崇徳上皇がまだ天皇だった所からお話しましょう。(あっ、ちなみに上皇とは、天皇の座を退くと上皇という位になります。さらに上皇が出家、仏教の道に進むと法皇となります。)
その頃、長きに渡って政治の実権を握っていた崇徳天皇のおじいさん、白河法皇が亡くなります。1129年のことです。
そして、政治は実権は崇徳天皇の父、鳥羽上皇(とばじょうこう)の手に移り変わります。
1141年。鳥羽上皇は、藤原璋子(ふじわらのしょうし)の子である崇徳天皇に天皇の座を譲らせ、愛してやまない藤原得子(ふじわらのなりこ)の子である体仁親王(後の近衛天皇)に天皇の座を譲るように言い渡します。
これにより、崇徳天皇は上皇となり、天皇の座には近衛天皇が座ることになります。
当時は、院政といって上皇となっても権力を持ち続けることができたのですが、この近衛天皇は崇徳上皇の弟として扱われた為、その院政ができずに事実上、崇徳上皇の権力は衰退していってしまうことになるのです。
その後、近衛天皇は17歳の若さでお亡くなりになりますが、次に天皇の座についたのは、崇徳上皇の子ではなく、弟にあたる後白河天皇でした。
この時に、自分の子が天皇に付くことが出来ていれば、将来の院政も可能であり、権力を再び手に入れることが出来たはずなのに、天皇の座に付いたのは、またしても弟。
崇徳上皇にしたら、はらわたの煮えくりかえる思いだったことでしょう。。
そして、ついに1156年です。鳥羽法皇が亡くなると共に、崇徳上皇が動き出します。保元の乱です。
崇徳上皇は、皇位を取り戻そうと藤原頼長(ふじわらのよりなが)と手を組みます。頼長も天皇側についていた兄の忠通(ただみち)から関白の座を奪い取るには絶好のチャンスです。また、源氏、平氏もそれぞれに分かれて激しく争うことになります。
この時、活躍したのが後に名を轟かせることになる、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)です。(犬猿の仲のような2人ですが、この時はまだ仲間同士でした)
この保元の乱は、夜襲により後白河天皇側の勝利となります。
崇徳上皇は、長年の恨みを晴らすことなく負けてしまったわけです。