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権は、この唐の国の強大な政治体制を取り入れて統一国家を形成し
ていくのですが、 それは第4章でお話しします。
天皇 蘇我氏
推古 馬子
外交など
政治
①593年 厩戸王が政務を代
行
②603年 冠位十二階
(1)個人に与えられる冠位
(2)昇進も可能
③604年 憲法十七条
役人の心得
④607年 遣隋使の派遣
(1) 小野妹子を派遣
(2)中国皇帝に臣属しない形
式をとった
⑤ 618年 隋の滅亡
→唐の建国
ここが
実力アップ講義
ポイント
遣隋使、 600年にも行ってるよ
➡P.0632-A
5、6世紀の中国は南北朝時代でしたが、 589年に隋が中国を統一します。
隋という国は北朝からできた国で、日本との交流はありませんでしたが、 ヤ
マト政権は遣隋使を派遣します。
_ずいしょ
最初の遣隋使は600年に派遣されたということが、 中国の歴史書 「隋書」
国伝に記されています。 この600年の遣隋使の目的は、日本が新羅を攻
めるのに際して、隋を味方につけようとしたためだといわれています。日
本は加耶への影響力を再び強めるために、新羅を攻めようとしていました。
その時に隋を味方につけたかったのですが、隋は新羅を敵に回したくなか
ったので、拒否されたといわれています。
いもこ
次の遣隋使は607年のことで、 小野妹子が派遣されました。 小野妹子は
ょうだい
隋の皇帝であった煬帝に会い、国書を提出しました。 その国書が、 中国皇帝
に属しない形式をとっていたため、煬帝は怒ります。 しかし、当時、隋は
国境を接していた高句麗と対立していました。 隋としては、高句麗と対抗
小野妹子
小野
朝
では
と呼ばれた。翌608年
として再び
渡った。
市を本拠とする。 冠位十二階の5番
なって国
際
するためには、ヤマト政権を味方につけておきた
かったのです。ですから、隋は翌年、答礼使として
清を日本に派遣しました。
608年に裴世清が帰国する際には、小野妹子と
こんなのじょうあん
しませ
天子にす....
生き見する処の
小野妹子
ともに高向玄理・南淵請安・旻らが同行します。
高向玄理が留学生で、 南淵請安と旻が学問僧です。
南淵請安はお坊さんぽくない名前ですが、お坊さ
んです。 彼らは、隋唐のすぐれた制度や技術を学
び、大化改新とその後の律令国家の形成に大きな役割を果たしました(P.088)。高
向玄理は、後に遣唐使として唐におもむきますが、唐で亡くなってしまいました。
山
蘇我氏滅亡
P.063表2-B 東進金谷本 11
煬帝
さて、いよいよ蘇我氏が滅んでいく段階です。 なぜ、あそこまで絶大な権
力を持っていた蘇我氏が滅んでいくのか? 今からそれを見ていきましょう。
じょめい
けんとうし
A
まず、舒明天皇の時は、 蘇我馬子の子の蘇我蝦夷が権力を握ります。 こ
この時の重要な出来事としては、遣唐使の派遣です。 日本は、618年に唐が
建国されると、さっそく、 630年には犬上御田鍬を遣唐使として派遣する
のです。 遣唐使の目的は、 文物の流入でした。
き
641年、 舒明天皇が亡くなります。 次の天皇の最有力候補は、山背大兄
でした。 山背大兄王は厩戸王の子で、政治的にも非常に有能な人間だっ
たといわれています。 つまり、家柄的にも能力的にも、最も次期天皇にふ
さわしい人物だというわけです。 しかし、蘇我氏は山背大兄王を天皇には
したくありませんでした。 なぜか?
3
蘇我氏の台頭と滅亡
それは、山背大兄王が天皇になると、 蘇我氏は自分の思い通りの政治が
できなくなってしまうと考えたからです。蘇我氏にとっては、有能な天皇
075
7世紀
前半 ②
舒明天皇
蘇我蝦夷
犬上御田鍬
唐に派遣
(650)
握り!
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