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これ私もさっぱりだったので、今日論文を読んできたので、それをベースに考察をさせていただきます。
今回参照したのは
伴瀬明美(「院政期〜鎌倉期における女院領についてー中世前期の王家の在り方と変化ー」1993年、日本史研究会、46〜75頁)
となります。

まず旧来の説としては
「女院領とは、政治上の事件などに巻き込まれて皇室領が散逸することを防ぐため、これを女性に伝領させたものであり、それゆえこれらの女院領は女院の名義ではあるが、実際には皇室の家長である治天の君の管領のもとにあった」

が、この旧説自体は具体的な論証に欠け、又当時の八条院領、室町院領その他女院領のケースを考慮すると、全く当てはまらず、むしろ女院側が各院領に対して本家職として強力な立場を持っていることは明らかであり、この考えは否定せざるを得ない。

つまり女院はそれぞれが強力な職の体系のトップに位置していたと理解すべきであり、女院に伝領された所領も治天の君が回収するといったことは基本無く(死後宙に浮いてしまった場合はその限りではないが)、女院の指定した人物に相続されるのが基本だった。

例えば後鳥羽が伝領してした八条院領は後高倉院が伝領した後、その娘の安嘉門院が伝領している。またそれ以外の旧後高倉院領は安嘉門院と同じ後高倉院の皇女である式乾門院が伝領しているし、後鳥羽の母、七条院が残した遺領(七条院領)は後鳥羽の后修明門院→孫の善統親王へと継承されている。

この辺りを踏まえると即ち
王家内部においても、治天の君である直系の家の他に、
・「後高倉院ー安嘉門院・式乾門院ー室町院」
・「七条院ー御鳥羽院ー修明門院ー善統親王」
などといったような女院領の相伝に基く幾つかの疑制的な家が存在していたと考えられる。

つまり当時は自身の死後、女院となっている自身の后や皇女などに所領の分配が行われることは至極当たり前であり、各女院領では強力且つ広大な所領の支配が行われていたと言える。こうした慣習が薄れ、治天の君が女院領などを吸収することになるのは、鎌倉時代を通して進行した荘園制支配全体の危機の中で、いかに王家領を保持するかという大きな課題に対する対応策として、女院領の取込みが起こる鎌倉時代後期の事と言える。

さきち

わざわざ論文を読んでくださって、ありがとうございます🙇🏻 大変な作業だと思いますが、調べて下さり、大変、助かりました!このような認識であっていますでしょうか。
つまり、昔は自分の土地を守るために女院に名義だけ変更して、荘園をあげていたと考えられていた。しかし、これは、その荘園が女院から誰に相続されたかと考えると不自然である。
女院に荘園を渡すことは、当時の慣習だった。女院は相続させたい人に、この土地を与えていたため、上皇の土地を守るためというわけではない。
しかし、鎌倉時代後期に、なると王家の領を守るため、女院の領を没収して、王家領にした。

あと、鎌倉時代を通して進んだ荘園制支配全体の危機とは、どのようなことでしょうか。(まだ、鎌倉時代以降の日本史を勉強していないのですが、もし教科書に登場するような出来事なら、出来事の名称を書いてくだされば、自分で調べます。)

本当にありがとうございます!

Pクレゾール

大体その解釈で間違っていないと思います。

荘園制支配全体の危機とは当該論文には記載はされていませんが、地頭による荘園侵略のことを指しているのでしょう。

さきち

なるほど!分かりました!本当にありがとうございます🙇🏻🙇🏻‍♀️🙇🏻‍♂️

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