日本史
高校生
解決済み

解説お願いしたいです🙇‍♀️

下線部(コ)に関連して、グループでは藤原氏が握っていた受領の人事権について調査 次の資料(1)~(4)を得た。 これらの資料を参考に、受領の人事について三条天皇はど のような権限を有していたと考えられるか。 解答欄の書き出しに続けて,藤原道長との 人間関係にふれながら, 簡潔に説明せよ。 [なりと せいし (1) 藤原済時の娘娍子は皇太子時代の三条天皇に嫁ぎ、のち四男二女をもうけた。 $795 1011 年に一条天皇が譲位して三条天皇が即位した際、天皇の父母も藤原済時もすで に他界していた。 左大臣の藤原道長は一条天皇と彰子の間に生まれた子の成親王を 皇太子とした。のちに三条天皇が眼病を患うと,それを理由に道長は天皇にしきりに 譲位をせまった。 (2) 三条天皇が娍子を皇后に立てる儀式を行った際、道長は同日に娘の妍子を三条天皇 の中宮として入内する儀式を東三条殿で行った。ほとんどの公卿は東三条殿へ行った が、藤原実資,藤原隆家ら四名の公卿のみ娍子の儀式に参列した。 じゅう (3) 藤原済時の子で娍子の兄の藤原為任は伊予守となった。 当時, 伊予国は富裕な国と 考えられ、伊予守になることは容易ではなかった。 為任はかつて道長を呪詛しようと したと噂された人物であった。 (4) 次の表は三条天皇が即位した後に天皇の側近として蔵人になり、のちに受領となっ た人物をまとめたものである。当時は藏人を経て受領に任官するまで10年前後の年 数を要することが一般的で, 長い場合は20年以上かかったものもいた
人物名 任国 藏人任官 受領任官 藤原 元 和泉守 1011年 1015年 源保任 甲斐守 1012年 1014年 源忠貞 因幡守 1011年 1012年 紀致賴 伯耆守 1011年 1013年

回答

✨ ベストアンサー ✨

資料(1)~(3)より、
三条天皇と藤原道長の関係は極めて対立的・不和であったことが分かる。

資料(3)(4)より、
道長の反対や従来の慣例を押し切り、天皇が自分の意思で自由に受領を任命できる強い権限(主導権)を持っていたことが分かる。

指定された書き出しが画像からは分からないが、
書き出しに続けて、

(受領の人事について三条天皇は)、
対立関係にあった藤原道長の意向に左右されず、道長を呪詛したと噂される人物を富裕な国の受領に任じたり、従来の慣例を破って蔵人を短期間で受領に計画的に登用したりするなど、自らの意思で自由に受領を任命できる強い主導権を有していたと考えられる。

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