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日本史 高校生

中世の日本社会では自力救済の行動が一般的だったが、国を治める為政者たち、特に戦国大名は私闘が連鎖・拡大し、大名間の争いに発展しないようにするため、どのように工夫したのか、本文をもとに90字程度にまとめなさい。(教科書P.115参照) 教えてほしいです。よろしくお願いします!

良, 博多など、 市が発達し おこった。特に 山(大坂)や旨み n. PREMIE 城下町が多く生 かまえて政庁と 築き、土塁や空 の家臣や商工 の中心となった。 どもさかんとな 商人による自 た。これらの 二連合し、町人15 1像 (西本願寺) 御坊古図 125 S 歴史を探る 自力救済の抑制一暴力の連鎖を断ち切るために ちょうてい 中世の日本社会には、朝廷や幕府, 寺社勢力などが並立し, 統一的な政治権力が存在しなかった。 さまざまな権力による多 様な法や裁判は,たがいに矛盾する場合すらあり,中世の人々 は、問題解決のための当然の権利として,しばしば実力行使に およんだ。 必ずしも権威や権力にたよらない、自力救済の発想 にもとづく行動である。言いかえれば, 「自分の身は自分でまも りききゅうさい しとしん る」というのが,生きるうえでの指針の一つであった。 いせい。 のほう 一方、為政者たちの視点に立つと、野放図な自力の発動をお さえこむことは,安定的な統治の構築に不可欠であった。たと いまがわ ぶんこくほう えば 戦国大名今川氏の分国法には,次のような条文がみえる。 けんか およともから 「一喧嘩に及ぶ輩 理非を論ぜず、 両方ともに死罪を行なふべ なり せいばい ・・・・・・次いで喧嘩人の成敗, 当座その身一人所罪たる上、妻 もくろく 子家内等にかかるべからす。」(今川かな目録) 前半は、喧嘩があった場合, 大名権力がその事情にかかわら ず両方を同等に死刑にするとした規定である。 これは,喧嘩の ほうふく しとう れんさ 当事者の関係者が報復行為に出て, 私闘が連鎖・拡大すること そち を防ぐための措置であった。 また, 喧嘩をおかした罪を当事者 の妻子にはおよぼさないという後半の規定は, いきすぎた連帯 責任の追及を防ぐためのものだろう。 この「いきすぎた連帯責任」 という点については、戦国大名伊 じんかい 達氏の『塵芥集」の条文も参考になる。 「人を斬り、人を殺し 候返報 (しかえし)として、同じ国 (伊達氏領 国)の者であるからといって)。 他国にて絹拘へられ、又は討たる つみ わから る事あらば, 根本犯し候罪の族 (最初の殺人を犯した伊達氏領国 たず の人間)を尋ね探り, 成敗を加ふべきなり。」 いっぺんかいろえ さんぞく ↑護衛をつけて旅する人たち (『一遍聖絵』, 清浄光寺蔵) 蓑をかぶって弓を持つ山賊の ような人々をやとい, 護衛兼道案内とする ことがあった。 これも自力で自分の身を 守る, 中世の人々の知恵であった。 ちらし定食 うれし INDING! ますま マ だけ ありえするためろ!と ↑今川かな目録 ( 明治大学博物館蔵) 伊達氏領国 A 打つ D ② 報復 かんこう 伊達氏領国の人(A)が、 何事かをきっかけに他国の人 (B) を 殺害した。 すると,当時の慣行として, (B) の関係者である他国 の人 (C) が 殺人事件とは関係のない伊達氏領国の人 (D) を, ちち 他国に拉致したり殺害したりすることがおこりえた。 もし、そ うした事態になった場合には,最初に殺人を犯した人 (A) を伊 ほうてい 達氏の法廷が処罰する, という規定である。 実は、この伊達氏の法令は、個人間の報復行為を大名間の争 いに発展させないための工夫でもあった。 なぜなら, 報復の応 おう しゅう えんじゃ 酬や私闘の連鎖に、もし戦国大名の縁者や家臣がからんでいた ら,大名どうしの戦争に発展するおそれがあったからである。 戦国大名は, 好きこのんで戦いをしていたわけではない。 な るべく戦争にならないよう、他国と同盟や婚姻関係などを結び, こんいん 大名権力 大名権力 平和の維持につとめた。 しかし, それでも戦国の動乱はつづき, ↑「塵芥集」にみられる自力救済の抑制 〈概 自力救済の抑制という課題は、次の時代にもちこされた。 念図) 他領国 masin! ①殺害 B スポン C 115

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進路えらび 高校生

進路についての相談です。 今後の進路について、考えている進路が3つあります ①日本大学生産工学部数理情報工学科に進学する ②一浪して明治大学総合数理学部現象数理科を目指す ③日大で仮面浪人して明治に行く(入学前から仮面浪人すると決めるのは良くないと思っていますが…) の3つ... 続きを読む

数理情報システムコースのカリキュラム 共通科目 ※2コースのみ 数理情報 システム コース 生産工学系科目 専門工学科目 実技科目 専門工学科目 実技科目 1年 キャリアデザイン プログラミング及び 演習 Ⅰ コンピュータ概論 離散数学 プログラミング及び 演習 II キャリアデザイン演習 技術者倫理 アルゴリズムとデータ構造 確率統計解析 情報メディア 線形空間論 応用解析学 オブジェクト指向及び演習 情報化社会と情報倫理 アルゴリズムとデータ構造演習 UNIX 演習 モデリング&デザイン 数理計画法 複雑系と創発 2年 数理情報システム実験 ソフトウェア構築及び演習 コンピュータアーキテクチャー オートマトン メディア数理 ソフトウェア工学概論 データベースシステム オペレーティングシステム 計算論 システム解析 ダイナミックス 生産実習 プロジェクト演習 経営管理 情報ネットワーク 人工知能 ゼミナール 数理情報工学演習 数値シミュレーション 組合せ最適化 幾何学 カオスと情報処理 3年 生産工学特別講義 産業関連法規 SD コミュニケーション 計測と制御 多変量データ解析 意思決定システム 安全工学 生産管理 コンパイラ 卒業研究 14 年 コンピュータグラフィックス

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物理 高校生

明治大学理工学部2007の物理大門Cです イの答えが理解できません。解説していただきたいです。

図のように、ピストンをはめた2個の円筒容器が細い管でつながれ, 鉛直に立 てられている。左側の容器は, 断面積が S」 であり、ピストンの質量は M, であ る。右側の容器は, 断面積が S2であり,ピストンの質量は M2である。右側の 容器の底には弁が付けてあり,そこから容器内に水または気体を導入できる。左 側の容器の底近くにはヒーターが取り付けてあり,2個の容器内部全体を加熱で きる。この装置に使われている材料は, すべて, 無視できる熱容量を持ち, ま た,熱を通さない。重力の加速度の大きいをg,気体定数をR, 大気の圧力を poとして答えよ。 はじめに,2個の容器を水で満たした。すると,図(a)に示すように, 左右のピ ストンは,それぞれ底から高さ h」およびh,の位置で静止して, h」<haとなっ た。このとき, 左側のピストンが水から受ける圧力は ア である。そし て、M」とM:の間には, イという関係がある。 次に,水を容器内から排出して, 右側のピストンの上に質量Mのおもりを 乗せ,容器内をnモルの単原子分子理想気体で満たした (図 b))。すると,2つ のピストンは底から等しい高さhのところに静止した。このときの気体の温度 はTであった。2個の容器をつなぐ細管や弁につながる細管の体積を無視す ると,h= ウ である。また,右側のピストンに乗せたおもりの質量は M = エ である。ここで,ヒーターに電流を流して,気体をゆっくりと tn執1た その結里 気休の担確け 1Tだ1+レがれ のHの ラ

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世界史 高校生

この問題の答えが分かる方、お願いします!! 分かるものだけで大丈夫なので教えてください。

7章 アジア諸地域の繁栄 83 44 演習 問題>>>>>> 1 [ティムール朝とサファヴィー朝 (12 明治大学より作成) 1 現在のイランにあたる地域は政治的には極めて複雑な歴史をたどっている。7世 問10 紀以降,イスラーム諸王朝の支配下にあったが,13世紀にはモンゴル人の勢力がお 2 よび,(O)国の支配下にはいった。(①)国ではその後イスラーム教が国教に定めら れ,そのもとでイラン=イスラーム文化が繁栄した。しかし14世紀にはこの国も分 3 裂して衰退し,代わって。ティムール朝がこの地を支配することになった。ティ の b彼の死後,帝国 5) a ムールは中央アジアから黒海沿岸にいたる大帝国を建設したが、 は次第に分裂し,最後は(②)人に滅ぼされた。 16世紀にはいると,イスマーイール1世がこの地に(③)朝を建国した。この国は, 6 シーア派の中でもとくに(④)派を国教とし,オスマン帝国と争った。(6)の時代 に最盛期を迎え,高度な文化を発達させた。また1622年に(6)をポルトガル人から問2a 奪回するなど,領土の確保にも努めた。しかし18世紀なかばにアフガン人に首都を b 攻略され,この王朝は滅亡した。 C 問1 文中の空欄0~6に適語を入れよ。 下線部a~cについて次の各問いに答えよ。 この王朝の首都はどこにおかれたか。 これによりティムール朝はどこへの遠征をとりやめることになったか。 c「世界の半分」とたたえられた,この時代の首都はどこか。 問2 a b 2 [オスマン帝国の隆盛1] オスマン帝国の建国者はオスマン1世である。彼は,(①)朝崩壊後の混乱に乗じ 問10 てアナトリア西部に自立し,オスマン帝国初代君主となった。14世紀なかば以降, オスマン帝国はバルカン半島に進出し,1366年に(2) (現在のエディルネ)を首都に した。1396年,(③)はニコポリスの戦いでバルカン諸国とフランス·ドイツなどの ③ 連合軍を撃破したが,その後,小アジアに進出した(④)と衝突し,1402年(5)にお いて大敗を喫した。しかし国力を回復させた(6)は,1453年にコンスタンティノー プルをおとしいれ,ついに(7)帝国を滅ぼした。このときコンスタンティノープル に首都が定められ,以後(8)の呼称が一般化した。 その後,第9代スルタンの(9)は,新興のサファヴィー朝を破った後シリアに進 出し,1517年には(10)朝を滅ぼしてエジプトを併合した。その結果,それまで(0) 朝の管理下にあった両聖都(メッカ·メディナ)の保護権を手に入れ, 以後オスマ ン帝国のスルタンは,カリフ政治の後継者として(D)派イスラーム教を守護する中 心の存在となった。 第10代スルタンの(12)の時代にオスマン帝国は最盛期を迎えた。彼はサファ ヴィー朝から南イラクを奪い,北アフリカにも支配を広げたばかりでなく,ハンガ リーを征服し,1529年には(13)を包囲して,ヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた。 さらに,1538年には(0)の海戦でスペイン·ヴェネツィアの連合艦隊を破り,地中 海の制海権を手中にした。 文中の空欄の~のに適語を入れよ。 2 (12 愛知工業大学より作成) 2 4 5 6 の 7 8 9 章 0 12 13 問1

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