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世界史 高校生

インドの古典文明の単元の質問です。空欄の問題が全て分からないので教えて頂きたいです。

8 第2章 南アジア世界と東南アジア世界最大8 1 インド文明 (1) 15001 JO 1. 次の文中の空欄 ~ ①アーリヤ人がパンジャーブ地方に来住したのは前1500年ごろのことであるが, それ以前に, インドではインダス文明と呼ばれる都市文明が形成されていたことが, シンド地方 (インダス川 下流)の都市遺跡 a ■などの発掘から明らかになっている。 インダス文明のにない手はいまだ 不明であるが, インダス文字の研究から、 ②現在南インドに居住する人々との関係が注目されつ つある。 前 1000年ごろ, ガンジス川流域に進出したアーリヤ人は鉄器を使用して生産力を高めたが, このころからアーリヤ人の階層分化も進み、 b (種姓) とよばれる③四つの基本的身分が成立 した。 カースト制度はこれを大枠として発達したものである。最上位のバラモンが司る宗教をバ ラモン教とよぶ。 前7世紀ごろには, ガンジス川流域に多数の小王国が生まれ、農業や商工業も大きく成長した が,こうした社会の変化の中から, 祭式万能のバラモン教に対する反省や批判も生じた。 バラモ ンが中心となって編纂した④梵我一如を説く哲学書の影響を受けて、 cを開祖とするジャイ ナ教, ガウタマシッダールタを開祖とする仏教など新しい思想・宗教が創始され, 全インドに広 まっていった。その後インダス川流域では小王国の統合が進み,前5世紀にはd 国が最も有 力となった。 前4世紀後半, e が西北インドに侵入すると, これに刺激されてインドでは f を都と するマウリヤ朝が成立した。 マウリヤ朝はギリシア勢力を駆逐するなどして勢力を拡大し,第3 代アショーカ王のころには南端部を除く全インドを支配下においた。 アショーカ王は仏教に帰依 して⑤人間の普遍的な倫理に基づく政治をこころざし, 仏典の編さんやgなど辺境への布教 を支援した。 ASTA303) 「マウリヤ朝が衰退したのち、西北インドには1世紀にクシャーナ朝が成立し、2世紀 h 王の時には、都の i を中心に中央アジアからガンジス川中流域までを支配する大国となっ た。このころ大乗仏教がひろまり, またギリシア美術の影響を受けた j 美術が生まれ, 仏 像の制作が始まった。 or for thế này thế nà 〔語群] (ア) マガダ (イ) ジャーティ (ウ) コーサラ (エ) アレクサンドロス (オ)カエサル (カ) プルシャプラ (キ)パータリプトラ (クハラッパー (7) モエンジョ=ダーロ (コ) カニシカ (サ) チャンドラグプタ (シ) ヴァルナ (2) ガンダーラ (セ) スリランカ (セイロン島) (ソ) ドーラヴィーラー (タ) ヴァルダマーナ (チ) バクトリア モーヤ 問1 下線部①について, このころまとめられた祭式の詠歌詞や呪法を集めた「神々への讃歌 「集」のうち,最古のものを何と呼ぶか 2 下線部②について, これはどのような人々か。 「~系」 のように答えよ。 問3 下線部③について, これらのうち、王侯 戦士身分を何というか。 下線部④について,この哲学書を何というか 問4 問5 下線部⑤について, この概念をインドでは何というか。 IT キ 問1~5に答えよ。 にあてはまる語句を下の語群から選び、 b a f g 問1 リグ=ヴェーダ 問4 ウパニシャット哲学 セ AN C h コ 問2 ドラヴィダ系 問5 ダルマ d i ロ Kredie IM ti j 問3 クシャトリヤ

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世界史 高校生

今日世界史Bの授業があり、画像の教科書の内容をプリントにまとめなきゃいけないのですがなんてまとめればいいかわかりません、教えてください。 まとめ、ポイント、感想

チベット (9世紀後 3 2 ィ4 て 人人生績 19ookm 9 南アジア・東南アジアの植民地化と社会変容 交易から植民地支配へ ムガル帝国が宜退し地方勢力が台頭するなが 王り東季才会福 を支配下に入れて植民地統治機関に変貌だ 0 ョーロッパでは17世紀後半以降。 INの織物が流徒U その 対価として大量の銀がインドにもたらされた』インドでは商下業が発 朝が 展し. 村民地都市をはじめとする浴市だけでなく, 内障部の地方者 尼し ュ $此※した。それによって各地の地方勢力は経済基般を回め』 軸調 が進 ングゼーゾの死後, ムガル帝国はこれら地方勢力の自立化によって事 2 実上解体してゆき。 皇帝は名目的な存在になうつでいった。 ォランダ・フランスス・有ギリ スの各勢力は, 17世紀半ばから地方勢 7 カと手を組みつつ) 商業権をめぐって抗争した。 をのHGでIU2人8還 にプラッシーの戦いで 天 優位にたった大東秦ド会社は! 1757生 フランスと同盟したベンガル示守軍を破った。 その後も評護認 *おもな地方勢力を撃破し。セイロ 名・マラータ戦委・和グ昌争などでおもな人 6 リス東インド会社は南アジアの大半 ン委もオランダから礁っで: %dN と民地としだ。一部の王国を落固として存続させ。それ以外をべ 2 ンカル・マドラス・ポボンペイの3管区に分けて直接治した2 このころイギリ ス本国は自由貿易の時代に向かっており。 19世紀に 、。とイギリス東インド会社の質史独占んは次々と廃正れ1833 には多活動そのものの停上が決定された。プラッシーの戦いのの iwami 5ょうぜい 。 765年に。ペベンガルなどで半証証(絞欄を佐得したこ とをきっかけに, 東インド会社は領土(植民地)支配の機構を急速に整 NN の人鈴 商写3写。 人①プラッシーの戦い フランスが支援 したペンガル太守とイギリスとの間の了戦 争。この戦争に勝ったイギリスは|自分 たちに区対的なペンガル天守を廃しで征 順な者を太守に狂立することに成功した。 図は新太守がイギリス軍クライヴに祝訪 を伝えているようす(一p.178) で②南アジアの植民地化 ムガル負還の計退南 アジアァではイギリスによる 諸 村民地化が進み。経造 較 が変化して, 文化・社会面 でも複雑な動きが起こった。還 また, 20世紀初頭までに タイを除く東南アジア全域 が植民地にされた。 畔出品 の生産と。 その基台整備の ための近代化が行われ。経 済・社会の構造が激変した。 とよばれた (南 カットに申来)

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