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数学 高校生

数学Ⅱの青チャート基本例題242の問題なのですが、下の大きな青括弧で囲っているすぐ後の1/2がどこから出てきたのかわかりません😭 わかる方いたら解説お願いします😢

370 8/5 (1)0 (2)×12の出所が分からん… 00000 2 を中心とする円Cが異なる2点で接するとき 基本例題242 放物線と円が囲む面積 放物線:y=x" と点 R ) (1) 2つの接点の座標を求めよ。 (2) 2つの接点を両端とする円 C の短い方の弧とLとで囲まれる図形の面積S を求めよ。 指針 (1) 円と放物線が接する条件を p. 156 重要例題 102 では 接点 重解で考えたが、 ここでは微分法を利用して,次のように考えてみよう。 LとCが点P で接する RP (2) 円が関係してくる図形の面積を求める問題では, 扇形の面積を利用することを考え るとよい。 半径が 中心角0 (ラジアン) の扇形の面積は 2122²0 点と点P(t, t2) を通る直線の傾きは 4t²-5 4t 解答 (1)y=x^から y'=2x LとCの接点Pのx座標をt (t=0) とし, この点での共通 の接線をl とすると, lの傾きは 2t t=± 練習 ③242 を共有する 点Pで接線l 2 -x²dx 5 4 t-0 t²_. RPl から 2t・ √3 よって ゆえに、接点の座標は 2 (2) 右図のように, 接点A,Bと点Cを定めると, RC:AC=1:√3 から ∠ORA= Lと直線AB で囲まれた部分の面積を1とすると S=S+RBA(扇形RBA) 3 =-1 ゆえに2= 4 = 201² (4-²) + [f-1²-²0 } }r}: 1².sin 2 √3 --S² g(x + 4 X²-¹²-²² + + - √³)(x-√3 √√√3 TC x+ dx 2 4 3 [類 西南学院大 ] 4t²-5 4t 5 RA=1/3.RA-2.(1/4-2)=1 でっから出てきた? π --(-1){ 4³ -(-4³)² + 43³ - 33/3-7 √3 √3 π 3√3 π = B (3.3). (-33) 2 2 B B y 基本237 √3 O 4 R 12P 15 2 5 YAL(y=r) 4 R t 10 CA 21 0 √3 2 (22/0 2 R ĐẢO P 放物線y 分される 針の はS この 条件 CHAR 解答 放物線y= -x(x-2 ゆえに 放物線C:y=212x上に点P(1.212) をとる。x軸上に中心をもち点Pで数 物線に接する円とx軸との交点のうち原点に近い方をBとするとき、円弧BP (短い方)と放物線Cおよびx軸で囲まれた部分の面識 よって 放物線と それぞれ S= = S= ①求める ゆえに って と L₂

未解決 回答数: 1
現代文 高校生

この問題の答えを教えてください🙇‍♀️

Since 1994 N TURITORY 【二】 次の文章は、小池昌代の随筆「道について」の一部である。後の問いに答えよ。 (30点) 知っている道に出たときの、あの不思議にほっとする、あたたかい感じ。わたしたちはどんなに大人になっても、身体の奥に、迷子に なることの恐怖をかかえて生きているのではないだろうか。 しかしどんな道も、いかなる町も、生きているひとと知り合うのに似て、少しずつ、だんだんと、なじんでくるものだ。 町の構造がようやく身体に入ってきたころ、「近道」とか「遠回り」というガイネンも入ってきた。 目印だけを頼りに通っていた道が、 案外回りであることがわかったり、思い切って足を踏み入れてみた小路が、思いがけぬところへ抜けていたり。 道を歩くことは、こ うして全身をかけて土地を切り開き、土地にもぐりこみ、土地になじんでいく行為にほかならなかった。 知らない道が見知らぬ場所へひとを誘うのは当たり前だが、知っている道が見知らぬ場所にひとを運んだり、知らない場所がよく知る 道に通じていることを知ることには、いつもささやかな感動がある。 1 道には知っていることと知らないことを結びつける機能が備わってもいるようだ。知っていることを伸ばしていけば、知らないところ へ出る。 知らないものを伸ばしていくと、知っている道に出る。 外国に旅に出ると、特に一人旅では、こういうことは明瞭に起こる。 言葉の不自由さに加えて、土地そのものからはじかれている感じ は、ひとを二重に異邦人にするが、それでもひとつの道が次第に親しい道になっていき、日々、見知らぬ場所へとひとを運び、再び宿へ とひとを戻すとき、その道はひとにとって、水や塩に等しい、命をつなぐ脈ともなる。 そうした道に付けられてある通りの名前を知った りすると、道は、いつでも記憶のなかに呼び出せる、親しい友のような表情さえ表す。 初めての道に足を踏み入れるときは、いつも身体に緊張が走るが、すべての道は、二度目に通るときから、「知っている道」になるこ とも面白い。当たり前のことだが、そのことはうれしい。 二度目に通るとき、ひとは、今の道と記憶のなかの道の、二つの道を同時に歩 くのだ。 以前、わたしの友人に、新しい記憶ほど剥がれ落ちてしまうという記憶障害を持っているひとがいた。そのせいなのだろうか、彼は何 度来ても、わたしの家へたどりつけない。 わからなくなったと、途中で電話が入る。 障害のことをそのとき知らなかった。そのたびに駅 まで迎えに行って、目印になるものを教えながら歩いたが、ついに、ひとりではやってくることができなかった。 わたしの祖母の呆けも、自分の家に帰れなくなったところから始まっている。 祖母も友人も、どれほどに自分がもどかしく、ふがいなく、心もとなく、不安だったことだろう。あのときは、ただ困った状況として とらえるだけで、彼らの不安そのものには目が向かなかった。 行きたい場所へ、行き着けないいま思うと、彼らの不安は、わたしの不安そのものに思える。 不安はすべて、未来を先取りした途 上に生まれ、その意味で、生きることはそのまま丸ごと、「不安」そのものだ、とわたしは思う。 子供のころ、迷子になったことがある。 夏の朝、家の前の道を、ひとりでずんずんと進んでいった結果、とんでもないところへ出てし まったのであった。 気がついて見回した町並みは自分のまったく見知らぬ場所である。見知らぬひとが歩いている。 見知らぬ自転車がとまっている。 自分 で勝手に歩いてきただけなのに、自分の帰るべき根元のようなものが、ぷっつんと音をたてて切れてしまったようだった。 遠心力のよう な透明な力によって、リフジンに道端に捨てられたような気がした。 わたしは、ひとりだった。 あたたかい共同体からはじきだされて。 こん棒で胸をつかれたような、激しい悲しみの感情がわいた。 わたしは大声をあげて、泣いたのではなかったか。 今でも遊園地やデパートや公園などで迷子のアナウンスがなされると、その子供の不安が自分のなかで、同じくらいの大きさにふくら んでしまう。きっと誰かが迎えに来てくれるに違いないと思うが、そうしたアナウンスは、見つかりましたという結果までは流さない。 とっ さに脳裏に浮かぶのは、親から見捨てられた、永遠の迷子としての子供のイメージである。 それが自分のなかの悲しみのようなものと共 鳴する。 ここはどこ? すべての迷子は、まずその疑問に射抜かれている。いつも暮らしている場所にいるとき、わたしはそんな質問をもった ことがなかった。自分が生きている場所を見失う不安、それは自分自身を見失う不安のことなのかもしれない。 ここはどこ? というひ とつの疑問は、わたしはだれ? という次の疑問を容易に呼び出しそうな気配を持っている。 しかし、わたしは、自分が迷子になったあのときの、ひりひりとした、 異様に新鮮な不安を、大人になった今、時々、味わいたいと思 & e 1

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