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日本史 高校生

もうすでに任那は磐井の乱の前に百済にあげちゃってるのに 磐井の乱で新羅が任那取ろうとしてて、日本も奪われたくない(自らの影響力がなくなってしまう)と書いてますが、日本は大伴があげちゃってるので奪われたくないとかなくないですか?

第3章 / 第1部 6世紀の政治 3 蘇我氏の台頭と滅亡 6世紀前期 のか?」ということですね。さっそく、そこからお話ししていきま |継体天皇 す。 大伴金村 加耶四県 百済 (512) 継体天皇と大伴氏 磐井の乱 (527) P.062表 1-A 東進金谷本 9 けいたい えちぜん 6世紀前期の主な天皇は、継体天皇です。 しかし、継体天皇は、自 分がまさか天皇になれるなんて思ってもいませんでした。 継体天皇 の実像は謎に包まれていますが、一説には天皇になる前は越前(福 井県)に住んでいたといわれています。天皇の親戚ではありました が、非常に遠い親戚だったため、天皇候補とはまったく無縁の生活 をしていたようです。 しかし6世紀初頭に、 武烈天皇が亡く なります。 武烈天皇には後継者がいませ んでした。 このままでは、 天皇家は断 絶、つまり終わってしまうかもしれない という危機に直面します。 その時、 大伴 かなむら 村 金村* が越前から後の継体天皇を連れて きて、 天皇の地位につけたのです。 ド うむ。 継体天皇にとっては、大伴金村のおかげで天皇になれたわけで す。 ですから当然、 大伴金村を大事にします。 天皇家としても、天 皇家が断絶してしまうかもしれない危機が救われたわけですから、 大伴金村を大事にしないわけにはいきません。その結果、大伴金村 は絶大な権力を握ることになったのです。 大伴金村が絶大な権力の持ち主だったことを象徴する事件。 それ かや よんけん くだらかつじょう が、12年の加耶四県の百済割譲です。 朝鮮半島南部の加耶が日本 と密接な関係にあったのは、 第2章でやりましたね。 あ、ちなみに ごうぞく *大伴金村:5世紀末~6世紀前半ごろのヤマト政権の豪族。 「日本書紀」によると、武烈・ 継体・安閑 おおむらじ きんめい。 欽明各天皇の大連を務めた。 欽明朝に入ると蘇我氏の台頭などのために勢力を失 深掘 にほんしょき 『日本書紀』 では加耶諸国を総称して「任那」 って呼んでいました。 でも、今 「は「任那」といえば加耶の南部にあった国を指すことが多いです。ややこ しいですね。いずれにせよ、加耶は日本の影響力が大きく及んでいた地域 そんな日本が影響力を持っていた加耶南部 の地域を、朝鮮半島の百済にあげてしまった のです。これは、大伴金村の指示でおこなわ れたといわれています。 自分の意思で他国に 自国の勢力圏を譲ってしまうほどに、 大伴金 村の権力は強かったわけです。 ここには大き な賄賂が働いたともいわれています。 でした。 でも、そんな勝手なことをしていたら、ほかの豪族だって黙って見過ご すわけにはいきませんよね。 大伴金村は、540年にこの加耶四県割譲は失 おこし 「政だと物部尾輿らに批判されて失脚してしまいます。 なぜ、絶大な権力を 誇っていた大伴氏が、物部氏に批判されて失脚してしまったのか? それ は、とある事件が関係しています。 いわい 大伴氏の権力がかげりを見せることになった事件が、 527年の磐井の乱 * つくしのくにのみやつこ しらぎ です。 磐井は筑紫国造、 つまり九州の大豪族でした。 しかし、この磐井、 ヤマト政権に不満を持っていました。 九州の大豪族である自分が、 ヤマト 政権なんかに服属することは、面白くなかったわけです。 その磐井に目を つけたのが、朝鮮半島の新羅という国です。 新羅は、磐井に対して 「ヤマ ト政権に反乱をおこそうよ。 新羅も味方するから」 と磐井をそそのかすわ けです。それでは、 なぜ、新羅はこのように磐井をそそのかしたのでしょ うか? * 磐井の乱: 527年に近江毛野が6万の軍を率い、 加耶におもむき新羅に破られた南加羅・喙己呑を復興しようと 磐井が、新羅の賄賂を受け火・豊2国に勢力を張って毛野の軍を遮断したためおこった。物

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日本史 高校生

ここの練習問題、空欄補充教えていただけないでしょうか?

人物関係図 【資p.471】 furt 欽明 無私心 磐井が 572 防いだ 敏 敏達 ヤマト 園× 守屋 × 明 587 (馬子 362 ED 羅に1 され 《練習問題》 正誤判断 87 崇峻 52 古 6世紀の国内の動き ア 大伴金村は継体天皇を擁立し権力を握ったが、6世紀の朝鮮半島経営の失策や反乱鎮圧の 失敗で失脚した。 イ 筑紫国造磐井は百済と結託し、 反乱を起こした。 ウ推古天皇は豪族を官僚として編成するするため官位相当の制を定めた。 エ隋書倭国伝にみえる 「日没する処の天子」とは推古天皇のことである。 世紀 BC AD 1 4 23 MX 5 6 古墳 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 鎌倉 平安 奈良 19 20 江戸 明治 T 昭和 道北岡 安土山 大正 K 《練習問題》 0 空欄補充 1 寺は、厩戸王の発願で607年に創建された (日大) 2 寺院内の建物の配置を という (同志社大) 3 法隆寺金堂の釈迦三尊像の作者は☆☆☆である (立教大) 4 〈国名〉の僧☆☆☆が彩色紙 墨の技法を伝えた (早稲田) 正誤判断 ア 中宮寺の半跏思惟像は、柔和でまるみのある表現が特徴の北魏様式の代表作である イ蘇我氏の法隆寺や秦氏の広隆寺のように豪族は先祖供養のための氏寺を建立した 次の世の中どうしようか 考えてるのかも

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日本史 高校生

写真の内容が、何度読んでも全然意味がとれないです。どなたか短く内容をまとめてくれないでしょうか。

になった。 10世紀後半には、任地に土着した国司の子孫たちゃ 荘園の発達 こくが 地方豪族の中に、国衙から臨時雑役などを免除され かいはつりょうしゅ て一定の領域を開発する者が現れ、11世紀に彼らは開発領主と呼ば ○れるようになった。 かんしょう 開発領主の中には、国衙からの干渉を免れるために、所領を含む きしん 広大な土地を貴族や大寺社に寄進し、その権威を背景に政府から官物 ふ ゆ かんしょう ふしょう や臨時雑役の免除 (不輸)を認めてもらう荘園 (官省符荘 6 ) にして、 あずかりどころ げし しょうかん みずからは預所や下司などの荘官となる者も現れた。 寄進を受け せっかんけ た荘園の領主は領家と呼ばれ、この荘園がさらに摂関家や天皇家な ほんけ どに重ねて寄進された時、上級の領主は本家と呼ばれた。 こうして できた荘園を寄進地系荘園と呼ぶ。 やがて、 荘園内での開発が進展するにともない、 不輪の範囲や対象 をめぐる荘園側と国衙との対立が激しくなると、 荘園領主の権威を利 けんでんし ふにゅう ○用して、 検田使など国衙の使者の立入りを認めない不入の特権を しょうえん る荘園も多くなっていった。 受領は荘園を整理しようとしたが効

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古文 高校生

【宇治拾遺物語】丹後前司高階俊平?の話です 黄色い線のところって、高階俊平の弟は官職ってことですか?それとも官職ではないもっも下の職ってことですか…?古文苦手で…😢 ※写真1枚目が古文、2枚目が現代語訳です。

次の文章を読んで、後の各問い (問一〜六)に答えよ。 これも今となっては昔のことだが たんごのぜんじ たかしなとしひら これも今は昔、丹後前司高階俊平といふ者ありけり。後には法師に (注1) つかさ なりて、丹後入道とてぞありける。それが弟にて、司もなくてある者 つくし (注2) く渡りける唐人の、算いみじく置くありけり。 ありけり。 それが主の供に下りて、筑紫にありける程に、あたらし それにあひて、「算 置く事ならはん」と言ひけれども、初めは心にも入れで、教へざりけ るを、すこし置かせてみて、「いみじく算置きつべかりけり。 日本 にありては何にかせん。日本に算置く道、いとしもかしこからぬ所な Đ 我に具して唐に渡らんと言はば、教へん」と言ひければ、「よ (注3) くだに教へてその道にかしこくだにもなりなば、言はんにこそ従はめ。 (注4) 唐に渡りても、用ゐられてだにありぬべくは、言はんに従ひて、唐に も具せられて行かん」なんどことよく言ひければ、それになんひか れて、心に入れて教へける。 うじしゅういものがたり (『宇治拾遺物語』による) 司————官職。 2算――易経の占いに用いる木の道具で、それを使って占う。 言はんにこそ従はめ言うとおりに従いましょう。 用ゐられてだにありぬべくはせめて役人として登用されるならば。 ずれてい 3 とても悪い

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日本史 高校生

(1),(2),(3)に入る語句を教えて欲しいです。 お願いします。

48 中国・朝鮮と日本 次の文を読み、地図を見て、下の問いに答える こく 1~3世紀頃の日本の状況は、中国の歴史書からうかがい知ることができ る。あは,100余国の分立と。 楽浪郡への遣使について、 いは奴国の王の遺 使と倭国大乱などについて記述している。 地図で示した3世紀については, やまたいこく ひみ ③ が 邪馬台国の女王卑弥呼の遺使などについて記述している。 C 3世紀後半から4世紀の約150年については, 日本関係の記事は中国の歴史 書に残されていない。 5世紀についてはえに、倭の五王が南朝に朝貢し, 倭 そう じゅんてい たてまつ 王 (1) は宋の順帝に上表文を奉ったことが記述されている。 46 (1) 地図ⅡIで示した6世紀からは, 日本の史料でも中国・朝鮮との通交を確認で しっきゃく きる。この頃, イの加耶支配の責任をとって大連 (2) が失脚した。 また, つくしのくにのみやつこ 筑紫国造 (3) がウと結んで乱を起こしたり, イから伝来した仏教をめぐり 政権内で争いが起こるなど, 朝鮮半島情勢は日本に大きな影響を与えていた。 7世紀,日本は遣隋使・ 遣唐使を派遣したが,663年にイの復興支援を 図って唐・ウ連合軍と戦い大敗し, 朝鮮半島での足がかりを失った。 地図ⅡIで示した8世紀, 日本は唐・ウとの通交を続ける一方で,工とも外 交関係があった。 9 世紀末に日本が遣唐使を廃止したのち, 唐が滅亡して, 五代を経て宋が 僧侶や商人の往来 成立した。 日宋間には正式な国交は開かれなかったが, f 平氏政権も宋との貿易を経済基盤の1つとした。 け活発に行われ (2)

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