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数学 高校生

この問題の問1で、解答ではoから直接内分でOPを求めていますが、自分はa+(1−t)b+3/5taのようにOP=OA+AP OP=OB+BPとして求めようとしたらt=0となって求められません。回りくどいとは思いますが、式として間違ってはいないはずなので、なぜこれで解けないの... 続きを読む

00000 基本例題 24 交点の位置ベクトル (1) 辺OBを3:4に内分する点をD, 線分AD と BCとの交点をPとし, 直線 Op AOAB において,DAd,OB=6とする。 辺OA を 3:2に内分する点を [類 早稲田大 と辺AB との交点を Qとする。 次のベクトルをa, を用いて表せ。 (2) OQ SA A (1) OP 重要 27,基本 36,63, DAA 1331 C 指針 ▷ (1) 線分 AD と線分BC の交点P は AD上にも BC 上にもあると考える。そこで、 AP:PD=s:(1-s), BP:PC=t: (1-t) として, OP を2つのベクトル キュービクトル J } a, を用いて2通りに表すと, p.384 基本事項 ⑤ から HJÁS (S) a=1,11, x1 ( とが1次独立) のとき pa+qb=p'a+q'b⇒p=p', q=q' 092A.Cast (2) 直線 OP と線分 AB の交点QはOP 上にもAB 上にもあると考える。 418 CHART 交点の位置ベクトル 2通りに表し係数比較 解答 (1) APPD=s: (1-s), BP:PC=t: (1-t) とすると bade OP=(1-s)OA+sOD=(1-s) a+ 12/st, 3 7 ha+de OP=tOC+(1¬t)OB==tà+(1-t)b 3 8 5 ◎よって 3 3 (1−s)ã+/-sb=³-tã+(1-t)5 6-A#760 7 = 0, 0, a であるから 3 3 1-s=-=t, 78=1-¶ これを解いて 7 S= 13 11/03 したがって t= (2) AQ:QB=u:(1-u) とすると また、点け =(1) a A 1-t- 3 2 断りは重要 6 OP= iā+3 13 13 at 万 0 3 Iet 4 B

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現代文 高校生

合ってますか!?

次の漢字のうち、正しいものを選び、それぞれ○で囲め。 正しい漢字 (10点) (徐・除)行運転。 ② 温暖な気候・候) ⑥途中で道を尋訪ねた。 客 観 迎する。 県庁・丁・町)所在地。 ③機械を治・直)す ⑨ 交通事故(妨防止。 ⑨(深・信・真剣なまなざし。 (架 仮化)空の人物。 ⑤ 固個己) 有名詞。 5 次の線部と同じ漢字を使うものを下から選び、それぞれ○で囲め。 同音の漢字 (2点×10) タン的 (タン純先タンタン泊) テキ (テキ発・テキ対・テキ切) (待グウ・一グウグウ数) イン果大原イン・イン刷・インカ) (ソウ談・予ソウソウ飾 栽(洋サイ・盆サイ・サイ能) 境環(カン全・カン落・循カン) ⑧ トウ難皿(鉄トウ・トウ惑・トウ塁) カイ (紹カイ・カイ勤・カイ段) ⑩ ジュウ軟 (墨ジュウ・野ジュウ・シュウ道) 青木 umbet ₁ 次の――線部のカタカナを漢字に直し、後ろの解答欄に書け。 長文での書き取り (2点×10) 昔の日本人は今の日本人とは違った歩き方をしていたというと、た いていの人はオドロく。昔の日本人は、手足を互い違いに出す今のよ うな歩き方はしていなかった。右手右足を同時に出す、いわゆるナン バのかたちで歩いていたのである。コシから上を大地に平行イドウさ せるようにして、すり足で歩いていた。いまでも、ノウや歌舞伎、あ るいはケンドウなどにはこの歩き方が残っている。 なぜこのような歩き方をしていたかといえば、セイサンの基本が ノウギョウ、それも水田イナサク にあったからである。稲のセイイ クを注意深くミマモるためには、 走ったり跳んだりすることは無用 だった。事実、いまでも、浮き足 立つとか跳ね上がるとかいう言葉 は、日本語では悪い意味である。 みうらまさし (三浦雅士 「考える身体』) STE 生産 見守る の 2 6 動 農移 箱能 8

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日本史 高校生

分からないので教えて欲しいです🙇

第⑥章 幕藩体制の成立 織豊政権の成立 (1) ヨーロッパ人の東アジア進出 (15世紀後半~16世紀) ① ヨーロッパの変貌 ルネサンス・宗教改革をへて近代社会への移行 イスラーム世界に対抗 a. 新航路の開拓 アジアへ進出 (オスマン=トルコの圧迫)→(1 ]時代 b. 海を中心とした交流の世界的展開 コロンブス, ヴァスコ=ダ=ガママゼラン ](イスパニア)の進出 a. フィリピン [3 ]を拠点とする b. 南北アメリカ大陸 メキシコ(ノビスパン) など の進出 a. インド (5 ]を拠点とする b. 中国 [6 ④ ヨーロッパ人の東アジア [7] a. 明(中国)の[ ←私貿易を禁止 b. 環シナ海貿易の展開 [7 貿易 (2) 南蛮貿易 ① 鉄砲伝来 (1543) ポルトガル人の a. 生産地 堺 (和泉) 雑賀 根来 (紀伊), 国友 (近江) →大量生産の実現 b. 日本社会への影響 戦法の変化 (足軽鉄砲隊の登場) 城の構造の変化 ② 南蛮貿易 a. 南蛮人 当時のポルトガル・スペイン人の呼称 b. 貿易港 [10 〕 (1584, スペイン人の来航) 長崎 豊後府内 c. 参加者 九州の諸大名 (大友 大村・有馬・松浦の諸氏), 商人 (京都・堺・博多など) d. 貿易品 輸出品 11 〕 (朝鮮伝来の灰吹法の技術)、 刀剣など 輸入品 [12 [] (中国産), 鉄砲, 火薬など ③. キリスト教の布教 a. 宣教師の来日 1549年(13 会 (14 鹿児島到着 (島津氏の布教許可) 大内義隆 (山口), (15 ) (豊後府内) らの保護 →のち、ガスパル=ヴィレラやルイス=フロイスらによる布教 b. 信者の数の急速な増加 [16 [〕 (教会堂), [ 17 (13 〕 (神学校) の建設 c. 貿易と布教の一体化 (19 の登場 貿易をのぞんで布教の許可と保護 (九州に多い) → 九州三大名(15 ). (20 ). (21 による [22 〕の派遣 . (伊東マンショ千々石ミゲル 中浦ジュリアン 原マルチノの少年4人をローマ教 皇のもとに派遣→1582年出発~1590年帰国) 宣教師 (23 のすすめ -〕 を占領する 中国・日本・朝鮮・台湾・琉球・安南 (ベトナム) など (後期倭寇の活動) ときたか [] 漂着→島主種子島時の関心 貿易への参入 〕 (宣教師の養成学校)

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数学 高校生

なぜ楕円上の点を2cosθ、sinθとおいてるんですか?

例題 小取大 最小 S MEE *** 稲円+y²=1の第1象限の点Pにおいて接線を引き,x軸,y軸と 交わる点をそれぞれ Q, R とする.線分OR の長さの最小値を求めよ. ま た。このときの点Pの座標を求めよ. 考え方 楕円上の点をP(2cose, sine) とおいて考える. y x) (R P (2cose, sin0 ) -2 0 /2 Q x 2 解答 楕円+y=1① 上の点Pの座標を 2010 2 P(2 cos 0, sine) (0<0<) とおくと,点Pにおける①の 119 接線は, nie) +(97) 200) X)(0 nie)-8800)=fg+x 2x cos 0 +ysin0=1+(nia x² 4 楕円 J² + 62=1 y=0 とおくと, x=- 2 2 上の点 (x1, yi) にお より, Q 1800 cos o Cos' ける接線は、 the X- 1 x=0 とおくと, y=- より, R0. R(0, X1X Viy sin sine ²+2=1 したがって, )(0 nie 0+0200x軸上の点のy座標 4 1 QR2=- 10 + = 4(1+tan²0)+(1+ COS20 sin²0 )+(1+ tan2 軸上の点のx座標 FX 1²aie + =5+4tan²0+ 15 +0000 le tan' 4 tan²0.. tan²0 = 9 1 1 1+ すなわち, QR ≧3 tan²0 sin²0 buie & VS Snie S) + tan200より、 等号が成り立つとき,4tan_1 50-2005 tan²0 相加平均・相乗平均 720$dia=0000 の関係を利用 tang=1 08nies OSAKE QR>0 √2 ****** 1=³V (0$ 802 /2√6 よって, QR の最小値は p(2.6のとき,3 cos o= 3 3 3 3 1 3 2-05 800 € sine= 方 3 3 BALAS +0S #10 NO 8 楕円(+(%)=1上の点P(a,b)における接線とx軸、y軸が作る三角形 25+2√4 tau = 第

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現代文 高校生

なぜ写真の答えになるのかがわかりません。

5 10 第三語 社会 六山崎 正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方に エリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の こ州。 急速な暖味化は、ム皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは一 そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわば 1三層構造を持った知的社会であった。 Mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く 5 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく であり、それとともに 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その なかで活躍した仮体制説な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な『自悔の感情 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 の真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 、もる S かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文一 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある(フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 ら流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎8 と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 識人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 そして、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

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現代文 高校生

なぜ、写真の答えになるのかがわかりません!

10 第三調 社会 六山崎 正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方にエリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 )これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の 二州。 急速な暖味化は、“皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは一 そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわば 三層構造を持った知的社会であった。 Mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く6 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく一 であり、それとともに 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その なかで活躍した仮体制誘な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 0 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な王自侍の感情 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 I真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 S。 かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある(フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 5流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎s と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 識人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 宅して、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

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