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日本史 高校生

すみません、他の解答がわかりません。教えてもらいたいです。お願いします

【重要用語】 げこくじょう (守護大名) 在京した守護が領国を統治させた代官。下剋上 □60 ① 戦国大名はどのような情勢のもとで登場したか。 ② 戦国大名の分国支配はどのようなものであったか。 ③戦国時代の都市にみられる特徴にはどのようなものがあったか。 の風潮の中で戦国大名に成長する者が多かった。 □12(貫高制) 土地の広さを貢の銭篇(質)で表す方法。戦 じざむらい ぐんやく 国大名は国人や地 侍を家臣とし, 貫高に応じて軍役を課した。 より 3( 〕 戦国大名の家臣団統制の方法。 有力な家臣を寄 親, 地侍を寄子として軍事力を編成した。 より □14 (分国法) 戦国大名が領国支配のために独自に発布した法 じょうえいしきもく 令。 貞永式目の影響が強く, 家臣団統制 民政関係などを規定。 5 〕 戦国大名が領国内で実施した土地調査で, 家臣 さくにん しんこく に領有する土地の面積作人収入額などを自己申告させた。 24. 戦国大名の登場 じょうかく 城郭を中心として成立した都市。 領国内の政治経済の中心。 〕 戦国大名が家臣団・ 商工業者を城下に集住させ, 70 けい やどや 詣の流行で宿屋商店が発生・発達し, 都市が形成された。 180 中世末期、浄土真宗の寺院や道場を中心に、 そ けいだい ほり の境内に発達した都市。 周囲に濠をめぐらして自衛した。 さん 〕 中世以降, 寺社の門前に発達した都市。 寺社参 大内氏 大内家書 (大内家壁書) 1439-1529 ・ 9( 除と座の特権の廃止によって, 自由な商品流通をはかった。 にちミン ○制定地(居城) 数字は制定年 領国は制定当時の推定範囲 100 貿易の根拠地として栄えた港町。会合衆 とよばれる36人の豪商の合議によって自治的市政が行われた。 室町時代、大内氏が領有し対明貿易港として繁 きつかい 吉川氏 吉川氏法 1617 いちば ) 戦国大名による商業政策。 市場税 商業税の免 11( ねんぎょうじ 栄。 12人の年行司とよばれる豪商が自治的市政を行った。 12( まちぐみ つきぎょうじ 工業者。 町組を組織し、 月行司とよばれる代表が市政を運営。 戦国大名のおもな家訓分国法 どそう さかや 京都で自治を行った土倉酒屋を中心とする商 (どくら) 一六角氏 六角氏式目 (式目) 1567 RO ・朝倉氏 朝倉孝景条々 (朝倉敏景) 【十七条/ 1471-? 武田氏 甲州法度之次第 ( 信玄家法) 1547 「凛氏) 塵芥集 1536 ◆下剋上 伝統的権威を否定し、下の者の力 が上の者の勢力をしのいでいく社 会的風潮で、一揆の高揚や戦国 大名の台頭がその例。 ◆鉱山の開発 いわみ ●石見大森銀山一大内・麗子・ もうり。 毛利 「たじまいくの ●但馬生野銀山山名・織田 かい。 ●甲斐金山一武田 けんか りょうせいばい ◆喧嘩両成敗法 家臣相互の紛争を実力による私闘 (喧嘩)で解決することを禁止し, すべての紛争を大名の裁判にゆだ ねさせることを目的に規定した。 ◆文化の地方普及 こう 応仁の乱による京都の荒廃は、公 家などの文化人を地方へ下向さ せ 京都の文化が地方に普及しな 足利学校 軍役 のりざね 1439年, 上杉憲実が再興し発展 戦国時代に「坂東の大学」とよ ばんどう ◆代表的な小京都 ●山口一大内氏の城下町。応仁 乱後,戦火を避けた公家 禅僧・学者などが来訪 文化の中心地となった。 のりふさ ●中村一関白一条教房が応仁 を避け、土佐国の荘園 向し居住して以来発展 戦国大名家臣団の構成 大名 一門・一家一族 (寄親) (寄 直 代宿老 臣老 軍 197 外と 19 そ 武将 t

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日本史 高校生

問2が分からないです。なんで油座は含まれないのですか?

90. 【田沼時代】 次の文章を読み、 下の問いに答えよ。 10代将軍家治の ( ① ) から老中になった田沼意次は,幕府財政再建のために商業資本を利用した。 仲間を積極的に公認することによって, 運上・(-②)などの営業税の増収を目指した。 さらに特定の 人に座を作らせ, 幕府による専売制を強化した。 また, 初の計数銀貨である(③) を鋳造して貨幣 度を金貨中心にしようと試みた。 意次は貿易にも熱心に取り組み, 長崎貿易においては (④) や依物の輸出を奨励した。 さらに (b)= 平助の意見に影響を受け, 蝦夷地の開発やロシアとの交易を計画し、(⑤)らに蝦夷地を探検させ ロシアとの交易は実現しなかった。 このほかに新田開発も試み, 商人の力を借りて( ⑥ ) 手賀沼 拓に着手したが, 完成することはできなかった。 問1 空欄 (①)~(⑥) に適する語句を答えよ。 一問2 下線部(a)について, この座に含まれないものを次から一つ選べ。 ア. 真鍮座 イ. 油座 ウ. 銅座 工. 朝鮮人参座 問3 下線部(b) について, 蝦夷地開発とロシアとの交易を主張した工藤平助の著作物を次から一つ ア. 三国通覧図説 イ. 赤蝦夷風説考 ウ. 華夷通商考 工. 経世秘策 みょうが

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日本史 高校生

すみません、答えが分かりません教えてください

1340 1320- ●ポイント 40 20. 室町幕府の成立 ① 10 JAFR MT 【重要用語】 ① 鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか。 ようりつ ほくちょう じゅりつ 基盤とし,のち足利氏に擁立されて京都に北朝を樹立した。 □12(大覚寺統 ② 天皇親政の理想をかかげた建武の新政が短期間で崩壊したのはなぜか。 へん けんむ 正中元弘の変を経て鎌倉幕府を滅ぼし, 建武の新政を実現。 □14 ( 挙兵し, 諸国の反幕軍の興起を促した。 建武の新政で重用。 新田義貞 こうき うなが 15 1305~58 鎌倉幕府の有力御家人であったが,元 ろくはらたんだい りはん 弘の変で六波羅探題を攻略し, 新政に参加。 のち離反。 60 1301~38 鎌倉幕府の御家人。 元弘の変で鎌倉を あしかがたかうじ 攻撃し幕府を滅ぼした。 建武の新政で足利尊氏と対立。 170 がわら らくしょ 〕 1334年京都二条河原に立てられた落書で, 建武 ふうし ねんかん き 新政権下の混乱ぶりを風刺した。 「建武年間記』 に収められる。 こうごん □180 1321~80 足利尊氏に擁立され持明院統から光厳 せいい 天皇のあとを継ぎ即位。 1338年尊氏を征夷大将軍に任命した。 90 よしの 〕 1336年, 後醍醐天皇が吉野に開いた大覚寺統の ・朝廷。 北朝を擁立する室町幕府と争い, 南北朝の動乱を現出。 にかいどうぜえん ) 1336年,足利尊氏が二階堂暮らに諮問し,替 鎌 倉 幕 府 ③ 南北朝の分立とはどのようなものであったか。 尊 だいかくじとう 13 (後醍醐天皇) 1288~1339 笑覚寺統から即位。 親政を行い, しん しせい 申された室町幕府の施政方針。 11 じんのうしょうとう き 中心人物。 南朝の正統を主張した 『神皇正統記』を著した。 氏 □120 こうのもろなお しゅうしゅう 氏の執事 高師直と直義の対立に始まり、尊氏の直義毒殺で収拾。 じみょういん 基盤とし、鎌倉幕府の干渉により持明院統と交代で皇位についた。 20. 室町幕府の成立 ① 建武の新政と南北朝の内乱 MARCUSKE AT ごふかくさ こうとう ちょうこうどう 後深草天皇に始まる皇統。 長講堂領を経済的 かめやま はちじょうにょいん 亀山天皇に始まる皇統。 八条女院領を経済的 かわち どう ごだいご おう 】1294~1336 河内の土豪。 後醍醐天皇に呼応して 朝 大覚寺統] 後醍醐天皇 ごむらかみ 1293~1354 後醍醐・ 後村上天皇に仕えた南朝の 文保の和談 南北朝の内乱 ただよし 1350~52年の足利尊氏と弟直義の対立抗争。尊 6 with (両統) 1迭立 後醍醐天皇吉野に移る 南関東・九州で 戦う 正中の変 元弘の変 <建武の新政 (二条河原の落書) 筑後川の戦い (菊池氏) 「持明院統」 尊氏入京、 光明天皇擁立 建武式目制定 北 室町幕府 尊氏, 一時帰伏朝 半済令 一観応の擾乱 守護大名 りょうとうてつりつ ◆両統迭立 持明院統と大覚寺統が皇位を争っ たため, 1317年幕府の仲介で文 保の和談が成立し, 両が交代で 皇位につくこととなった。 したかとき 北条高時 たかすけ 鎌倉幕府14代執権で、最後の得 宗。 内管領長崎高資に実権を握 られ、幕政を乱した。 もり ◆◆護良親王 後醍醐天皇の皇子。 父を助け討幕 運動に活躍し、 建武新政府で征夷 大将軍となるが、足利尊氏と対立 ゆうへ なかせん し失脚。鎌倉に幽閉され、中先 代の乱の時足利直義に殺害された。 いらいついか ◆建武以来追加 しきもぐ> じょうえい 建武式目は施政方針を述べたもの で, 基本法としては永式目が 用いられた。そして貞永式目の追 加や修正は、建武以来追加といわ たいへいき ぱいしょうろん 「太平記」と「梅松論」 どちらも南北朝の動乱を題材とし また軍記物語であるが、 「太平記」 は 南朝の側から,「梅松論」は足利尊 氏の側から描かれ、 好対照をなす。 〔地方〕 建武政府の職制 天皇 〔中央〕 国司・守護 ( 陸奥将軍府 鎌倉将軍府 -武者所(警備) しゃどころ 雑訴決断所 ぎつけっぱんしょ T恩賞方(思食事」 記録所(重要政

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日本史 高校生

中世の日本社会では自力救済の行動が一般的だったが、国を治める為政者たち、特に戦国大名は私闘が連鎖・拡大し、大名間の争いに発展しないようにするため、どのように工夫したのか、本文をもとに90字程度にまとめなさい。(教科書P.115参照) 教えてほしいです。よろしくお願いします!

良, 博多など、 市が発達し おこった。特に 山(大坂)や旨み n. PREMIE 城下町が多く生 かまえて政庁と 築き、土塁や空 の家臣や商工 の中心となった。 どもさかんとな 商人による自 た。これらの 二連合し、町人15 1像 (西本願寺) 御坊古図 125 S 歴史を探る 自力救済の抑制一暴力の連鎖を断ち切るために ちょうてい 中世の日本社会には、朝廷や幕府, 寺社勢力などが並立し, 統一的な政治権力が存在しなかった。 さまざまな権力による多 様な法や裁判は,たがいに矛盾する場合すらあり,中世の人々 は、問題解決のための当然の権利として,しばしば実力行使に およんだ。 必ずしも権威や権力にたよらない、自力救済の発想 にもとづく行動である。言いかえれば, 「自分の身は自分でまも りききゅうさい しとしん る」というのが,生きるうえでの指針の一つであった。 いせい。 のほう 一方、為政者たちの視点に立つと、野放図な自力の発動をお さえこむことは,安定的な統治の構築に不可欠であった。たと いまがわ ぶんこくほう えば 戦国大名今川氏の分国法には,次のような条文がみえる。 けんか およともから 「一喧嘩に及ぶ輩 理非を論ぜず、 両方ともに死罪を行なふべ なり せいばい ・・・・・・次いで喧嘩人の成敗, 当座その身一人所罪たる上、妻 もくろく 子家内等にかかるべからす。」(今川かな目録) 前半は、喧嘩があった場合, 大名権力がその事情にかかわら ず両方を同等に死刑にするとした規定である。 これは,喧嘩の ほうふく しとう れんさ 当事者の関係者が報復行為に出て, 私闘が連鎖・拡大すること そち を防ぐための措置であった。 また, 喧嘩をおかした罪を当事者 の妻子にはおよぼさないという後半の規定は, いきすぎた連帯 責任の追及を防ぐためのものだろう。 この「いきすぎた連帯責任」 という点については、戦国大名伊 じんかい 達氏の『塵芥集」の条文も参考になる。 「人を斬り、人を殺し 候返報 (しかえし)として、同じ国 (伊達氏領 国)の者であるからといって)。 他国にて絹拘へられ、又は討たる つみ わから る事あらば, 根本犯し候罪の族 (最初の殺人を犯した伊達氏領国 たず の人間)を尋ね探り, 成敗を加ふべきなり。」 いっぺんかいろえ さんぞく ↑護衛をつけて旅する人たち (『一遍聖絵』, 清浄光寺蔵) 蓑をかぶって弓を持つ山賊の ような人々をやとい, 護衛兼道案内とする ことがあった。 これも自力で自分の身を 守る, 中世の人々の知恵であった。 ちらし定食 うれし INDING! ますま マ だけ ありえするためろ!と ↑今川かな目録 ( 明治大学博物館蔵) 伊達氏領国 A 打つ D ② 報復 かんこう 伊達氏領国の人(A)が、 何事かをきっかけに他国の人 (B) を 殺害した。 すると,当時の慣行として, (B) の関係者である他国 の人 (C) が 殺人事件とは関係のない伊達氏領国の人 (D) を, ちち 他国に拉致したり殺害したりすることがおこりえた。 もし、そ うした事態になった場合には,最初に殺人を犯した人 (A) を伊 ほうてい 達氏の法廷が処罰する, という規定である。 実は、この伊達氏の法令は、個人間の報復行為を大名間の争 いに発展させないための工夫でもあった。 なぜなら, 報復の応 おう しゅう えんじゃ 酬や私闘の連鎖に、もし戦国大名の縁者や家臣がからんでいた ら,大名どうしの戦争に発展するおそれがあったからである。 戦国大名は, 好きこのんで戦いをしていたわけではない。 な るべく戦争にならないよう、他国と同盟や婚姻関係などを結び, こんいん 大名権力 大名権力 平和の維持につとめた。 しかし, それでも戦国の動乱はつづき, ↑「塵芥集」にみられる自力救済の抑制 〈概 自力救済の抑制という課題は、次の時代にもちこされた。 念図) 他領国 masin! ①殺害 B スポン C 115

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室町時代の社会と経済活動について、本文をもとに、農業の発達にはじまり、それが何の発達につながっていったのか、その連鎖の過程が分かるように、160字程度でまとめなさい。(教科書P.106~107参照) 教えてほしいです。お願いします。

106 村や都市の住人たちは、どの ようにして生活を成り立たせて いたのか、考えてみよう。 水 石山寺蔵) 水車を設けて川から田に水を引いて いる。 WA M AMA GR TW SES MAMMAS A ③肥料やり (本)」,国立歴史民俗博物館に をまいている。 IS世紀末には、朝鮮から伝わっ 木綿の栽培が東海地方で始ま り、一般の衣服の生地として使 われ、のちには布やとし ても重宝された。 日本の鋼生産は15世紀初めに復 調して海外への主要な輸出品と り 15世紀末ごろには金鉱の 開発が始まった。 16世紀前半に は朝鮮からの技術移転により、 石見銀山などでの生産が本格 【化した [p.124]。 市では主から営業を許された 市座が設けられ、 その地の領主 に税をおさめる契約をした商人 のみに、営業が認められた。 3 室町時代の社会と経済活動 ②田植えの風景(背菜風俗 東京国立博物館蔵) 村ごとに、農民がそろって田植えを 行うようになった。 第2編 中世の日本と世界 室町時代は寒冷な気候の時期が多く、 15世紀にはし ばしば深刻な凶作や飢饉にみまわれた。 そのため、 なかで おくて 稲作では、各地の気候にあわせて早稲中稲 晩稲の品種が栽培され、竿 ばつや虫害に強い東南アジア原産の米(大唐米) も導入された。西日本で だいとうまい 農業・産業の 発達 は、米・麦・そば・野菜などの三毛作が登場し、庶民の食事を豊かにし かりそうもくばい しもごえじんぶんにょう さん いりあい た。 肥料として刈敷や草木灰が一般化し、 下肥(人糞尿)も使われ始めた。 しかし、人々が共同利用していた山野 河海などの入会地では、伐採や 用水をめぐる争いもめずらしくなく, 共通の利害を持つ人々は個々の社 園をこえて地域ごとに団結して協定を結ぶこともあった。 また, 手工業 の原料として、暴・・鮭・住胡麻・麻などの栽培もさかんになった。 漁業を専門とする集団が生まれ, 揚浜式の製塩業も普及した。 15世紀 前期には、 明や朝鮮に対する輸出品として銅の需要が増えたため、新し あげはま じゅよう い鉱山が数多く開発された。 にしじん はかな とうき 京の西陣や博多の絹織物をはじめ, 麻織物 綿織物 陶器・紙・酒・ 油などの生産が進み, 刀や農具をつくる鍛冶や鋳物業などの手工業もさ かんになった。 特に15世紀後期には、大きな窯の開発に成功した備前・ びんぜん から とこなめ 越前・瀬戸・常滑などで壺や腕などの陶器が大量に焼かれ、全国 信 に出荷された。 商業・流通の 発展 産業の発達につれて商業や流通もさかんになった。 ろくさいいち 市の開催日も増え、仁の乱後には月6回の六斎市 p.110 が一般化した。都市では常設の小売店 (見世物)が増加し、特定の商品だ けをあつかう専門の市場も生まれた。公家や寺社を所とする商工業者 の座も種類や数が増加し,一定地域内での仕入れ・販売の独占権や、領 内での関鈍免除の特権などを本所からあたえられた。 p101 産業や商品流通の発達とともに, 貨幣の流通もさかんになった。13世 せんのう だいせんのう 紀末から, 荘園では年貢の銭納化 (代銭納) が進み, 年貢にかわる銭をえ るために荘園の市場で作物が売却された。 逆に荘園領主は,納入された ばいきゃく たんせん むなべつせん きか によって、必要な商品を市場で購入できた。 また, 段銭棟別銭, 茜 土倉役など、銭納の税も一般化した。 ただし、宋銭や明銭などの渡来銭はつねに不足し、長期の使用による 破損もはげしかったため, 中国福建や日本各地で模鋳された銭が れつあく えりに 利用され始めた。 もっとも,それらの多くは劣悪な銭で, 撰銭 ( 銭の選 だいみょう。 6 別の対象となったので、 商取引が渋滞した。 そこで幕府や戦国大名は, くりかえし撰銭令を出して混乱をおさめようとしたが, 劇的な効果は望 めなかった。 また, そもそも銅銭は重くて運びにくく、 価値も一定しな かわし さいふ かもと やましろ いたくはんぱい。 かったので、為替や割符を用いた代銭納が好まれるようになった。 商品の輸送がさかんになるにつれて, 交通網も発達した。 近江国の大 津・坂本, 山城国の鳥羽・淀など交通の要地で, 馬借など運送業者が活 躍した。 物資の保管や委託販売を業務とする問(問丸) は, 馬借を支配し、 卸売り・運送や商人宿をいとなむ問屋に発展した。 幕府や公家・寺社は, 収入を増やすために多くの関所を設け、 商売物に税(関銭や津料)をかけ ることもあった。 といいま とい せきしょ ⑤機織り 喜多院蔵) 綿布は、 初 , めは朝鮮や中国から輸入されたが, 15世紀末に は、三河地方で綿花が栽培され、 綿織物業も各地 で発達するようになった。 うたあわせ ⑥ 大鋸引き(「三十二番職人歌合』 サン トリー美術館蔵) 大鋸は二人がかり で引く銀であり, 明から伝わったと される。 16世紀の室町通商店街のにぎわ い (「洛中洛外図屏風(上杉本)」 米沢市上杉 博物館蔵) 室町通りは南北に走る. 商家が建ちならぶ目抜き通り。 中央 に都で有名な烏帽子屋がある。 近郷 からの出稼ぎ農民が、 商家の屋根を ふきかえている。 西日本の10余か国に対明用の油 の専 MASTES NUE 油座は, 属し, 石清水八幡宮を本所とし た。 海路や陸路を通じて運ばれ た原料(荏胡麻) から灯油をつく り, 京都の公家や寺社, 各地の 問屋などに販売した。 流通貨幣(一文銭)の種類を限定 したり、 銭貨間の交換比率を定 めたりした。 ⑥ その結果, 銭の現物そのものは 現地に滞留し、しだいに各地で 流通の基準となる特定の銭が選 | 好されていった。 たとえば, 関 丸いらくつうほう 東では永楽通宝、九州では洪武 ■通宝が高い評価をえた。 ① FOLL 3 8t 第3章 ⑦ 明銭と造 明銭の① 洪武通 宝や②永楽通宝などが輸入され, そ れまでの宋銭などとともに1枚1文 として流通した。 日本 中国を問わ ず 民間の模造銭がさかんにつくら れ、日本では, 枝つきの③鋳造銭が 確認されている。 中世社会の展開 107

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