学年

教科

質問の種類

日本史 高校生

政友本党と合同して立憲民政党を結成したとありますが、政友本党って立憲政友会とはべつですか?

5 10 5 閣となったが,加藤が病死すると,1926 (昭和元)年,憲政会総裁を継いだ若槻礼 1866~1949 ろう 次郎が組閣した。同年末には大正天皇が せっしょう 死去し,摂政の裕仁親王(昭和天皇)が 位 1926~89 即位して,昭和と改元された。 1927 (昭和2)年に若槻内閣 (第1次) が きょうこう 金融恐慌の処理に失敗して退陣すると, (→ p.339) こうけい 立憲政友会総裁の田中義一が後継内閣を 組織し,野党となった憲政会は政友本党 党を結成した。 と合同して こうして1924(大正13)年の第1次加藤 高明内閣の成立から, 1932 (昭和7)年の いぬかいつよし 五・一五事件で犬養毅内閣が崩壊する (p.346) ル者ハ、十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス。 ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シ 制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社 刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ… 私有財産 又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ、死 『官 第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシラネ三角 ( 報 』) タ 役ヲ 社產死 までの8年間,二大政党である立憲政友会と憲政会(のち じょうどう 15 が交代で内閣を組織する 「憲政の常道が続いた。

未解決 回答数: 1
日本史 高校生

この問題の答えを教えて欲しいです

10 ヤマト政権の発展右の地図を見て、下の問いに答えなさい。 「おおきみ ヤマト政権の大王を中心とする権力が拡 つくしのくにのみ 大すると, 527年に筑紫国造 ( 1 ) が右図の Aと結んで反乱をおこすなど, 地方豪族が おおむらじ 抵抗した。 6世紀初め, 大連 ( 2 )はBによ る加耶西部への支配権確立により失脚した。 ものの その後、物部氏と蘇我氏が対立した。 (1) 文中の( )に適する語句を書け。 (2) A・Bの国名をそれぞれ書け。 4 飛鳥の朝廷と文化 で、次の問いに答えよ。 ① 傍線部は西暦何年か。 (2) 傍線部は誰か。 石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村) ら盛土がなくなり, 横穴式石室が露出している。 石室の全長は約20m. 7世紀築造とされる, 一辺約50mの墳丘をもつ大型方墳。 早い時期か 高さ約8mと全国でも有数の大きさで, 蘇我馬子の墓と伝えられる。 そがのうまこ たいかかいしん 3 ①の翌年 ②に同行し、後の大化改新で ここのはかせ 同博士となった留学生と学問僧を書け。 11推古朝の政治 次の文を読んで、下の問いに答えなさい。 おおおみ もののべのもりや I 国際的緊張の中, 国内では大臣の(1)が587年に大連の物部守屋を滅ぼ ④ 傍線部は誰か。 ずい し (2) 天皇を暗殺して権力を握った。 うまやと a II 右の写真は厩戸王 (聖徳太子) 創建と される最古の木造建築物である。 若草伽 藍跡発見で, 670年の焼失後に再建された と考えられている。 厩戸王は(3) 天皇 が即位すると, (1) とともに国家組織 をつくった。 603年に(4) を定め, 氏族単位で組織を再編成した。 翌年 には豪族に役人としての心得を説き, 外交では中国との国交を再開し た。 (1) 文中の( )に適する語句を書け。 (2) 下線部aの寺院を何というか。 (3) 下線部bについて、 右の史料Ⅲ を読んで、 次の問いに答えよ。 ① 史料中のに適する語句を書け。 ② 傍線部あは何のことか。 漢字2字で書け。 (3 この史料は一般に何というか。 (4) 下線部cについて、 右の史料 ⅣV を読ん とう (5) 中国では、の滅亡後、唐が成立した。 630年に、最初の遣唐使として派遣された 人物は誰か。 高句麗 B A 加耶諸国 IV きや、云式」と、を覧て 処の天子書を日没する処の天子に致す、無 して朝貢す。・・・・・・其の国書に曰く、「日出づる。 に曰く、2を承りては必ず諦め・・・・・・ 三年、其の王多利思比孤を遣わ 二に曰く、篤く 三宝を敬ひ・・・・・・ 無きを宗と為す。 皿一に曰く、1 を以て貴と為し、ふるこ 『隋書倭国伝) 悦ばず・・・・・・。 St C 10 三 (2) 11 (1) (2) (3) 1 (4) 2 A B 1 2 3 4 ①1 2 ② 3 ① ③ 留学生 学問僧 (5)

未解決 回答数: 1
日本史 高校生

この問題の完全回答教えて頂きたいです🥲何度教科書を読んでもなかなか分からなくて、、

論述問題 [知識・技能] [思考・判断・表現] 646年の「改新の詔」 において示された 「公 地公民制」 と、 これに関連して、中大兄皇子が 664年に示した政策、 天武天皇が 675 年に示 した政策をそれぞれ説明しなさい。 なお、 時代 を追って説明するとともに、中大兄皇子の政 策についてはその要因となった出来事に、 天 武天皇の政策についてはその目的にそれぞれ 言及すること。 <10> 連処 改新の詔 (『日本書紀』、原漢文) む。 以上に賜ふこと、各差あら めよ。仍りて食封を大夫より る曲の民、処々の田荘を 連・伴造・国造・村首の所有 処々の屯倉、及び、別には臣・ の立てたまへる子代の民、 其の一に曰く、昔在の天皇等 採点の考え方 (ルーブリック) (観点1) 公地公民制とその後の政策の内容について [思考・判断・表現] [4点] 時系列に正しく表現している [3点] 時系列に概ね表現している [2点] 概ね表現している [1点] 一部を表現している [0点] 全く表現できていない (観点2) 中大兄皇子の政策の要因 [知識・技能] [3点] 出来事の名称とその結果に言及している [2点] 出来事の名称に言及している [1点] 読み取れる記述はあるが、 出来事の名称に言及できていない [0点] 全く記述なし (観点3) 天武天皇の政策の目的 [知識・技能] [3点] 国家体制に関連させて正しく記述している [2点] 国家体制に関連させて記述している [1点] 国家体制に言及できていない [0点] 全く記述なし

回答募集中 回答数: 0
日本史 高校生

至急です。 日本史の問題で ・関ヶ原の戦いの展開と結果を「東軍」「西軍」の語を使い、130字程度で説明しなさい。(p140) という問題がわからないので 回答をいただきたいです。 画像は教科書です。(p140) よろしくお願いします。

江戸幕府の成立 ごぶぎょう いしだみつなり うになった。豊臣政権の将来に危機感を持った五奉行の石田三成は, けいちょう だいみょう あいづ む ほん うえすぎかげかつ 1600(慶長5)年,家康が会津の上杉景勝の謀反を口実として諸大名をひ きいて関東に向かった機をとらえ,五大老の毛利輝元を盟主として兵を 1555-1623 もうり てるもと めいしゅ 1553~1625 せいぐん あげた (西軍)。 とよとみひでよし ひでより 豊臣秀吉の死後,その子秀頼が幼少であったことか 1593-1615 とくがわいえやす ごたいろう ら、五大老のひとりの徳川家康が大きな力を持つよ ➡p.131 1542-1616 とうぐん じゅうぐん 家康は, 従軍していた豊臣系大名の支持をえて軍を引きかえし (東軍)。 せきがはら 関ヶ原の戦いで三成らの軍勢をやぶり, 全国に対する支配権を確立した。 三成は京都で処刑され,輝元が120万石の領地を37万石に削減されるな ごく さくげん かいえき ぼっしゅう げんぽう ぽ ど,西軍に属した多くの大名は改易 (領地没収), 減封(領地削減),転封 (領地移動)などの処分を受けた。 ちょうてい せいい たいしょうぐん 1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ,江戸に幕府を開いた。 ➡p.83 えどばくふ いしん これを江戸幕府とよび, これから明治維新までの260余年間を江戸時代 ➡p.196 せ しゅう という。家康は,政権の世襲を示すため、 わずか2年後には将軍の地位 ひでただ ゆず おおごしょ を子の徳川秀忠に譲ったが,大御所と称し,政治上の実権をにぎってい 1579~1632 た。一方,豊臣秀頼は、ひきつづき大坂城にあって、秀吉の遺児として ろうじゅう うち老中など幕府の役 くにもと が国許に帰り、残りが er ばく大な費用を必要とした。 たとえば江戸時代後 かが 期の記録によると、加賀藩の行列は総勢2000人に

解決済み 回答数: 1
日本史 高校生

中世の日本社会では自力救済の行動が一般的だったが、国を治める為政者たち、特に戦国大名は私闘が連鎖・拡大し、大名間の争いに発展しないようにするため、どのように工夫したのか、本文をもとに90字程度にまとめなさい。(教科書P.115参照) 教えてほしいです。よろしくお願いします!

良, 博多など、 市が発達し おこった。特に 山(大坂)や旨み n. PREMIE 城下町が多く生 かまえて政庁と 築き、土塁や空 の家臣や商工 の中心となった。 どもさかんとな 商人による自 た。これらの 二連合し、町人15 1像 (西本願寺) 御坊古図 125 S 歴史を探る 自力救済の抑制一暴力の連鎖を断ち切るために ちょうてい 中世の日本社会には、朝廷や幕府, 寺社勢力などが並立し, 統一的な政治権力が存在しなかった。 さまざまな権力による多 様な法や裁判は,たがいに矛盾する場合すらあり,中世の人々 は、問題解決のための当然の権利として,しばしば実力行使に およんだ。 必ずしも権威や権力にたよらない、自力救済の発想 にもとづく行動である。言いかえれば, 「自分の身は自分でまも りききゅうさい しとしん る」というのが,生きるうえでの指針の一つであった。 いせい。 のほう 一方、為政者たちの視点に立つと、野放図な自力の発動をお さえこむことは,安定的な統治の構築に不可欠であった。たと いまがわ ぶんこくほう えば 戦国大名今川氏の分国法には,次のような条文がみえる。 けんか およともから 「一喧嘩に及ぶ輩 理非を論ぜず、 両方ともに死罪を行なふべ なり せいばい ・・・・・・次いで喧嘩人の成敗, 当座その身一人所罪たる上、妻 もくろく 子家内等にかかるべからす。」(今川かな目録) 前半は、喧嘩があった場合, 大名権力がその事情にかかわら ず両方を同等に死刑にするとした規定である。 これは,喧嘩の ほうふく しとう れんさ 当事者の関係者が報復行為に出て, 私闘が連鎖・拡大すること そち を防ぐための措置であった。 また, 喧嘩をおかした罪を当事者 の妻子にはおよぼさないという後半の規定は, いきすぎた連帯 責任の追及を防ぐためのものだろう。 この「いきすぎた連帯責任」 という点については、戦国大名伊 じんかい 達氏の『塵芥集」の条文も参考になる。 「人を斬り、人を殺し 候返報 (しかえし)として、同じ国 (伊達氏領 国)の者であるからといって)。 他国にて絹拘へられ、又は討たる つみ わから る事あらば, 根本犯し候罪の族 (最初の殺人を犯した伊達氏領国 たず の人間)を尋ね探り, 成敗を加ふべきなり。」 いっぺんかいろえ さんぞく ↑護衛をつけて旅する人たち (『一遍聖絵』, 清浄光寺蔵) 蓑をかぶって弓を持つ山賊の ような人々をやとい, 護衛兼道案内とする ことがあった。 これも自力で自分の身を 守る, 中世の人々の知恵であった。 ちらし定食 うれし INDING! ますま マ だけ ありえするためろ!と ↑今川かな目録 ( 明治大学博物館蔵) 伊達氏領国 A 打つ D ② 報復 かんこう 伊達氏領国の人(A)が、 何事かをきっかけに他国の人 (B) を 殺害した。 すると,当時の慣行として, (B) の関係者である他国 の人 (C) が 殺人事件とは関係のない伊達氏領国の人 (D) を, ちち 他国に拉致したり殺害したりすることがおこりえた。 もし、そ うした事態になった場合には,最初に殺人を犯した人 (A) を伊 ほうてい 達氏の法廷が処罰する, という規定である。 実は、この伊達氏の法令は、個人間の報復行為を大名間の争 いに発展させないための工夫でもあった。 なぜなら, 報復の応 おう しゅう えんじゃ 酬や私闘の連鎖に、もし戦国大名の縁者や家臣がからんでいた ら,大名どうしの戦争に発展するおそれがあったからである。 戦国大名は, 好きこのんで戦いをしていたわけではない。 な るべく戦争にならないよう、他国と同盟や婚姻関係などを結び, こんいん 大名権力 大名権力 平和の維持につとめた。 しかし, それでも戦国の動乱はつづき, ↑「塵芥集」にみられる自力救済の抑制 〈概 自力救済の抑制という課題は、次の時代にもちこされた。 念図) 他領国 masin! ①殺害 B スポン C 115

未解決 回答数: 1