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日本史 高校生

早稲田 2015 日本史 法学部 この選択問題の回答を教えてくださると嬉しいです よろしくお願いします😭😭😭😭

平城京と奈良時代の政治 2015 早大・法 次の文を読み、後の間に答えなさい。 710年、わずか16年で廃都された藤原京に代わり、唐 長安城の強い影響を受けた平城京が新たな都となった。 平城京に都が置かれた時代を奈良時代と呼ぶ。 遣唐使が もたらした唐の先進的な文物の流入や諸制度の導入、あ るいは新羅A との交流によって国際色豊かな都の 文化が花開くとともに、律令制度に基づく中央集権的な 国家体制が実現した時代である。以下では、平城京と奈 良時代の歴史を概観してみる。 人口10万人とも言われる平城京は、基盤目状の街区で 構成される条坊を持つ計画都市だった。 長年の発掘調査 によって確認された遺構, あるいは瓦・土器・木簡な ど様々な遺物の研究から、 平城京の様相が明らかになっ ている。都市空間は中央を南北に貫通する朱雀大路によ って左京と右京に分かれ、 中央北詰には宮城があった。 宮城には天皇の居住空間である内裏 国家的儀礼の場で あるB や政務の場である朝堂院が置かれた。 また、 二宮八省の中央官庁も宮城内に配置されていた。 宮城に 近い部分にあたる京内の北側には皇族や貴族 高位 の人が居住する面積の広い宅地があり、 南側には一般! 庶民の居住する小さく区切られた宅地が存在してい 内には巨大な寺院もを誇った。 都からは諸国へ向か う言道が敷かれ、中央と地方を結ぶ交通網が整備され た。 平城京遷都に尽力した藤原不比等は、 娘の宮子を文武 天皇の夫人とし、生まれた皇子が』 聖武天皇として即位 するなど藤原氏が天皇家の外戚となる基礎を築いた。 不 比等の四子も、政界の首班であった長屋王を謀略によっ て自殺に追い込み, 不比等の子の光明子を皇后に立てる など天皇家との結びつきを更に強めた。 その後、天然痘 によって藤原四子が相次いで死去すると、 光明皇后の 異父兄である橘諸兄が玄昉・ 吉備真備を顧問として政権 を掌握する。 しかし、Cの乱が起こると政権は動揺 し、740~744年の間, 聖武天皇は恭仁京, 難波京, 香 楽など遷都を繰り返した。 聖武天皇の娘である孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂 が台頭し、橘諸兄の子奈良麻呂を死に追い込んだ。 仲 麻呂は、舎人親王の子である淳仁天皇を擁立し、恵美押 勝の名を賜って太師(太政大臣)となった。 しかし、孝 太上天皇が道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると, 仲麻 呂は道鏡排除のため兵をあげるが近江で敗死し、淳仁天 もされた。その後して再び即位した称徳天 皇が死去すると、天武の皇統は途切れ, 天智系の光仁天 皇が即位する。 光仁天皇は、道鏡をDに追放して 乱した政治を収拾し、財政再建をはかった。 そして、 光 ・仁天皇の皇子である桓武天皇は、天智系の新しい皇統の 基礎固めの一環として長岡京・平安京へと遷都を実施 し、平城京の時代は終わりを告げた。 (問) 1.空欄Aには、靺鞨族を中心に中国東北部に建国され た国名が入る。 日本とも交流があった,この国の名前 漢字2字で記入しなさい。 2.下線にある出土遺物の木簡に関連する次の記述の うち、誤っているものを1つ選びなさい。 あ、木とは文字を記した木札で、 古代においては紙 の文書と並ぶ一般的な情報伝達の手段だった。 木簡は都でのみ発見され、地方官衙では使用され なかった。 う、藤原宮から出土した木簡は,郡評論争決着の決め 手となった。 え 1961年の平城宮最初の木簡発見以来注目される ようになった。 お、平城京の長屋王邸からも発見され、王家の日常生 活や家政機関の様相が明らかになった。 3.空欄Bには、天皇が出御する朝政や即位大嘗祭・ 元日朝などの儀礼を行った建造物の名前が入る。 2010年に復原されたこの建物の名称を漢字3字で記 入しなさい。 4.下線bの皇族の宅地としては,左京三条二坊一・ 二・七・八の4坪という広大な面積を占める長屋王邸 が知られている。長屋王に関連する次の記述のうち, 誤っているものを1つ選びなさい。 あ. 藤原不比等の死後に左大臣となった。 い。妻は、草壁皇子の娘である吉備内親王である。 う. 祖父は、天武天皇である。 父は、壬申の乱で活躍した高市皇子である。 お. 仏教をあつく信仰し、法華寺を造営した。 5.下線cの古代の交通制度に関する次の記述のうち, 誤っているものを1つ選びなさい。 あ.官道には駅路と伝路があり、国家が管理した。 い。 駅路は東海・東山・北陸 山陰山陽南海・西 海の七道があった。 う. 平城京と国府を結ぶ駅路には、約16km ごとに駅 家が置かれた。 え、 駅家には、駅馬と駅子が配され、 駅長が統轄し た。 お伝路は大寺院間を結ぶ地方道だった。 6.下線dの聖武天皇の在位中 (724~749年) の出来事と して、誤っているものを1つ選びなさい。 あ 鑑真が東大寺に初めて戒壇を設けた。 い舎那仏の大仏造立を宣言した 「大仏造立の詔」 が出された。 う、貧窮者・孤児の救済施設である悲田院 病人への 薬治療施設である施薬院が設けられた。 え墾田の永久私有を認めた法令である「墾田永年私 財法」が発布された。 お、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けさせる 「国分寺 建立の詔」 が出された。 7

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日本史 高校生

早稲田 2015年 法学部 日本史 過去問です 答えを教えていただけると嬉しいです😭😭

平城京と奈良時代の政治 2015 早大・法 天 次の文を読み、後の間に答えなさい。 710年、わずか16年で廃都された藤原京に代わり, 唐 長安城の強い影響を受けた平城京が新たな都となった。 平城京に都が置かれた時代を奈良時代と呼ぶ。 遣唐使が もたらした唐の先進的な文物の流入や諸制度の導入、あ るいは新羅Aとの交流によって国際色豊かな都の 文化が花開くとともに、律令制度に基づく中央集権的な 国家体制が実現した時代である。 以下では,平城京と 良時代の歴史を概観してみる。 人口10万人とも言われる平城京は、碁盤目状の街区で 構成される条坊を持つ計画都市だった。 長年の発掘調査 によって確認された遺構, あるいは 瓦・土器・木簡な ど様々な遺物の研究から, 平城京の様相が明らかになっ ている。 都市空間は中央を南北に貫通する朱雀大路によ って左京と右京に分かれ、 中央北詰には宮城があった。 宮城には天皇の居住空間である内 国家的儀礼の場で あるB や政務の場である朝堂院が置かれた。 また、 二宮八省の中央官庁も宮城内に配置されていた。 宮城に 近い部分にあたる京内の北側には 高位 族や貴族 の人が居住する面積の広い宅地があり、 南側には一般! 庶民の居住する小さく区切られた宅地が存在していた。 京内には巨大な寺院もを誇った。 都からは諸国へ向か う言道が敷かれ、中央と地方を結ぶ交通網が整備され た。 平城京遷都に尽力した藤原不比等は、 娘の宮子を文武 天皇の夫人とし、生まれた皇子が』聖武天皇として即位 するなど藤原氏が天皇家の外戚となる基礎を築いた。 不 比等の四子も、政界の首班であった長屋王を謀略によっ て自殺に追い込み, 不比等の子の光明子を皇后に立てる など天皇家との結びつきを更に強めた。 その後、天然痘 によって藤原四子が相次いで死去すると、 光明皇后の 異父兄である橘諸兄が玄昉・ 吉備真備を顧問として政権 を しかし,Cの乱が起こると政権は動揺 する。 し、740~744年の間、 聖武天皇は恭仁京, 難波京, 紫香 楽など遷都を繰り返した。 聖武天皇の娘である孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂 が台頭し、橘諸兄の子奈良麻呂を死に追い込んだ。 仲 麻呂は、舎人親王の子である淳仁天皇を擁立し, 恵美押 勝の名を賜って太師(太政大臣)となった。 しかし、孝謙 太上天皇が道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると, 仲麻 呂は道鏡排除のため兵をあげるが近江敗死し、淳仁天 もされた。その後、重して再び即位した称徳天 皇が死去すると、天武の皇統は途切れ、天智系の光仁天 皇が即位する。 光仁天皇は、道鏡をDに追放して混 乱した政治を収拾し、財政再建をはかった。 そして、 光 ・仁天皇の皇子である桓武天皇は、天智系の新しい皇統の 基礎固めの一環として長岡京・平安京へと遷都を実施 し、平城京の時代は終わりを告げた。 (問) 1.空欄Aには、縞族を中心に中国東北部に建国され た国名が入る。日本とも交流があった,この国の名前 を漢字2字で記入しなさい。 2.下線aにある出土遺物の木簡に関連する次の記述の うち、誤っているものを1つ選びなさい。 あ、木筒とは文字を記した木札で, 古代においては紙 の文書と並ぶ一般的な情報伝達の手段だった。 い 水筒は都でのみ発見され、地方官衙では使用され なかった。 う、藤原宮から出土した木簡は,郡評論争決着の決め 手となった。 え、1961年の平城宮最初の木簡発見以来, 注目される ようになった。 お、平城京の長屋王邸からも発見され, 王家の日常生 活や家政機関の様相が明らかになった。 3.空欄Bには、天皇が出御する朝政や即位 大嘗祭・ 元日朝賀などの儀礼を行った建造物の名前が入る。 2010年に復原されたこの建物の名称を漢字3字で記 入しなさい。 4.下線bの皇族の宅地としては,左京三条二坊一・ 二・七人の4坪という広大な面積を占める長屋王邸 が知られている。長屋王に関連する次の記述のうち, 誤っているものを1つ選びなさい。 あ、藤原不比等の死後に左大臣となった。 い。妻は,草壁皇子の娘である吉備内親王である。 う. 祖父は、天武天皇である。 え、父は、壬申の乱で活躍した高市皇子である。 お仏教をあつく信仰し、法華寺を造営した。 5.下線cの古代の交通制度に関する次の記述のうち, 誤っているものを1つ選びなさい。 あ、官道には駅路と伝路があり、国家が管理した。 い。 駅路は東海・東山・北陸 山陰・山陽 南海 西 海の七道があった。 う. 平城京と国府を結ぶ路には、約16km ごとに駅 家が置かれた。 i え、 駅家には、駅馬と駅子が配され、 駅長が統轄し た。 お伝路は大寺院間を結ぶ地方道だった。 6.下線dの聖武天皇の在位中 (724~749年) の出来事と して、誤っているものを1つ選びなさい。 あ、 鑑真が東大寺に初めて戒壇を設けた。 い舎那仏の大仏造立を宣言した「大仏造立の詔」 が出された。 " う貧窮者孤児の救済施設である悲田院 病人への 薬治療施設である施薬院が設けられた。 え、堅田の永久私有を認めた法令である「墾田永年私 財法」 が発布された。 お、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けさせる 国分寺 建立の詔」 が出された。 7.下線の藤原四子のうち、 南家を興し、藤原仲麻呂 の父として知られる人物は誰か。 正しいものを1つ選 びなさい。 あ、麻呂 武智麻呂う 房前え、種継 お字合 8.空欄Cには、大宰府に左遷されたことに強い不満を もち吉備真備 玄昉を排除しようと, 740年に九州 で挙兵した人物の名前が入る。 漢字4字で記入しなさ い。 9.下線fの称徳天皇が,765年に創建した寺院として 正しいものを1つ選びなさい。 あ 唐招提寺 い. 東大寺 西大寺 興福寺 お薬師寺 10. 空欄Dには,道鏡が別当として追放された古代寺院 の名称が入る。 東大寺 観世音寺とならぶ 「本朝三 壇」の1つとして知られるこの寺院の名称を, 漢字 5 字で記入しなさい。

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物理 高校生

この問題の(1)なんですけど、速度がvになった時点ではまだ加速してるはずなのに、磁束の変化を単純にBvdとしているのってなんでなんですか? 磁束密度ΔΦ=BΔS=BdΔxなので等加速度直線運動の公式で変位Δxを求め、V=-ΔΦ/Δtで解こうと思ったら間違ってました。 Δtが... 続きを読む

[知識] 537. 磁場中を落下する導体棒 図のように, 真空中 (透磁率 μ) で,鉛直方向に間隔dで固定された十分に長い平行導体 に沿って, なめらかにすべる質量mの導体棒の動きを考える。 導体棒は、常に平行導体と垂直を保ちながら電気的に接触し, 平行導体の上端に接続された抵抗値Rの抵抗を通して閉回路 を形成する。 ここで重力が鉛直下方にはたらいており, 強さ Hの一様な磁場が水平に導体棒と直角の方向にかかっている。 ただし,この磁場は電流の影響は受けない。重力加速度の大 きさをg,鉛直下向きを正として、次の各問に答えよ。 (1) 最初,導体棒を支えておき, 静かに手をはなすと移動を 開始する。 その速度の正の向きの大きさが”になったとき, R m d 閉回路に生じる誘導起電力の大きさと, 流れる電流の大きさを求めよ。 10 (2)このとき,導体棒を流れる電流が磁場から受ける力の大きさと向きを求めよ。 (3) このとき,導体棒に生じる加速度の大きさと向きを求めよ。 (4) 導体棒が等速度運動をするようになったときの速さを求めよ。 H ( 13. 三重大改) 例題45

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化学 高校生

解説が理解できません。 温度を上げれば吸熱方向へ反応が進むのは分かりますが、このとき必ずしも平衡定数が減少するとは限らないのでは、、と思います。これは逆反応のみが吸熱反応だと決めつけているように思われます。 この解説はどういうことを示しているのでしょうか。 回答よろしくお... 続きを読む

109 〈反応速度と化学平衡> 気体AとBを密閉した容積一定の容器に入れ, 温度を一定に保つと, 気体Cが生活 し、やがて平衡に到達した。 この反応は ① 式で示される。 [HS-84 A+B 2C ...... ① 01702 ... 313001 この反応の反応開始直後の速度(初速度という)を次のようにして調べた。 IAの濃度 [A] を一定にして, Bの濃度[B] をいろいろ変え, Cの生成の初速度 への影響を調べたところ,Vは [B]の1乗に比例した。 I同様に,[B]を一定にして[A] を変えたところ,Vは[A] の1乗に比例した。 一方,CがAとBに分解する反応の初速度V.はCの濃度 [C] の2乗に比例した Ⅳ 温度T1,T2(Ti < T2) における実験結果を次表に示した。 V = 1.00 × 10-2 平学 温度 初めの濃度 (mol/L) 1分間あたりのCの生成 (分解) の初速度 (mol/L分) T1 [A] = 1.00 [B] = 2.00 実験 1 T2 [A] = 1.00 [B] = 2.00 Ti [C] = 5.00 実験 2 T2 [C] = 5.00 × 10-2 V = 8.00 x 1 Vr = 2.00 x 10-3 Vr = 4.00 × 10-2 (1) 2Lの容器に気体A, B をそれぞれ1 molずつ入れ、 ①式に対する平衡定数K 64となる温度に保った。 人 平衡に到達したとき容器内に何molのCが生成しているか。 小数第1位まで求 (2)温度T」で,[A] = [B] = 0.50 mol/Lのときの初速度Vの値を表にならって記せ。 (3)温度Tにおける式①の平衡定数を,上表の結果を用いて小数第1位まで求めよ (4)温度T2における式①の平衡定数を,上表の結果を用いて小数第1位まで求めよ 15 ①式に関する次の記述のうち,正しいものをすべて選びその記号を記せ。 (a) 平衡は高温になるほど右方向へ移動する。 (b) 右方向への反応は発熱反応である。 (c)右方向への反応の触媒は、左方向への反応の触媒にもなる。 (d) 正反応の活性化エネルギーは,逆反応の活性化エネルギーよりも大きい。 (e) 反応を起こすのに必要なエネルギーをもつ分子の数は,絶対温度に比例して増 大する。 (f) 平衡定数Kが64となる温度は, Tよりも低温である。 (g) 平衡は高圧になるほど右方向へ移動する。

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国語 中学生

なぜこの答えだとダメなのか教えて欲しいです

「裸足で薊を踏んづける!」 少年時代、よく友達と遊んでいた原っぱの片隅に、美しい紫色の花の一群がありました。かなりの丈がある濃い緑色の 茎の先端に細い筒状の花びらがふわふわと広がっていて、それが春の風に揺れるのです。うまくすると、花の周囲を舞 アゲハチョウを捕まえることもできました。ただ、下手に触れるととげが刺さって、痛い思いをしたものです。 やがて、その花がアザミとよばれていることを私は知りました。漢字で書いたらどうなるのだろう。そう思って、花の 姿や名前の音にふさわしい文字の組み合わせを考えてみたのですが、なかなかうまくいかず、アザミはその後も、頭の中 片仮名の花として咲いていました。 ところが、ある日、それが「薊」という漢字になって、心に刻まれることになったのです。小学校を卒業した直後の春 休みだったでしょうか、町の図書館でたまたま手に取った宮沢賢治の本に、「種山ヶ原」と題された物語が収められてい ました。達二という名の主人公が、逃げ出した牛を山の中まで追っていく場面があって、そこにこんな一節が出てきたの です。 「ところがその道のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、オトコエシや、すてきに背高の薊の中で、二つにも三つ にも分かれてしまって、どれがどれやらいっこう分からなくなってしまいました。」 難しい表現は全く使われていません。詩のようにきらびやかな言葉もありません。それなのに、私はこの文章の不思議 な魅力に捕らわれてしまったのです。なぜ心ひかれるのか、最初はよく分かりませんでした。しかし、何度か読み返すう ち、この一文の光が、「すてきに背高の薊」という表現から発せられていることに気づいたのです。 「すてき」も「背高」も、個別には知っていた単語です。けれど、両者を組み合わせて、アザミのような花の上に載せ るなんて、想像したことさえありませんでした。「すばらしく背の高いアザミ」と書いても、意味としては変わらないで しょう。宮沢賢治はそれを短く刈り込んで、言葉に新しい響きを、つまり、これまでにない音楽を生み出してくれたので す。 それから長い時間がたって、高校生になったばかりの頃、私は再び書物の中で、漢字の「薊」に出会うことになりまし た。梶井基次郎の「闇の絵巻」と題された短編を読んだときのことです。真っ暗な闇の中に一歩を踏み出す勇気を、主人 はこんなたとえで表現していました。 私は呆然としました。裸足で薊を踏んづけるほどの勇気とは! 宮沢賢治の作品を通じて、アザミは明るい光の中では っきり目に見える紫色の、「すてきに背高の」、明るい陽のもとで映える花として心に刻まれていました。梶井基次郎は、 そこにもう一つ、まるで正反対の、闇に沈んだ見えない「薊」というイメージを付け加えてくれたのです。その見えない 色の、なんと鮮やかなことでしょう。おまけに、とげを踏み抜いた足の裏の感触まで生々しく伝わってくるようです。 少年の頃に私が見ていた野の花としてのアザミは、優れた二人の書き手の作品のおかげで、明と暗を持つ、言葉として の「薊」になりました。異なる文脈で出会ったことによって、「薊」は私の心の中で、より豊かな花に育っていったので す。 興味深いのは、言葉としての「薊」の色が深まるにつれて、原っぱに咲いている本物の「アザミ」も美しさを増してい ったことです。つまり、二つの「薊」は、世界の見方を変えてくれたのです。本を読み、言葉に触れ、言葉を育てていく 喜びは、こんなふうに、見慣れていた光景に新しい光が当てられる様子を、驚きをもって眺めることにあるのではないで しょうか。(「二つのアザミ」 堀江敏幸)

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国語 中学生

なぜこのような答えになるのか教えて欲しいです

丑、次の文章を読 「裸足で薊を踏んづける!」 少年時代、よく友達と遊んでいた原っぱの片隅に、美しい紫色の花の一群がありました。 かなりの丈がある濃い緑色の 茎の先端に、細い筒状の花びらがふわふわと広がっていて、それが春の風に揺れるのです。うまくすると、花の周囲を舞 アゲハチョウを捕まえることもできました。ただ、下手に触れるととげが刺さって、痛い思いをしたものです。 やがて、その花がアザミとよばれていることを私は知りました。漢字で書いたらどうなるのだろう。そう思って、花の 姿や名前の音にふさわしい文字の組み合わせを考えてみたのですが、なかなかうまくいかず、アザミはその後も、頭の中 で片仮名の花として咲いていました。 ところが、ある日、それが「薊」という漢字になって、心に刻まれることになったのです。 小学校を卒業した直後の春 休みだったでしょうか、町の図書館でたまたま手に取った宮沢賢治の本に、「種山ヶ原」と題された物語が収められてい ました。達二という名の主人公が、逃げ出した牛を山の中まで追っていく場面があって、そこにこんな一節が出てきたの です。 「ところがその道のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、オトコエシや、すてきに背高の薊の中で、二つにも三つ にも分かれてしまって、どれがどれやらいっこう分からなくなってしまいました。」 難しい表現は全く使われていません。詩のようにきらびやかな言葉もありません。それなのに、私はこの文章の不思議 な魅力に捕らわれてしまったのです。なぜ心ひかれるのか、最初はよく分かりませんでした。しかし、何度か読み返すう ち、この一文の光が、「すてきに背高の薊」という表現から発せられていることに気づいたのです。 「すてき」も「背高」も、個別には知っていた単語です。けれど、両者を組み合わせて、アザミのような花の上に載せ るなんて、想像したことさえありませんでした。「すばらしく背の高いアザミ」と書いても、意味としては変わらないで しょう。宮沢賢治はそれを短く刈り込んで、言葉に新しい響きを、つまり、これまでにない音楽を生み出してくれたので す。 それから長い時間がたって、高校生になったばかりの頃、私は再び書物の中で、漢字の「薊」に出会うことになりまし た。梶井基次郎の「闇の絵巻」と題された短編を読んだときのことです。真っ暗な闇の中に一歩を踏み出す勇気を、主人 訟はこんなたとえで表現していました。 私は呆然としました。裸足で薊を踏んづけるほどの勇気とは! 宮沢賢治の作品を通じて、アザミは明るい光の中では っきり目に見える紫色の、「すてきに背高の」、明るい陽のもとで映える花として心に刻まれていました。梶井基次郎は、 そこにもう一つ、まるで正反対の、闇に沈んだ見えない「薊」というイメージを付け加えてくれたのです。その見えない 色の、なんと鮮やかなことでしょう。おまけに、とげを踏み抜いた足の裏の感触まで生々しく伝わってくるようです。 少年の頃に私が見ていた野の花としてのアザミは、優れた二人の書き手の作品のおかげで、明と暗を持つ、言葉として の「薊」になりました。異なる文脈で出会ったことによって、「薊」は私の心の中で、より豊かな花に育っていったので す。 興味深いのは、言葉としての「薊」の色が深まるにつれて、原っぱに咲いている本物の「アザミ」も美しさを増してい ったことです。つまり、二つの「薊」は、世界の見方を変えてくれたのです。本を読み、言葉に触れ、言葉を育てていく 喜びは、こんなふうに、見慣れていた光景に新しい光が当てられる様子を、驚きをもって眺めることにあるのではないで しょうか。(「二つのアザミ」 堀江敏幸)

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国語 中学生

なぜ△なのか理由と正しい回答を教えて欲しいです

「裸足で薊を踏んづける!」 少年時代、よく友達と遊んでいた原っぱの片隅に、美しい紫色の花の一群がありました。 かなりの丈がある濃い緑色の 茎の先端に、細い筒状の花びらがふわふわと広がっていて、それが春の風に揺れるのです。うまくすると、花の周囲を舞 アゲハチョウを捕まえることもできました。ただ、下手に触れるととげが刺さって、痛い思いをしたものです。 やがて、その花がアザミとよばれていることを私は知りました。漢字で書いたらどうなるのだろう。そう思って、 姿や名前の音にふさわしい文字の組み合わせを考えてみたのですが、なかなかうまくいかず、アザミはその後も、頭の中 で片仮名の花として咲いていました。 ところが、ある日、それが「薊」という漢字になって、心に刻まれることになったのです。小学校を卒業した直後の春 休みだったでしょうか、町の図書館でたまたま手に取った宮沢賢治の本に、「種山ヶ原」と題された物語が収められてい ました。達二という名の主人公が、逃げ出した牛を山の中まで追っていく場面があって、そこにこんな一節が出てきたの です。 「ところがその道のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、オトコエシや、すてきに背高の薊の中で、二つにも三つ にも分かれてしまって、どれがどれやらいっこう分からなくなってしまいました。」 難しい表現は全く使われていません。詩のようにきらびやかな言葉もありません。それなのに、私はこの文章の不思議 な魅力に捕らわれてしまったのです。なぜ心ひかれるのか、最初はよく分かりませんでした。しかし、何度か読み返すう ち、この一文の光が、「すてきに背高の薊」という表現から発せられていることに気づいたのです。 「すてき」も「背高」も、個別には知っていた単語です。けれど、両者を組み合わせて、アザミのような花の上に載せ るなんて、想像したことさえありませんでした。「すばらしく背の高いアザミ」と書いても、意味としては変わらないで しょう。宮沢賢治はそれを短く刈り込んで、言葉に新しい響きを、つまり、これまでにない音楽を生み出してくれたので す。 それから長い時間がたって、高校生になったばかりの頃、私は再び書物の中で、漢字の「薊」に出会うことになりまし た。梶井基次郎の「闇の絵巻」と題された短編を読んだときのことです。真っ暗な闇の中に一歩を踏み出す勇気を、主人 訟はこんなたとえで表現していました。 私は呆然としました。裸足で薊を踏んづけるほどの勇気とは! 宮沢賢治の作品を通じて、アザミは明るい光の中では っきり目に見える紫色の、「すてきに背高の」、明るい陽のもとで映える花として心に刻まれていました。 梶井基次郎は、 そこにもう一つ、まるで正反対の、闇に沈んだ見えない「薊」というイメージを付け加えてくれたのです。その見えない 色の、なんと鮮やかなことでしょう。おまけに、とげを踏み抜いた足の裏の感触まで生々しく伝わってくるようです。 少年の頃に私が見ていた野の花としてのアザミは、優れた二人の書き手の作品のおかげで、明と暗を持つ、言葉として 「薊」になりました。異なる文脈で出会ったことによって、「薊」は私の心の中で、より豊かな花に育っていったので す。 興味深いのは、言葉としての「薊」の色が深まるにつれて、原っぱに咲いている本物の「アザミ」も美しさを増してい ったことです。つまり、二つの「薊」は、世界の見方を変えてくれたのです。本を読み、言葉に触れ、言葉を育てていく 喜びは、こんなふうに、見慣れていた光景に新しい光が当てられる様子を、驚きをもって眺めることにあるのではないで しょうか。(「二つのアザミ」 堀江敏幸)

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