学年

教科

質問の種類

日本史 高校生

日本史Bの定期テスト対策に、一問一答や問題演習は必要でしょうか? 新高校2年生になる者です。新年度から日本史の授業が始まるので、参考書や問題集などを探しております。 教科書は山川のもので、それに準拠した「詳説日本史ノート」というものが学校から配られます。そのノートの中の様... 続きを読む

42 第3章 貴族政曲と国風文化 1.岡戦治 13 貴族政治と国風文化 (2) 天層の治:( 26 )天皇の親政 の本朝(皇朝)十二銭の最後にあたる(27 )を発行(58) の延喜式の施行( 26 )天皇の死去直後) (1(摂関政治 O入試チェックO 1 北家の藤原冬副の系統が他氏族を排戻したことに関連する9~10世紀の事件に問して逃べた次の文1 ~Wについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、下のD~ののうちから一つ選べ。(97- 藤原氏北家の発展 ~ 1 藤原北家の台頭 (1) 子の変(=平平城太上天皇の変(80))で藤原(1 )家が設高 2) 同事件の直前。( 2 )天皇は北家の商原冬副を初代職人頭に任命し、北家 台頭のきっかけとなる 2 藤原氏北家と摂関政治 藤原氏 - 本) 1 宇多天皇期位の際の動書が徹国させられ、関自の政治的地位が高まった。 I 伴健率- 構造勢らが課反をはかったとされ、流罪になった。 ■ 限開天皇の皇子の左大臣調高明が、,密告によって大宰府に左運された。 N 平安官の応天コの炎上は大納言伴善男の陰謀とされ、善男らが配流された。 の I-I-W-I 年代 事件の経過影響 天皇 の N-I-■-! 冬開、初代蔵人頭に就任 平城太上天皇(楽子)の変 (4 )の変皇太子派の伴健率-構造勢ら失脚 幼少の 5 )天皇即位→良房。臣下初の実質上| 清和 冬 開 10 の 1-I-NーI の I-W-I-I 2 藤原北家とそれに関わる政変に関連して述べた次の文I~Ⅲの空 ウに入る人物の組合 せとして正しいものを、下のD~ののうちから一つ選べ。(01 - 道) 1 承和9年、アらが恒真観王の間位を全てたとして、流罪になった。 I 直観8年、口イが応天門に放火したとして、伊豆に流罪になった。 I 安和2年、口ウが為平親王の即位を企てたとして、大宰府に左運された。 3) 82 (時) の摂段に就任 ( |(7)の変大納言( )が左大臣 の失脚をはかり放散火→伴善男ら流罪 同年、良房。正式に摂段に就任 基軽(良層の養子)。摂段に就任 基経の屋力で光孝天皇即位、基軽は事実上の ( 10 )に就任 ( 11 ) 12 )天皇の副動をめぐり締議 要年、昭動撤同→基軽に再び関白就任の 7 のア高明 イ 源高明 イ 作善男 イ造勢 の ア構造勢 ウ 伴善男 ウ 高明 イ作善男 ウ構造勢 (略) の ア構進勝 の ア 作男 イ 高明 ウ構造勢 光率 の ア 高明 ウ 作善男 の ア 作務男 イ構造券 ウ 源高明 10 887~ 宇多 画間政治 の- 1 摂政:天皇の幼少時に政務を代行 関白:天皇が成人機後、その後見役として政務を補佐」を兼ねる 2 摂関家の内給:「氏長者」をめぐる争い(藤原実頼以降) (1) 藤原兼通と兼家の兄弟の争い (2) 藤原道長と伊間の叔父,期の争い(数れた伊層は大宰府に左通) 3 藤原氏全盛期:天息と外蔵(母方の親減)関係を結び権力を掌園 (1) 藤原( 1):4人の娘をつぎつぎと中宮-皇太子起として入内させる の 2 ) 3 )( 4 )の3代の天皇の外祖父(母方の祖父)として権 勢を誇る(道長は摂政。内覧=関白に準ずる地位に就任) の 5 )の日記「 6 )」に「此の世をば 我が世とぞ思う望月の かけた ることも 無しと思へば」の道長の和 の単麗な阿外陀堂の 7 )寺を建立し、「御堂関白」と称される (2) 藤原( ):父道長の権勢のもと、3代の天皇在位期間。約50年にわたり 12 びD 宇多天皇、基軽死後。摂関置かず親政(寛率の治) 宇多天皇( 14 )登用→遺樹使中止の建議(894) K 16 藤原氏の「氏者」 13 ( 13 ) 4 右大臣( 15 )を大宰府に左置 間天皇の親政( 17 ) 天慶の乱(99~9I)…平将門らが反乱 村上天皇の親政( 19 ) ( 20 |( 21 )の変( 2)の書告により左大臣 ( 23 )失開→試後。摂関常置 901 こち 忠平 (略) 17 き 村上 (略) 19 3 天皇競政=摂政,関自をおかず、天皇による親政 (1) 喜の治:( 24 )天皇の親政 21 4 の離田を実施(92)→以後。離田を命じる史料は見られなくなる 基喜の荘園整理令を発令(0)→初の整理令、例外多く不徹底 5 く 延事格式を編 の最後の六国史「( 25 )』を編幕 の最初の動開和歌集「古今和歌集」を機集 摂政関白の地位 宇治に平等院展風堂を建て、「宇治殿」と称される 三番浦行が観開天皇に「意見封事十二箇条」を上奏

解決済み 回答数: 1
日本史 高校生

日本史Bの共通テストの問題です。 解説がないので解説をお願いします🙇‍♀️🙇‍♀️

日本史B へんきん 第2問 高校談生のリツさんはは、日本古代の法は、中国の法にならって編察されたこ とを教わった。そ代で,先生の助賞を愛けて,日本古代の法整備の歴史と,中国の 法典をもたらした遺虜使*遺唐使の派遣について、年表にまとめで整理してみた。 この年表を読んで, 後の問い調15】に答えま。(史料は、一部省略したり、書 き改めたりしたと言ろもある。(配点 16) 年表 世紀 貝査の法典編薬と 選踏使、遷唐使 数学は西暦年) 中国の法典編纂 諸政策 6世紀 遭磨使 (600) 隣*開皇律令格式 遺魔使697~08) ~額5まで数度の違階使 濃唐強(630~32) 遣唐便(653~54) 66 まで数度の濃唐使 階-大業律令 唐武徳律令 唐永徽律令格式 改新の語 7世紀 の慶午年籍 「冠礎法度の事注) 飛鳥浄御原令 康寅年籍 すらきあ 唐選獲律令格式 選唐使702~7) 造唐使(71) 「進唐使(73~36) ト堂 演唐使752~54) 達唐便(777~78) 遺唐使(864~06) 遠唐使(838~-40) 道害使中止の提言(894) 大宝律令 唐:開元三年律令格式 豚,調元七年律令格式 唐×購元ニ十五年律令格式 巻法律令 8世紀 弘仁格式 9世紀 真観裕式 | 10世紀延喜裕式 )冠位法度の事ま近江合とみる説もある。 1 97- (2102-97)

解決済み 回答数: 1
日本史 高校生

問3の問題でyが誤な理由を教えて欲しいです。 解答は2です。

日本史練習問題センター試験 2009年度本試験 近代日本における代表的な外交官の一人であり、政治家としても活動した幣原喜重郎に関する 次の文章を読み、後の問いに答えなさい。 A 1872年 現在の大阪府に生まれた幣原喜重郎は、大学卒業後外務省に入省し、外交官として の経験を重ねた。第一次世界大戦下において外務次官に就任し、その後の内閣においてaロシア 半命に対する日本軍の介入の事後処理などに従事した。その後駐米公使としてアメリカに赴任し た需原は、ワシントンで実施された国際会議において全権の一人として出席し、b 海軍軍縮およ び中国大陸·太平洋における列強諸国との権益調整に尽力した。 問1下線部a に関して述べた次の文XYについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを一 つ選びなさい。 X 日本は、イギリスなど他の派兵国よりも長期にわたって介入を継続した。 Y この軍事介入の影響で、国内の米価が下落し、困窮した農民が全国で騒優をおこした。 0 X 正Y正 2 X 正Y誤 ③ X 誤Y正④ X 誤Y誤 問2下線部bに関して述べた次の文について、古いものから年代順に正しく配列したものを一つ 選びなさい。 I 国策の手段としての戦争の放棄を約した不戦条約に調印した。10 II 補助艦の総保有量を英·米の約7割とすることに合意した。 I 主力艦保有量を英·米の5分の3に制限することに合意した。 192 2 I→II→I I→I→I 5 I→I→I 6 Ⅲ→Ⅱ→I Bc原が外務大臣として活躍した機関は、 一時の中断をはさんで1924年から 1931 年までの長 い期間にわたるが、その間の外交方針はほぼ一貫しておりd「幣原外交と呼ばれた。軍縮条約 への取り組みなどにこうした姿勢は顕著である。 しかし、このような常源の外交方針は、対立勢 カやe中国における日本軍の行動によって妨げられることになる。最終的に 1931 年、陸軍が中 国東北部でおこした軍事的行動なとどによって、 幣原の外交路線は 問3下線部cに関連して、 1920年代の日本は国内で社会運動が活発化した時期としても知られて いる。次の表を参考にしながら、 この時期に農村で起こった小作争議に関して述べた下の文XY について、その正誤の組み合わせとして正しいものを一つ選びなさい。 x 普通選挙法が成立した前後の両年を比較すると、 小作争議件数は増加をみせたが、その後は 一時的に減少した。 Y 世界恐慌の影響が日本に波及した結果、困窮した農民による個々の争議が大規模化する傾向 がみられた。 0 X 正Y正 ② X 正 Y 誤③ X 誤Y正④X誤 Y 誤 した。 小作争議の件数と規模 項目|小作争議件数参加小作人数|1件当りの参加 B 年 A 小作人数B/A 1920年 408 34,605 84.8 1922年 1,578 125,750 79.7 1924年 1,532 110,920 72,4 1926 年 2,751 151,061 54.9 1928年 1,866 75,136 40.3 1930年 2,478 58,565 23.6 1932年 3,414 61,499 18.0 (安藤良雄編『近代日本経済史要覧(第2版)』より作成)

解決済み 回答数: 1
日本史 高校生

教科書がなく、調べても分からないので困っています。よければ教えてください。

KI) 次の文を読み, (①)~(⑨)には語群から適語を記号で選び,下の設問に答えよ。 1912年7月,明治天皇の死去にどもない, 大正天皇が即位した。この頃,東京帝国大学教授の(①) が「意法講話」を刊行し, (a)憲法学説や政党内閣論を唱えたことで, 新時代に対する国民の政治的関心が 高まった。一方,元老の(② )は, 大正天皇の内大臣兼侍従長に,長州関の一員で陸軍の長老であった ()を選んだ。ときの第2次(④ )内閣は, 国家財政の悪化にもかかわらず,与党の立憲政友会から は積極的な財政政策を,商工業者からは減税を, 海軍からは(b)建艦計画の実現を, 陸軍からは(c)師団増 設をそれぞれ求められたため,困難な立場に立たされた。 中国でおこった辛支革命と清朝滅亡という事態に対し, 明確な態度をとらず, また海軍拡張を優先し ようとした内閣の姿勢を不満とする( ② )と陸軍は,2個師団増設を強くせまったが,首相は財政上困 難であるとして拒絶した。これに対し陸軍は,(⑤ )陸相が単独で辞表を天皇に提出し, 軍部大臣現役 武官制をたてに,その後任を推薦しなかったため,内閣は総辞職に追い込まれた。 元老会議は(③ )を後継首相としたが,内大臣兼侍従長である人物が首相となるのは宮中と政府(府 中)の境界を乱すとの非難の声が上がった。ここに,立憲政友会の(⑥ )と立憲国民党の( ① )を中心 とする野党勢力·ジャーナリストに, 商工業者,都市民衆が加わり,(d)[(_A)」のスローガンを掲げる (e)第1次護憲運動が全国に広がった。そのため,内閣は50日余りで退陣した。 (3 )のあとは,薩摩出身の海軍大将(8 )が立憲政友会を与党に内閣を組織した。第1次(③ )内 閣は,行政整理をおこなうとともに,(f)官僚·軍部に政党の影響力の拡大につとめたが, 1914年,(g)海 軍高官の汚職事件の発覚により退陣した。 これをみた元老は,大衆に人気のある(⑨ )を後継首相に起用した。第2次( ⑨ )内閣は, 衆議院に おいては立憲政友会に比べて少数であった立憲同志会を与党として出発した。翌1915年の総選挙では, 大衆的な選挙戦術をとった与党が立憲政友会に圧勝し,懸案の2個師団増設案は議会を通過した。 〈語群〉 ア.犬養毅 イ.上原勇作 キ.美濃部達吉 ウ.大隈重信 エ、尾崎行雄 ケ.山本権兵衛 オ.桂太郎 カ.西園寺公望 ク.山県有朋 [設問](1) 下線部(a)について,「憲法講話」のなかで唱えられた,君主は国家の最高機関であるとする憲 コ、吉野作造 法学説を何というか答えよ。 (2) 下線部(b)について, 海軍が長期目標とした戦艦8隻 装甲巡洋艦8隻を何というか答えよ。 (3) 下線部(c)について,陸軍が2個師団増設を要求したおもな理由を答えよ。 (4) 下線部(d)について,(A)にあてはまるスローガンを次のなかから二つ選び, 記号で答えよ。 ア.憲政擁護 (5) 下線部(e)について,これを何というか答えよ。 (6) 下線部(E)について, 内閣に対する軍の影響力行使を制限するため改正された制度を答えよ。 イ.民力休養 ウ、閥族打破 エ、地租軽減 オ。臥薪嘗胆 (7) 下線部(g)について,この事件を何というか答えよ。

解決済み 回答数: 1
日本史 高校生

高2 日本史 鎌倉時代 明日のテストの対策プリントです 答えを配布してくれなかったので、解答を教えてください!!!! 大門1だけとか、少しでも助かります😭

く鎌倉時代プレテスト> 1ほに 「次の文章を読んて, ( 1 )~( 15 )に適当な語句を下の語群から記号で選び、あとの問いにも答えなさい。 平清盛が後白河法皇を幽閉し,1180年に孫の( 1 )天皇を位につけると, 地方の武士団や中央の貴族·大寺院の中には, 平氏の専制政治に 対する不満がうずまき始めた。この情勢をみた後白河法皇の皇子( 2 )と,畿内に基盤をもつ源氏の( 3 )は,平氏打倒の兵をあげ,挙兵を呼 びかける(2 )の命令が諸国の武士に伝えられた。 これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ちあがり,つづいて伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曽谷にいた(4 )をはじ め,各地の武士団が挙兵して,ついに内乱は全国的に広がり, 5年にわたって争乱が続いた。 平氏は当初,都を( 5 )に移した。( 5 )は近くに良港( 6 )があり, 瀬戸内海支配のための平氏の拠点であったが,この遷都には大寺院や貴 族たちが反対したため,約半年間でまた京都に戻し,平氏は機内を中心とする支配を固めてこれらの動きに対応した。しかし,清盛の突然の死 や,畿内西国を中心とする( 7 )の飢僅などで平氏の基盤は弱体化し, I183年,北陸で( 4 )に敗北すると,平氏は( 1 )天皇を奉じて西国 に都落ちした。その( 4 )を,院と結んだ源頼朝は弟の( 8 ) 義経らの軍を派遣して減ぼすと,さらに平氏と戦い,摂津の( 9 ),讃岐の( 10 ) の合戦を経て,ついに1185年に( 11 )の壇の浦で平氏を滅亡させた。 その後,頼朝は逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏を滅ぼすと,I190年には上洛して( 12 )となり, I192年,後白河法皇の死後に は,征夷大将軍に任ぜられた。こうして鎌倉幕府が成立してから滅亡するまでの時代を鎌倉時代と呼んでいる。 幕府の支配機構は,簡素で実務的なものであった。鎌倉には中央機関として,御家人を組織し統制する( 13 ),一般政務や財政事務をつかさ どる( 14 )(初めは②公文所), ③裁判事務を担当する( 15 )などがおかれ,京都からまねいた下級貴族を主とする側近たちが将軍頼朝を補 佐した。 地方には@守護と地頭がおかれた。守護は原則として各国に一人ずつ, 主として東国出身の有力御家人が任命されて,⑤大犯三カ条などの 職務を任とし,国内の御家人を指揮して平時には治安の維持と警察権の行使に当たり,戦時には国内の武士を統率した。また在庁官人を支配 し,とくに東国では国街の行政事務を引き継いで, 地方行政官としての役割も果たした。 地頭は御家人の中から任命され,任務は年貢の徴収·納人と土地の管理および治安維持であった。それまでの下司などの荘官の多くは,新た に頼朝から任命を受けた地頭となり, 広く御家人たちの権利が保障された。 《語群》 ア,源範頼 イ,源頼政 ウ, 源頼家 エ,源義仲 オ,以仁王 カ,護良親王 キ, 高倉天皇 ク,安徳 ケ,右近衛大将 コ,太政大臣 サ,平城京 シ, 福原京 ス,養和 セ,天明 ソ,富士川川 タ,長門 チ,屋島 ツ,ーの谷 テ,問注所 ト, 政所 ナ,京都守護 ニ,侍所 ヌ,大輪田泊 ネ,大宰府 問1 下線部のの公文所の初代長官(別当)となった人物名を答えなさい。 問2 下線部3の裁判事務を担当する初代長官(執事)となった人物名を答えなさい。 問3 下線部のの守護·地頭が設置された年代を,次の中から選び記号で答えなさい。 ア,I180年 イ, 1183年 ウ, I185年 エ,1188年 問4 下線部のの大犯三カ条としてあてはまるものを,次の中からすべて選び記号で答えなさい。 ア,諸国の御家人に天皇·院の御所を警護させる京都大番役の催促 イ,大宰府の監督 ウ,謀反人·殺害人の逮捕 エ,六波羅探題で,西国の御家人の統轄 2 次の文章の(1)~(10)の下線部分は,すべて誤っている。正しい語句を下の語群から記号で選び,( A )~( E )には適当な人名·語句を書 き入れ,あとの問いにも答えなさい。 幕府政治はすぐれた指導者である源頼朝が将軍独裁の体制で運営していたが,頼朝の死後,若い( A )と(1)義朝の時代になると,御家人中 心の政治を求める動きが強まった。それとともに有力な御家人のあいだで政治の主導権をめぐる激しい争いが続き, 多くの御家人が滅んでいっ た。その中で勢力をのばしてきたのが,伊豆の在庁官人出身の北条氏である。 1203年,頼朝の妻北条(2)時子の父である( B )は,将軍の( A )を廃し,弟の(1)を立てて幕府の実権を握った。この( B )の地位は執権と 呼ばれて,子の義時に継承されたが,さらに義時は,侍所の長官であった(3)大江広元を滅ぼし,政所と侍所の別当を兼ねてその地位を固めた。 これ以後,執権は北条氏一族のあいだで世襲されるようになっていった。 京都の朝廷では, 幕府の成立と勢力の拡大に直面して,これまでの朝廷の政治の立直しがおこなわれた。その中心にあったのが後鳥羽上皇で ある。上皇は,分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめるとともに,新たに(4)滝口の武士をおいて軍事カの増強をはかるなど院政を 強化し,幕府と対決して朝廷の勢力を挽回する動きを強めた。 その中で1219年,上皇との連携をはかっていた将軍(1)が( A )の遺児(5)千幡に暗殺される事件がおきると,これをきっかけに,朝幕関係が 不安定になり,上皇は,畿内·西国の武士や大寺院の僧兵,さらに北条氏の勢力増大に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて,ついに の北条義時追討の兵をあげた。 しかし,上皇側の期待に反して,東国武士の大多数は源頼朝の妻の呼びかけに応じて結集し,戦いにのぞんだ。幕府は,義時の子(6)為朝,弟 の時房らの率いる軍を送り京都を攻めた結果,1カ月ののち,戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わり,の3上皇を配流した。これが( C )である。 乱後,幕府は皇位の継承に介入するとともに,京都には新たに( D )をおいて,朝廷を監視し,京都の内外の警備,および西国の統轄に当たら

解決済み 回答数: 1