数学 中学生 4年弱前 (2)の解き方教えてください! 15 正三角形 ABCにおいて, 辺BC, AC 上に BD=CE となるように点D, E をとり, BE と AD の交点をF とする。 このとき, 次の問いに答えなさい。 (1) △ABD≡△BCE であることを証明しなさい。 (2) ∠FDB + ∠FBD の大きさを求めなさい。 B A F E D C 解決済み 回答数: 1
古文 高校生 約4年前 波線のb 「れ」 と c 「る」を文法的に説明せよ。という問題です、全然分からないので教えてほしいですお願いします🙇♀️ ・・・た・・・・てしまう ある動作・作用の進行が 連用形接続 …てしまった 終わったことを表す。 四段 * 存続 ・・・・ている ・・・てある ある動作(の結果)・状態 がずっと続いていること を表す。 命令形接続 変 未然形接続 *已然形接続とも 次の文章を読み、あとの問いに答えよ。 何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は、知りたることとて、さ 精通していない 教養のある人は がほ のみ知り顔にやは言ふ。片田舎よりさし出でたる人こそ、よろづの道に心 そのようにばかりもの知り顔で言うか。いや、言わない すべての道にも 得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあれど、 心得がある様子の 自らもいみじと思へる気色、かたくななり。よくわきまへたる道には、必 立派だ 見苦しい 5 ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそいみじけれ。 口を慎み *さしいらへ・・・返答。 「さし」は語調を整える接頭語。 たり り 完了 たり omt り 解決済み 回答数: 1
英語 中学生 約4年前 英語、これはどんな様子か教えてほしいです 3 ((1) (2), {対話文完成] 絵を見て, 対話文を完成させよう。 A: I B: A: B: Oh, sorry. A: an umbrella. math. my umbrella. I have two umbrellas. <8点×4】 a book. <9点x_ 解決済み 回答数: 1
古文 高校生 約4年前 どうして「たる」なのに存続なのか、教えてください! 完了ではないんですか??何方か解説お願いします🙇♀️ …..た....てしまう たり ある動作・作用の進行が …てしまった 連用形接続 終わったことを表す。 ・・・ている 存続 ある動作(の結果)・状態 がずっと続いていること を表す。 四段* 命令形接続 変 未然形接続 ・・・てある *已然形接続とも ●次の文章を読み、あとの問いに答えよ。 何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は、知りたることとて、さ 精通していない 教養のある人は のみ知り顔にやは言ふ。片田舎よりさし出でたる人こそ、よろづの道に心 そのようにばかりもの知り顔で言うか。いや、言わない すべての道にも 得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあれど、 心得がある様子の 3. c~ けしき 自らもいみじと思へる気色、かたくななり。よくわきまへたる道には、必 立派だ 見苦しい ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそいみじけれ。 口を慎み *さしいらへ・・・返答。 「さし」は語調を整える接頭語。 文法問題 吾尺 問一 完了 ~~線a「たる」の文法的意味を書き、口語訳せよ。 存続 問二識別 ~~線b 「れ」 c 「る」を文法的に説明せよ。 INGUNG 意味 たり 口語訳 り ていること (3点×2 (4点× 解決済み 回答数: 2
古文 高校生 約4年前 なんでここが詠めりけるになるんですか? " れ 2 E JW どとり は、言異なるものな とぞら詠む あをうな くるこ見て の言葉伝へたる人に、言ひ知らせければ、心をや聞 青海ばらふりさけ見れば春日なる三笠の山に出 うに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時に る。これを見てそ、仲麻呂の主。「わが国に かの国人聞き知るまじく かすが ゑもの玉ゆか かさ SPM S N WE TLE DA 愛 28 'S け のであ にエリカ 未解決 回答数: 1
古文 高校生 約4年前 形容詞の数を答えなさい 答え 5つ どれが形容詞なのか教えてください🙏 これも (ア)比叡の山に児ありけり。(イ) 僧たち、(ウ)よひのつれづれに、「いざ、かいもちひせむ。」と言ひ けるを、(エ)この児、心よせに聞きけり。(Ⅰ)、しいださむを待ちて寝ざらむも、(オ) わろかりなむと思ひて、かたかた に寄りて、寝たるよしにて、 (カ)いでくるを待ちけるに、すでに(キ) しいだしたるさまにて、ひしめきあひたり。 この児、さだめておどろかさむずらむと待ちゐたるに、僧の、「もの申しさぶらはむ。 おどろかせたまへ。」と言ふを、(Ⅱ) とは思へども、ただ一度にいらへむも、待ちけるかと(Ⅱ) ぞ(ク) 思ふとて、いまひとこゑ呼ばれていらへむと、念じて寝 たるほどに、「(ケ)や、な起こしたてまつり( さなき人は寝入りたまひにけり。」と言ふこゑのしけれ (コ) ば、あ なわびしと思ひて、いま一度起こせかしと思ひ寝に聞けば、ひしひしとただ食ひに食ふ音のしければ、ずちなくて、無期ののちに、 (サ)「えい。」といらへたりければ、僧たちわらふことかぎりなし。 解決済み 回答数: 1
数学 高校生 約4年前 ⑵なんですけど、 事象E、Fを E:途中少なくとも1回Oに戻る F:x=4に移動している という2つの集合と考えて条件付き確率として解答したのですが、答えによると条件付き確率では無いようです… どうして条件付き確率では無いのでしょうか❓ x軸上を動く点があり,はじめは原点Oにある。 サイコロを振り, 1または2の目が 出たら正の方向に1進み, その他の目が出たら負の方向に1進む.サイコロを8回振り 終えたとき,次のことが起こっている確率をそれぞれ求めよ. 可 (1) x=4へ移動している。 (2) 途中少なくとも一度0に戻り,x=4へ移動している。 ***Z*2.0 解決済み 回答数: 1
現代文 高校生 約4年前 この問題の答えを教えてください🙇♀️ Since 1994 N TURITORY 【二】 次の文章は、小池昌代の随筆「道について」の一部である。後の問いに答えよ。 (30点) 知っている道に出たときの、あの不思議にほっとする、あたたかい感じ。わたしたちはどんなに大人になっても、身体の奥に、迷子に なることの恐怖をかかえて生きているのではないだろうか。 しかしどんな道も、いかなる町も、生きているひとと知り合うのに似て、少しずつ、だんだんと、なじんでくるものだ。 町の構造がようやく身体に入ってきたころ、「近道」とか「遠回り」というガイネンも入ってきた。 目印だけを頼りに通っていた道が、 案外回りであることがわかったり、思い切って足を踏み入れてみた小路が、思いがけぬところへ抜けていたり。 道を歩くことは、こ うして全身をかけて土地を切り開き、土地にもぐりこみ、土地になじんでいく行為にほかならなかった。 知らない道が見知らぬ場所へひとを誘うのは当たり前だが、知っている道が見知らぬ場所にひとを運んだり、知らない場所がよく知る 道に通じていることを知ることには、いつもささやかな感動がある。 1 道には知っていることと知らないことを結びつける機能が備わってもいるようだ。知っていることを伸ばしていけば、知らないところ へ出る。 知らないものを伸ばしていくと、知っている道に出る。 外国に旅に出ると、特に一人旅では、こういうことは明瞭に起こる。 言葉の不自由さに加えて、土地そのものからはじかれている感じ は、ひとを二重に異邦人にするが、それでもひとつの道が次第に親しい道になっていき、日々、見知らぬ場所へとひとを運び、再び宿へ とひとを戻すとき、その道はひとにとって、水や塩に等しい、命をつなぐ脈ともなる。 そうした道に付けられてある通りの名前を知った りすると、道は、いつでも記憶のなかに呼び出せる、親しい友のような表情さえ表す。 初めての道に足を踏み入れるときは、いつも身体に緊張が走るが、すべての道は、二度目に通るときから、「知っている道」になるこ とも面白い。当たり前のことだが、そのことはうれしい。 二度目に通るとき、ひとは、今の道と記憶のなかの道の、二つの道を同時に歩 くのだ。 以前、わたしの友人に、新しい記憶ほど剥がれ落ちてしまうという記憶障害を持っているひとがいた。そのせいなのだろうか、彼は何 度来ても、わたしの家へたどりつけない。 わからなくなったと、途中で電話が入る。 障害のことをそのとき知らなかった。そのたびに駅 まで迎えに行って、目印になるものを教えながら歩いたが、ついに、ひとりではやってくることができなかった。 わたしの祖母の呆けも、自分の家に帰れなくなったところから始まっている。 祖母も友人も、どれほどに自分がもどかしく、ふがいなく、心もとなく、不安だったことだろう。あのときは、ただ困った状況として とらえるだけで、彼らの不安そのものには目が向かなかった。 行きたい場所へ、行き着けないいま思うと、彼らの不安は、わたしの不安そのものに思える。 不安はすべて、未来を先取りした途 上に生まれ、その意味で、生きることはそのまま丸ごと、「不安」そのものだ、とわたしは思う。 子供のころ、迷子になったことがある。 夏の朝、家の前の道を、ひとりでずんずんと進んでいった結果、とんでもないところへ出てし まったのであった。 気がついて見回した町並みは自分のまったく見知らぬ場所である。見知らぬひとが歩いている。 見知らぬ自転車がとまっている。 自分 で勝手に歩いてきただけなのに、自分の帰るべき根元のようなものが、ぷっつんと音をたてて切れてしまったようだった。 遠心力のよう な透明な力によって、リフジンに道端に捨てられたような気がした。 わたしは、ひとりだった。 あたたかい共同体からはじきだされて。 こん棒で胸をつかれたような、激しい悲しみの感情がわいた。 わたしは大声をあげて、泣いたのではなかったか。 今でも遊園地やデパートや公園などで迷子のアナウンスがなされると、その子供の不安が自分のなかで、同じくらいの大きさにふくら んでしまう。きっと誰かが迎えに来てくれるに違いないと思うが、そうしたアナウンスは、見つかりましたという結果までは流さない。 とっ さに脳裏に浮かぶのは、親から見捨てられた、永遠の迷子としての子供のイメージである。 それが自分のなかの悲しみのようなものと共 鳴する。 ここはどこ? すべての迷子は、まずその疑問に射抜かれている。いつも暮らしている場所にいるとき、わたしはそんな質問をもった ことがなかった。自分が生きている場所を見失う不安、それは自分自身を見失う不安のことなのかもしれない。 ここはどこ? というひ とつの疑問は、わたしはだれ? という次の疑問を容易に呼び出しそうな気配を持っている。 しかし、わたしは、自分が迷子になったあのときの、ひりひりとした、 異様に新鮮な不安を、大人になった今、時々、味わいたいと思 & e 1 回答募集中 回答数: 0