日本史
高校生
解決済み

実力アップ講義の内容がよくわかりません、わかりやすく解説してほしいです、
日蓮宗不受不施派からよくわからないです
あと武家伝奏もよくわからないし、紫衣事件は何がオチなんですか?

■ 第6章/第1部: 江戸幕府の成立 Spotted Seat 880 0438062 : 1637年 そして戦乱ですが、 1637年 しまばら 島原の乱 に島原の乱がおこります。 こ の島原の乱は、 九州の島原地方 島原の乱 てらうけせいど だんか のキリシタン農民らが、 そこの 領主に対しておこした反乱で す。この反乱の首領は益田(笑 くさしろう ときさだ 草四郎) 時貞という少年でし た。この益田(天草四郎) 時貞 はらじょうあと かの寺院に所属させました。 これを寺請制度といいます。 どこかの寺院に所属させ 制度を寺請制度、 寺院に所属していることの証明書が寺請証明、 寺院に所属して いる人々のことを檀家といいました。 幕府は、すべての人がどこかのお寺に所属しているかどうかを調査する宗門改め 後に鎮圧されます。 を中心に、 農民たちは原城跡に立てこもりますが、この反乱も1年 にちれんしゅう ふじゅふ をおこないました。 その時に作成された台帳が宗門改帳です。 宗門改めは、キリ シタンだけではなく日蓮宗不受不施派を取り締まる目的もありました。 この時生まれた宗派に、 黄檗宗があります。 明の隠元隆琦が来日して広めまし おうぼくしゅう いんげんりゅう た。 黄檗宗は、もともとキリシタンで信仰する仏教がなかった人たちの受け皿にな まんぷくじ っていきました。 代表的な寺院は宇治に建てられた万福寺です。 じいんはっと 江戸時代初期は、宗派ごとに寺院法度が出されました。 しかし17世紀後半にな ると宗派をこえた統制法令が出されます。 諸宗寺院法度です。 また、神社の統制法 令も出されます。 諸社禰宜神主法度です。 神道の統制は、公家の吉田家がおこない つち みかど け よしだけ ました。また、公家の土御門家は陰陽道の統制をおこないました。 しゅうもんあらた あらためちょう ここが 実力アップ講義 ポイント 踏絵じゃないよ絵踏だよ きんきょうれい たかやま 1613年、全国に禁教令が出されると(P.176) キリシタン大名の高山 右近はマニラに追放されます。 キリスト教をやめなかったからです。 マニ ラは当時スペインが支配していたため、 キリスト教がとても盛んでした。 高山右近はマニラで大歓迎を受け、その地で大往生を遂げます。 だいじゅん 幕府によるキリスト教の弾圧は続きます。 1622年には、長崎でキリスト 教 (P.150) といいます。 教宣教師や信徒が55人処刑される事件がおこるのです。 これを元和の大 きょう えぶみ ふみえ キリシタンかどうかを見極めるため、キリスト像やマリア像を踏ませる 絵踏をおこなわせました。 この時に踏まれたキリスト像やマリア像などの 絵のことを、踏絵といいます。 それでもキリシタンの中には、表面的にはキ リスト教をやめたフリをしてひそかに信仰を続ける潜伏 (隠れ) キリシタン となる人もいました。 聖書の教えをお経のように唱えるなどして、鎖国が 終わるまで200年以上も信仰を続けていました。 幕府はキリスト教を信仰させないようにするため、すべての人々をどこ 島原の乱 1637年に九州の島原地方でおこったキリシタン農民の反乱 益田 (天草 てらさわ 3万8千人の土豪や百姓が天草領主の 「末寺」のことで 本末とは「本山」と 寺院を指すんやで~ 「末寺」はそれ以外の となる寺院 「本山」は宗派の中心 幕府 寺社奉行 ・本江本 ちなみに・・・ 6 江戸幕府の成立 幕府は本山に末寺の 管理をさせることで 本山 す管暮 末寺 [ んんだね

回答

✨ ベストアンサー ✨

一つづついきましょう。
まず日蓮宗不受不施派について。
日蓮宗不受不施派は日蓮が提唱した不受不施義という教えを守る一派。
この不受不施義、日蓮宗信者でないものからは施しを受けず(不受)、日蓮宗信者でない者には供養を施さない(不施)と言う教えです。
どの宗教もそうですが、基本的に宗教は過激なものも時代を経るごとに周りに順応するために丸くなるものなのですが、こと日蓮宗に至っては開祖が過激すぎて、定期的に原理主義的な連中が出てきます。この不受不施派も出てきたのは秀吉の頃です。彼らは日蓮宗内部でも丸くなった連中と対立し、その結果江戸期に入り幕府と結託した丸くなった日蓮宗によって非合法認定されてしまいます。

武家伝奏
朝廷のお貴族様が任命された朝廷と幕府の連絡役

紫衣事件
僧侶の服は色でランクが決まっていて、紫は高位の僧侶しか付けられない。それを授与するのは昔からの慣例で天皇だったのですが、この事件の少し前にとある公家が大やらかしをして、朝廷に対する抑圧というのを強めなければならないと考えていた幕府は、天皇の自由にやれることの一つである紫衣の授与に関しても口出しをしたものの、当時の天皇、後水尾天皇はそれを無視して従来通り紫衣を授けた結果、幕府は紫衣を没収しろと京都所司代に命令をし、それに抗議した大徳寺の沢庵宗彭などが配流されました。
これが第一段階
それにブチ切れた後水尾天皇が幕府に相談や許可もなく勝手に天皇を辞めて娘に譲るという第二段階をもって紫衣事件と言います。
じゃあ何が言いたいのかということですが、あくまでも征夷大将軍とは朝廷から任命された役職であるという前提があるはずなのに、幕府の許可なしではまともに何も出来ない、即ち完全に幕府>朝廷(天皇)という図式が明確化されたという意味合いを持つ事件なので通史で扱われています。

かい

え征夷大将軍って幕府側の人間じゃないんですか?

Pクレゾール

無論将軍ですから幕府の核ですよ。しかしその任命は名目上は天皇の軍事指揮権を全権委任された人です。天皇の権力は南北朝の動乱以後ほぼ完全に失墜したといる状況ではありましたが、それでも今までの将軍はその名目上の天皇を重視していたのですが、紫衣事件は完全に名実共に将軍が上と天下に知らしめた出来事という話です

この回答にコメントする
疑問は解決しましたか?

この質問を見ている人は
こちらの質問も見ています😉