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日本史 高校生

この問題の答えを教えて欲しいです

10 ヤマト政権の発展右の地図を見て、下の問いに答えなさい。 「おおきみ ヤマト政権の大王を中心とする権力が拡 つくしのくにのみ 大すると, 527年に筑紫国造 ( 1 ) が右図の Aと結んで反乱をおこすなど, 地方豪族が おおむらじ 抵抗した。 6世紀初め, 大連 ( 2 )はBによ る加耶西部への支配権確立により失脚した。 ものの その後、物部氏と蘇我氏が対立した。 (1) 文中の( )に適する語句を書け。 (2) A・Bの国名をそれぞれ書け。 4 飛鳥の朝廷と文化 で、次の問いに答えよ。 ① 傍線部は西暦何年か。 (2) 傍線部は誰か。 石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村) ら盛土がなくなり, 横穴式石室が露出している。 石室の全長は約20m. 7世紀築造とされる, 一辺約50mの墳丘をもつ大型方墳。 早い時期か 高さ約8mと全国でも有数の大きさで, 蘇我馬子の墓と伝えられる。 そがのうまこ たいかかいしん 3 ①の翌年 ②に同行し、後の大化改新で ここのはかせ 同博士となった留学生と学問僧を書け。 11推古朝の政治 次の文を読んで、下の問いに答えなさい。 おおおみ もののべのもりや I 国際的緊張の中, 国内では大臣の(1)が587年に大連の物部守屋を滅ぼ ④ 傍線部は誰か。 ずい し (2) 天皇を暗殺して権力を握った。 うまやと a II 右の写真は厩戸王 (聖徳太子) 創建と される最古の木造建築物である。 若草伽 藍跡発見で, 670年の焼失後に再建された と考えられている。 厩戸王は(3) 天皇 が即位すると, (1) とともに国家組織 をつくった。 603年に(4) を定め, 氏族単位で組織を再編成した。 翌年 には豪族に役人としての心得を説き, 外交では中国との国交を再開し た。 (1) 文中の( )に適する語句を書け。 (2) 下線部aの寺院を何というか。 (3) 下線部bについて、 右の史料Ⅲ を読んで、 次の問いに答えよ。 ① 史料中のに適する語句を書け。 ② 傍線部あは何のことか。 漢字2字で書け。 (3 この史料は一般に何というか。 (4) 下線部cについて、 右の史料 ⅣV を読ん とう (5) 中国では、の滅亡後、唐が成立した。 630年に、最初の遣唐使として派遣された 人物は誰か。 高句麗 B A 加耶諸国 IV きや、云式」と、を覧て 処の天子書を日没する処の天子に致す、無 して朝貢す。・・・・・・其の国書に曰く、「日出づる。 に曰く、2を承りては必ず諦め・・・・・・ 三年、其の王多利思比孤を遣わ 二に曰く、篤く 三宝を敬ひ・・・・・・ 無きを宗と為す。 皿一に曰く、1 を以て貴と為し、ふるこ 『隋書倭国伝) 悦ばず・・・・・・。 St C 10 三 (2) 11 (1) (2) (3) 1 (4) 2 A B 1 2 3 4 ①1 2 ② 3 ① ③ 留学生 学問僧 (5)

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日本史 高校生

すみません、他の解答がわかりません。教えてもらいたいです。お願いします

【重要用語】 げこくじょう (守護大名) 在京した守護が領国を統治させた代官。下剋上 □60 ① 戦国大名はどのような情勢のもとで登場したか。 ② 戦国大名の分国支配はどのようなものであったか。 ③戦国時代の都市にみられる特徴にはどのようなものがあったか。 の風潮の中で戦国大名に成長する者が多かった。 □12(貫高制) 土地の広さを貢の銭篇(質)で表す方法。戦 じざむらい ぐんやく 国大名は国人や地 侍を家臣とし, 貫高に応じて軍役を課した。 より 3( 〕 戦国大名の家臣団統制の方法。 有力な家臣を寄 親, 地侍を寄子として軍事力を編成した。 より □14 (分国法) 戦国大名が領国支配のために独自に発布した法 じょうえいしきもく 令。 貞永式目の影響が強く, 家臣団統制 民政関係などを規定。 5 〕 戦国大名が領国内で実施した土地調査で, 家臣 さくにん しんこく に領有する土地の面積作人収入額などを自己申告させた。 24. 戦国大名の登場 じょうかく 城郭を中心として成立した都市。 領国内の政治経済の中心。 〕 戦国大名が家臣団・ 商工業者を城下に集住させ, 70 けい やどや 詣の流行で宿屋商店が発生・発達し, 都市が形成された。 180 中世末期、浄土真宗の寺院や道場を中心に、 そ けいだい ほり の境内に発達した都市。 周囲に濠をめぐらして自衛した。 さん 〕 中世以降, 寺社の門前に発達した都市。 寺社参 大内氏 大内家書 (大内家壁書) 1439-1529 ・ 9( 除と座の特権の廃止によって, 自由な商品流通をはかった。 にちミン ○制定地(居城) 数字は制定年 領国は制定当時の推定範囲 100 貿易の根拠地として栄えた港町。会合衆 とよばれる36人の豪商の合議によって自治的市政が行われた。 室町時代、大内氏が領有し対明貿易港として繁 きつかい 吉川氏 吉川氏法 1617 いちば ) 戦国大名による商業政策。 市場税 商業税の免 11( ねんぎょうじ 栄。 12人の年行司とよばれる豪商が自治的市政を行った。 12( まちぐみ つきぎょうじ 工業者。 町組を組織し、 月行司とよばれる代表が市政を運営。 戦国大名のおもな家訓分国法 どそう さかや 京都で自治を行った土倉酒屋を中心とする商 (どくら) 一六角氏 六角氏式目 (式目) 1567 RO ・朝倉氏 朝倉孝景条々 (朝倉敏景) 【十七条/ 1471-? 武田氏 甲州法度之次第 ( 信玄家法) 1547 「凛氏) 塵芥集 1536 ◆下剋上 伝統的権威を否定し、下の者の力 が上の者の勢力をしのいでいく社 会的風潮で、一揆の高揚や戦国 大名の台頭がその例。 ◆鉱山の開発 いわみ ●石見大森銀山一大内・麗子・ もうり。 毛利 「たじまいくの ●但馬生野銀山山名・織田 かい。 ●甲斐金山一武田 けんか りょうせいばい ◆喧嘩両成敗法 家臣相互の紛争を実力による私闘 (喧嘩)で解決することを禁止し, すべての紛争を大名の裁判にゆだ ねさせることを目的に規定した。 ◆文化の地方普及 こう 応仁の乱による京都の荒廃は、公 家などの文化人を地方へ下向さ せ 京都の文化が地方に普及しな 足利学校 軍役 のりざね 1439年, 上杉憲実が再興し発展 戦国時代に「坂東の大学」とよ ばんどう ◆代表的な小京都 ●山口一大内氏の城下町。応仁 乱後,戦火を避けた公家 禅僧・学者などが来訪 文化の中心地となった。 のりふさ ●中村一関白一条教房が応仁 を避け、土佐国の荘園 向し居住して以来発展 戦国大名家臣団の構成 大名 一門・一家一族 (寄親) (寄 直 代宿老 臣老 軍 197 外と 19 そ 武将 t

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日本史 高校生

至急です。 日本史の問題で ・関ヶ原の戦いの展開と結果を「東軍」「西軍」の語を使い、130字程度で説明しなさい。(p140) という問題がわからないので 回答をいただきたいです。 画像は教科書です。(p140) よろしくお願いします。

江戸幕府の成立 ごぶぎょう いしだみつなり うになった。豊臣政権の将来に危機感を持った五奉行の石田三成は, けいちょう だいみょう あいづ む ほん うえすぎかげかつ 1600(慶長5)年,家康が会津の上杉景勝の謀反を口実として諸大名をひ きいて関東に向かった機をとらえ,五大老の毛利輝元を盟主として兵を 1555-1623 もうり てるもと めいしゅ 1553~1625 せいぐん あげた (西軍)。 とよとみひでよし ひでより 豊臣秀吉の死後,その子秀頼が幼少であったことか 1593-1615 とくがわいえやす ごたいろう ら、五大老のひとりの徳川家康が大きな力を持つよ ➡p.131 1542-1616 とうぐん じゅうぐん 家康は, 従軍していた豊臣系大名の支持をえて軍を引きかえし (東軍)。 せきがはら 関ヶ原の戦いで三成らの軍勢をやぶり, 全国に対する支配権を確立した。 三成は京都で処刑され,輝元が120万石の領地を37万石に削減されるな ごく さくげん かいえき ぼっしゅう げんぽう ぽ ど,西軍に属した多くの大名は改易 (領地没収), 減封(領地削減),転封 (領地移動)などの処分を受けた。 ちょうてい せいい たいしょうぐん 1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ,江戸に幕府を開いた。 ➡p.83 えどばくふ いしん これを江戸幕府とよび, これから明治維新までの260余年間を江戸時代 ➡p.196 せ しゅう という。家康は,政権の世襲を示すため、 わずか2年後には将軍の地位 ひでただ ゆず おおごしょ を子の徳川秀忠に譲ったが,大御所と称し,政治上の実権をにぎってい 1579~1632 た。一方,豊臣秀頼は、ひきつづき大坂城にあって、秀吉の遺児として ろうじゅう うち老中など幕府の役 くにもと が国許に帰り、残りが er ばく大な費用を必要とした。 たとえば江戸時代後 かが 期の記録によると、加賀藩の行列は総勢2000人に

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日本史 高校生

歴史総合 南、東アジアの植民地化 画像問3の、下線分③「オランダは、ジャワ島などを占拠し」に関連して、オランダはジャワ島で何をつぶしてさとうきび栽培を行わせたのか、またその結果、インドネシア国内はどのような状況に陥ったのか。 上記の問題の回答がどうしてもわからないです。 ... 続きを読む

1. インドと東南アジアの植民地化について述べた次の文の空欄に適語を補充し、 下線部に関する下の問いに答 えなさい。(教科書p59~60) 17世紀前半の(1 の領土はインドのほぼ全域に広がり、中国の清と並ぶ巨大国家であった。 特産の (2 は世界各地に輸出され、 インドに大きな富をもたらしていた。 しかし、 17世紀後半以降、 (1) の力が衰え ると、地方に独立政権が次々と現れ、 インドの統一は失われた。 この混乱の中、イギリスの (3 は、対立するフランスを追い出すと、各地の独立政権を破っていき、19世紀半ばまでにインドのほぼ全域を植民地化 した。 その間、 インドには (4 でつくられたイギリスの安価な (2) が輸入されるようになり、 ①綿の手工業は 衰退した。1857年、②シパーヒーが反乱を起こすと、 都市農村のあらゆる人を巻き込んで、イギリス支配を倒そうと する闘争、 (5 へと発展した。 これを鎮圧したイギリスは、 ムガル皇帝を廃位し、 (3) を廃止 して直接統治を始め、1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる英領(6 )を成立させた。 フランスはベトナムの植民地化を開始し、 カンボジアとラオスも合わせて、 仏領(7 )を成 立さ オランダは、ジャワ島などを占領し、インドネシア全域を勢力範囲とするオランダ領東インドを成立させ た。このような植氏位の柏木、共仏惟氏地の (8 にあった ④ タイ (シャム王国)を除き、 ⑤ 東南アジ アは欧米諸国の植民地となった。 問1. 下線部①に関連して、イギリスのインド総督は、イギリスの綿製品の普及によるインド手工業の破壊の状況を 記した報告書を、本国に送っている。 その一部を記した下の文の空欄に、適語を補充しなさい。 「その惨状は、経済史上未曽有のものである。 木綿職人の骨)はインドの原野を(白色 に染めている」 P.59. 問2. 下線部②のシパーヒーとは何か、書きなさい。 東インド会社の傭兵 P.59. 14行目 問 3. 下部③に関連して、 オランダはジャワ島で何をつぶしてさとうきび栽培を行わせたのか、 またその結果、イ ドネシア国内はどのような状況に陥ったのか、書きなさい。 問4.下線部④に関連して、近代化政策を進め、タイの独立を保った国王の名を 書きなさい。 問 5. 下線部⑤に関連して、 教科書 p60の地図3と地図4を参考に、 右の地図 (3と4を合わせた地図) に指示に従って作業しなさい。 タイ (シャム王国)の位置にタイと記入する 英領インド(ビルマ含む) : |赤で着色 英領マレー (北ボルネオ含む): |赤で着色 仏領インドシナ連邦 青で着色 オランダ領東インド : 赤・青・黒以外 アメリカ領フィリピン : 黒の斜線 チュラロンコーン王 2. ヨーロッパの日本接近とアヘン戦争に関する下の問いに答えなさい。 (教科書p 61~6267) 問1. 日本との自由貿易を求めるロシアが、蝦夷地と (蝦夷地) 長崎に送った使節の名を、 それぞれ書きなさい。 (長崎) a

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日本史 高校生

中世の日本社会では自力救済の行動が一般的だったが、国を治める為政者たち、特に戦国大名は私闘が連鎖・拡大し、大名間の争いに発展しないようにするため、どのように工夫したのか、本文をもとに90字程度にまとめなさい。(教科書P.115参照) 教えてほしいです。よろしくお願いします!

良, 博多など、 市が発達し おこった。特に 山(大坂)や旨み n. PREMIE 城下町が多く生 かまえて政庁と 築き、土塁や空 の家臣や商工 の中心となった。 どもさかんとな 商人による自 た。これらの 二連合し、町人15 1像 (西本願寺) 御坊古図 125 S 歴史を探る 自力救済の抑制一暴力の連鎖を断ち切るために ちょうてい 中世の日本社会には、朝廷や幕府, 寺社勢力などが並立し, 統一的な政治権力が存在しなかった。 さまざまな権力による多 様な法や裁判は,たがいに矛盾する場合すらあり,中世の人々 は、問題解決のための当然の権利として,しばしば実力行使に およんだ。 必ずしも権威や権力にたよらない、自力救済の発想 にもとづく行動である。言いかえれば, 「自分の身は自分でまも りききゅうさい しとしん る」というのが,生きるうえでの指針の一つであった。 いせい。 のほう 一方、為政者たちの視点に立つと、野放図な自力の発動をお さえこむことは,安定的な統治の構築に不可欠であった。たと いまがわ ぶんこくほう えば 戦国大名今川氏の分国法には,次のような条文がみえる。 けんか およともから 「一喧嘩に及ぶ輩 理非を論ぜず、 両方ともに死罪を行なふべ なり せいばい ・・・・・・次いで喧嘩人の成敗, 当座その身一人所罪たる上、妻 もくろく 子家内等にかかるべからす。」(今川かな目録) 前半は、喧嘩があった場合, 大名権力がその事情にかかわら ず両方を同等に死刑にするとした規定である。 これは,喧嘩の ほうふく しとう れんさ 当事者の関係者が報復行為に出て, 私闘が連鎖・拡大すること そち を防ぐための措置であった。 また, 喧嘩をおかした罪を当事者 の妻子にはおよぼさないという後半の規定は, いきすぎた連帯 責任の追及を防ぐためのものだろう。 この「いきすぎた連帯責任」 という点については、戦国大名伊 じんかい 達氏の『塵芥集」の条文も参考になる。 「人を斬り、人を殺し 候返報 (しかえし)として、同じ国 (伊達氏領 国)の者であるからといって)。 他国にて絹拘へられ、又は討たる つみ わから る事あらば, 根本犯し候罪の族 (最初の殺人を犯した伊達氏領国 たず の人間)を尋ね探り, 成敗を加ふべきなり。」 いっぺんかいろえ さんぞく ↑護衛をつけて旅する人たち (『一遍聖絵』, 清浄光寺蔵) 蓑をかぶって弓を持つ山賊の ような人々をやとい, 護衛兼道案内とする ことがあった。 これも自力で自分の身を 守る, 中世の人々の知恵であった。 ちらし定食 うれし INDING! ますま マ だけ ありえするためろ!と ↑今川かな目録 ( 明治大学博物館蔵) 伊達氏領国 A 打つ D ② 報復 かんこう 伊達氏領国の人(A)が、 何事かをきっかけに他国の人 (B) を 殺害した。 すると,当時の慣行として, (B) の関係者である他国 の人 (C) が 殺人事件とは関係のない伊達氏領国の人 (D) を, ちち 他国に拉致したり殺害したりすることがおこりえた。 もし、そ うした事態になった場合には,最初に殺人を犯した人 (A) を伊 ほうてい 達氏の法廷が処罰する, という規定である。 実は、この伊達氏の法令は、個人間の報復行為を大名間の争 いに発展させないための工夫でもあった。 なぜなら, 報復の応 おう しゅう えんじゃ 酬や私闘の連鎖に、もし戦国大名の縁者や家臣がからんでいた ら,大名どうしの戦争に発展するおそれがあったからである。 戦国大名は, 好きこのんで戦いをしていたわけではない。 な るべく戦争にならないよう、他国と同盟や婚姻関係などを結び, こんいん 大名権力 大名権力 平和の維持につとめた。 しかし, それでも戦国の動乱はつづき, ↑「塵芥集」にみられる自力救済の抑制 〈概 自力救済の抑制という課題は、次の時代にもちこされた。 念図) 他領国 masin! ①殺害 B スポン C 115

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