党に内閣を組織した。第1次(③ )内 閣は,行政整理をおこなうとともに,(f)官僚·軍部に政党の影響力の拡大につとめたが, 1914年,(g)海 軍高官の汚職事件の発覚により退陣した。 これをみた元老は,大衆に人気のある(⑨ )を後継首相に起用した。第2次( ⑨ )内閣は, 衆議院に おいては立憲政友会に比べて少数であった立憲同志会を与党として出発した。翌1915年の総選挙では, 大衆的な選挙戦術をとった与党が立憲政友会に圧勝し,懸案の2個師団増設案は議会を通過した。 〈語群〉 ア.犬養毅 イ.上原勇作 キ.美濃部達吉 ウ.大隈重信 エ、尾崎行雄 ケ.山本権兵衛 オ.桂太郎 カ.西園寺公望 ク.山県有朋 [設問](1) 下線部(a)について,「憲法講話」のなかで唱えられた,君主は国家の最高機関であるとする憲 コ、吉野作造 法学説を何というか答えよ。 (2) 下線部(b)について, 海軍が長期目標とした戦艦8隻 装甲巡洋艦8隻を何というか答えよ。 (3) 下線部(c)について,陸軍が2個師団増設を要求したおもな理由を答えよ。 (4) 下線部(d)について,(A)にあてはまるスローガンを次のなかから二つ選び, 記号で答えよ。 ア.憲政擁護 (5) 下線部(e)について,これを何というか答えよ。 (6) 下線部(E)について, 内閣に対する軍の影響力行使を制限するため改正された制度を答えよ。 イ.民力休養 ウ、閥族打破 エ、地租軽減 オ。臥薪嘗胆 (7) 下線部(g)について,この事件を何というか答えよ。

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日本史 高校生

高2 日本史 鎌倉時代 明日のテストの対策プリントです 答えを配布してくれなかったので、解答を教えてください!!!! 大門1だけとか、少しでも助かります😭

く鎌倉時代プレテスト> 1ほに 「次の文章を読んて, ( 1 )~( 15 )に適当な語句を下の語群から記号で選び、あとの問いにも答えなさい。 平清盛が後白河法皇を幽閉し,1180年に孫の( 1 )天皇を位につけると, 地方の武士団や中央の貴族·大寺院の中には, 平氏の専制政治に 対する不満がうずまき始めた。この情勢をみた後白河法皇の皇子( 2 )と,畿内に基盤をもつ源氏の( 3 )は,平氏打倒の兵をあげ,挙兵を呼 びかける(2 )の命令が諸国の武士に伝えられた。 これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ちあがり,つづいて伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曽谷にいた(4 )をはじ め,各地の武士団が挙兵して,ついに内乱は全国的に広がり, 5年にわたって争乱が続いた。 平氏は当初,都を( 5 )に移した。( 5 )は近くに良港( 6 )があり, 瀬戸内海支配のための平氏の拠点であったが,この遷都には大寺院や貴 族たちが反対したため,約半年間でまた京都に戻し,平氏は機内を中心とする支配を固めてこれらの動きに対応した。しかし,清盛の突然の死 や,畿内西国を中心とする( 7 )の飢僅などで平氏の基盤は弱体化し, I183年,北陸で( 4 )に敗北すると,平氏は( 1 )天皇を奉じて西国 に都落ちした。その( 4 )を,院と結んだ源頼朝は弟の( 8 ) 義経らの軍を派遣して減ぼすと,さらに平氏と戦い,摂津の( 9 ),讃岐の( 10 ) の合戦を経て,ついに1185年に( 11 )の壇の浦で平氏を滅亡させた。 その後,頼朝は逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏を滅ぼすと,I190年には上洛して( 12 )となり, I192年,後白河法皇の死後に は,征夷大将軍に任ぜられた。こうして鎌倉幕府が成立してから滅亡するまでの時代を鎌倉時代と呼んでいる。 幕府の支配機構は,簡素で実務的なものであった。鎌倉には中央機関として,御家人を組織し統制する( 13 ),一般政務や財政事務をつかさ どる( 14 )(初めは②公文所), ③裁判事務を担当する( 15 )などがおかれ,京都からまねいた下級貴族を主とする側近たちが将軍頼朝を補 佐した。 地方には@守護と地頭がおかれた。守護は原則として各国に一人ずつ, 主として東国出身の有力御家人が任命されて,⑤大犯三カ条などの 職務を任とし,国内の御家人を指揮して平時には治安の維持と警察権の行使に当たり,戦時には国内の武士を統率した。また在庁官人を支配 し,とくに東国では国街の行政事務を引き継いで, 地方行政官としての役割も果たした。 地頭は御家人の中から任命され,任務は年貢の徴収·納人と土地の管理および治安維持であった。それまでの下司などの荘官の多くは,新た に頼朝から任命を受けた地頭となり, 広く御家人たちの権利が保障された。 《語群》 ア,源範頼 イ,源頼政 ウ, 源頼家 エ,源義仲 オ,以仁王 カ,護良親王 キ, 高倉天皇 ク,安徳 ケ,右近衛大将 コ,太政大臣 サ,平城京 シ, 福原京 ス,養和 セ,天明 ソ,富士川川 タ,長門 チ,屋島 ツ,ーの谷 テ,問注所 ト, 政所 ナ,京都守護 ニ,侍所 ヌ,大輪田泊 ネ,大宰府 問1 下線部のの公文所の初代長官(別当)となった人物名を答えなさい。 問2 下線部3の裁判事務を担当する初代長官(執事)となった人物名を答えなさい。 問3 下線部のの守護·地頭が設置された年代を,次の中から選び記号で答えなさい。 ア,I180年 イ, 1183年 ウ, I185年 エ,1188年 問4 下線部のの大犯三カ条としてあてはまるものを,次の中からすべて選び記号で答えなさい。 ア,諸国の御家人に天皇·院の御所を警護させる京都大番役の催促 イ,大宰府の監督 ウ,謀反人·殺害人の逮捕 エ,六波羅探題で,西国の御家人の統轄 2 次の文章の(1)~(10)の下線部分は,すべて誤っている。正しい語句を下の語群から記号で選び,( A )~( E )には適当な人名·語句を書 き入れ,あとの問いにも答えなさい。 幕府政治はすぐれた指導者である源頼朝が将軍独裁の体制で運営していたが,頼朝の死後,若い( A )と(1)義朝の時代になると,御家人中 心の政治を求める動きが強まった。それとともに有力な御家人のあいだで政治の主導権をめぐる激しい争いが続き, 多くの御家人が滅んでいっ た。その中で勢力をのばしてきたのが,伊豆の在庁官人出身の北条氏である。 1203年,頼朝の妻北条(2)時子の父である( B )は,将軍の( A )を廃し,弟の(1)を立てて幕府の実権を握った。この( B )の地位は執権と 呼ばれて,子の義時に継承されたが,さらに義時は,侍所の長官であった(3)大江広元を滅ぼし,政所と侍所の別当を兼ねてその地位を固めた。 これ以後,執権は北条氏一族のあいだで世襲されるようになっていった。 京都の朝廷では, 幕府の成立と勢力の拡大に直面して,これまでの朝廷の政治の立直しがおこなわれた。その中心にあったのが後鳥羽上皇で ある。上皇は,分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめるとともに,新たに(4)滝口の武士をおいて軍事カの増強をはかるなど院政を 強化し,幕府と対決して朝廷の勢力を挽回する動きを強めた。 その中で1219年,上皇との連携をはかっていた将軍(1)が( A )の遺児(5)千幡に暗殺される事件がおきると,これをきっかけに,朝幕関係が 不安定になり,上皇は,畿内·西国の武士や大寺院の僧兵,さらに北条氏の勢力増大に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて,ついに の北条義時追討の兵をあげた。 しかし,上皇側の期待に反して,東国武士の大多数は源頼朝の妻の呼びかけに応じて結集し,戦いにのぞんだ。幕府は,義時の子(6)為朝,弟 の時房らの率いる軍を送り京都を攻めた結果,1カ月ののち,戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わり,の3上皇を配流した。これが( C )である。 乱後,幕府は皇位の継承に介入するとともに,京都には新たに( D )をおいて,朝廷を監視し,京都の内外の警備,および西国の統轄に当たら

解決済み 回答数: 1