日本史
高校生
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問9 下線部(ク)に関して、次の史料2は醍醐寺の満済の日記のなかで、応永の外寇につ
いて記された部分である。 史料2のなかに 「蒙古の舟」の語がみられるが,これは誤り
と考えられており、この時期には日本と明の関係が悪化していたため、異国襲来に関し
て不確かな情報が飛び交っていた。このことに関連して、この時期に室町幕府がとって
いた対明政策について、将軍の名を明らかにしながら、その政策を習った理由を含めて
30字以内で説明せよ。
H
史料 2
足利は期
(応永二十六年八月) 七日。 今日、仰せに依りて下の御所(注1)に参る。 ・・・暫く御雑
上義之最中、九州少弐方より、飛脚口進之在り。其の状に云ふ、蒙古の舟, 先陣五百余輹,
- 対馬の津に押し寄す。 少弐代宗右衛門(注2)以下七百余騎馳せ向ひ, 度々合戦す。 口六
月二十六日終日相戦ひ、異国の者共, 悉く打ち負け、当座に於て, 大略打死し、或は
召し取る云々。 異国の大将両人を生取る。 種々白状之在り云々。 此の五百余艘は、悉く
高麗の国の者也云々。
(「満済准后日記』)
(注1) 下の御所 三条坊門亭。
(注2) 少弐代宗右衛門: 少弐氏の代官宗右衛門。
B 朝鮮半島と九州本土の間にある対馬は、古くから日本の外交や交易において大きな役割
を果たしてきたが, 外来勢力の襲撃を受けることもあった。 1019 年には、対馬は「刀伊」
とよばれた
族の襲撃を受けた。(カ)13世紀後半の2度にわたる蒙古襲来の際に
も、対馬は襲撃を受けた。
蒙古襲来の後も(キ)東シナ海での商船の往来は行われたが、14世紀後半には東アジアで
倭寇の活動が活発となり、対馬はその本拠地の一つとなった。 1392年に朝鮮を建国した
李成桂は通交と倭寇の取締りを日本に要求し、 B もこれに応じたが,(ク) 1419年,
朝鮮軍が対馬を倭寇の本拠地として襲撃した応永の外寇が起こった。この事件の後、朝鮮
は対馬の宗氏を通じて(ヶ日朝貿易の統制を強化するようになった。
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