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現代文 高校生

要約したのですが回答と違くて困ってます 私の回答は❌でしょうか?また要約する上での気をつけるポイント等教えて欲しいです。

基本 具体/抽象 入試でキーワードをチェック! 科学は具体的な経験の一面を抽象 抽象化された経験は、他の同類 の経験と関係づけられて分類される。 このように抽象化され、分類された経験 は、原則として、一定の条件のもとで繰り返されるはずのものである。従って 科学は、法則の普遍性について語ることができるのである。たとえば一個の 具体的なレモンは、その質量・容積・位置・運動等に還元されることによっ その他の性質、たとえば色や味や産地や値段を捨象されることによって、) 力学の対象となり、またその効用や生産費や小売価格などに還元されること によって、その他の性質、たとえば位置や運動量などを捨象されることによ って、経済学の対象となる。 力学や経済学は具体的なレモンについてではなく、 抽象化された対象について、その対象が従う法則をしらべるのである。 かとうしゅういち II II 読解のポイント 科学 具体的な経験の一面を抽象、 分類 一定の条件のもとで繰り返される 法則の普遍性 要約 力学や経済学といった科学は、具体的 な対象ではなく、抽象化された対象につ いて、その対象が従う普遍的な法則をし らべる。 4曲 出典 加藤周一 『文学とは何か』 [出題] センター追試験(国語Ⅰ・Ⅱ) 18

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現代文 高校生

高2 論理国語 「ホンモノのおカネの作り方」のレポート 二の[三] がわからないので教えてください😭

[三] 傍線部の「これ以上詮索してもしようがあるまい」とあるが、 なぜ アニセガネ そういえるのかを説明している次の一文の空欄にあてはまる言葉と して、最も適切なものを後の選択肢の中から一つずつ選び、記号で 答えなさい。 筆者はホンモノのおカネについて論じるために、 目しているのであり、②だけがホンモノに似ていて機能を持た ない金貨・銀貨の偽造方法について考えることは意味がないから。 見た目 [四〕 傍線部「その意味で」とはどういう意味かを説明している次の一文 の空欄にあてはまる言葉として、最も適切なものを後の語群の中から 一つずつ選び、記号で答えなさい。 の性質に注 本来はホンモノに対する のお金」の意味であるが、「ホンモ ア ノの金銀に見えるように似せて作られる」という意味で、 = ガネといえる、という意味。 次の文章は、『ホンモノのおカネの作り方』(P二八二~P二九〇)の 一部である。 これを読んであとの問いに答えなさい。 だが、あのニセガネ作りたちをaシハイしていたのは、この逆説とは逆 の、ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からで きているからであるという「ホンモノの形而上学」であった。 すなわち彼 らは、ホンモノのおカネをホンモノたらしめているはずの金銀に「似せ」 たものを作ることによって、ホンモノのおカネと同一の価値を得ようと していたのである。 それゆえ、 ニセガネとは、いかにホンモノに似ていて もあくまでもホンモノの金銀に対するニセモノでしかなく、それは決し ホンモノになることはできない。しかも、ひとたびニセガネがハッカ

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現代文 高校生

至急!! 高校三年生の国語なんですけど全く分からないので解答と解説を求めます。 画像1→ 2→ 3の順で見てください よろしくお願いします!

ふじはらたつ 藤原辰史「食を聴く」「孤食」という社会問題 ★次の文章を読んで、後の設問に答えよ。 食文化とは、人間のすべての感覚に訴えてくる総合的文化である。 2 味覚と嗅覚は言うまでもない。 お椀の味噌汁から漂う大豆発酵の香りと、味噌汁を口につけたときに広がる濃厚な味わい。 鼻と舌と いう器官は食の舞台では主役級だ。それ以外に、視覚、触覚、聴覚も深く関わる文化であることも、容易に理解できるだろう。一皿に 載せられた食べものの色彩と配置は絵画にたとえられるし、歯ごたえや舌触りという名詞は世のグルメ本には欠かせない。二日酔いの朝、 口に含んだ味噌汁は、まだ眠っている鼻腔の細胞を挑発し、舌の真ん中あたりの痛覚をも刺激したあと、喉の上方から吸収されてい。 くように、体に浸みわたる。 ③ ただ、聴覚については、ほかの感覚と比べて、これまでほとんど掘り下げられてこなかったように思うので、ここでは食と音につい 考えてみた 食の「音」が意識されるのはどんなときだろう。私にとって真っ先に思い浮かぶ音は、せんべいを砕くあの音である。 私の職場は、定期的に研究会を運営したり参加したりして、その道のエキスパートの話を聴き、知見を蓄え、研究報告書やシンポジ ウムというかたちで社会に還元することを主な職務としている。研究会は平均四時間、場合によっては五時間に及ぶことが多いので、 発表者や参加者がおやつや飲みものを持ってくることがある。 これを休憩時に食べるのが楽しみでもあるのだが、研究発表が三時間以上続くこともたびたびあって、そのときには小腹が減ってく るので、聴きながら食べることもある。研究会中にせんべいを食べる音は、部屋全体に響きわたる(と私は恐れる)。ので、できるだけ そのゆっくりと砕かれるせんべいの音が悪目立ちしてしまう(と私は恐れる)。しまったと口 B 音を立てないように砕くのだが、 それは私の食道と胃袋を傷つけて に含んだせんべいの行き場に自信を失った私は、悩む。このまま飲み込んでしまいたい。 やまないだろう。いっそのこと高速で噛み砕いてしまおうか。噛むべきか、噛まぬべきか悩む私がふと目をあげると、目の前の参加 者が、勇猛にもせんべいを噛み砕いていることに気づく。しかも破砕音があの独特のリズムを刻んで部屋に響いている。なんと勇敢な せんべいの戦士だろう。 D 生来気の弱い私は、勇敢な戦士の放つ音に紛れるように自分の口のせんべいを食べ切ることに成功するのである。私がこの間一言も 20 漏らさぬように真剣に報告を聴いていることは、名誉のために付け加えておきたい。 総じて静かな空間は、食べる行為が音を発する行為であることを思い起こさせてくれる。 箸が茶碗に当たる音。ナイフとフォークが 皿に当たる音。蕎麦をすする音。スープをすする音。キュウリの漬物を噛む音。 レンコンを噛む音。 肉を切り分ける音、骨についた肉 をしゃぶる音。ビールが食道を通る音。 バリボリ、カツカツ、コツコツ、ズズズズズ、 ギコギコ、シャキシャキ、ゴクリ。食卓は本来 さまざまな音に囲まれている。 胎児は、あるときから子宮のなかで音が聴こえるようになるという。産婦人科医の増﨑英明はこう述べている。 「子宮の中ってめちゃ めちゃやかましいんですよ。お母さんの心臓は子宮に接してますから、おそらく、ドッコンドッコンドッコンドッコンってずーっと聞 いてたら、たまらんですよ。 ノイローゼになる」(増崎英明・最相葉月 「胎児のはなし」)。ならば、母親が食べたものが、食道を通って、 胃や腸で揉まれる音も、心臓の鼓動の合間に、羊水の振動を通じてきっと聴いているのではないか、とこの一節を読んで考えた。他者 が食べる音は、生まれたばかりの赤ちゃんが母親の心臓の近くに置かれると泣き止むように、安らぎのようなものを与えるのではないか。 3 たとえ胃腸の音が心臓音で掻き消されているとしても、心臓の鼓動は、胎児の栄養を送る音だ。私は、ともに食べることが、単に複 数で食べること以上の何かをもたらす理由として、母親の胎内にいたときの「耳の体験」があるのだと考えている。 子宮のなかで母親 と一緒に食べていること。つまり、縁食の原型である。心臓の音を聴きながら、へその緒を通じて食べていることは、ともに食べるこ との原初的なかたちではないだろうか。 実際、食べる音は、歯にせよ、舌にせよ、喉にせよ、胃袋にせよ、腸にせよ、人間の体のなかが発する音である。食べる音は、本来、3 自分が動物として生まれてきたことをそっと私たちに再確認させる音だと言える。それはもっと多彩だったはずだ。 皮のついたリンゴを丸ごとかじる音は、切られたリンゴを食べる音よりも硬質で高い響きを持つ。氷を噛み砕く音は、かき氷を食べ 音よりも低音で岩を砕くように口腔内に轟く。一本のキュウリを噛み切る音は、刻まれたキュウリを食べる音よりも折れる感じが出 ていて爽快。焼き鳥の軟骨を噛み切るときの音は、わずかに歯が滑ったあとに、心地よい野蛮さを響かせる。 喉から胃袋にかけてその 通過の感覚が残り続けるのも軟骨のうまさである。トウモロコシをかじるとき、芯から実が外れる音はユニゾンを楽しめるし、とろろ ご飯を食べる音は蕎麦やうどんをすする音と似ていて、スピード感にあふれている。 39話を料理技術にまで広げてみると、食の音はさらにヴァラエティを増す。 心地よい音に思われる度合いが高いのは、まな板の上で野 菜を刻む音だろう。野菜そのものの音に刃が板に当たる音がダブって響いてくる。ダイコンやショウガをおろす音は大地を鳴らす重低 25

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現代文 高校生

解答が無く、正解が分かりません。 問3.4.5の解説と答えが欲しいです(;_:)

RECE E.F 文学とは何か 加藤 文学評論 文は描くものですが、必ずしも目に見えるものを目に見えるように描くものではあり ません。もし目に見えるように描くことが目的であるとすれば、どのような散文も、フロベー 文でさえも、ありふれた映画の一場面に及ばないでしょう。 「感情教育」のポウト がどんなにいきいきとセーヌ河の風景を描いているにしても、その風景は、目に見える ようであって、目に見えるのではありません。ところが映写幕の上には、見えるような風景 5 ではなく、実際に見える風景があらわれる。 映画の魅力はそこにあります。 もし小説の魅力 に⑩ヒッチキすることはできない。客観描 同じ性質のものであるとすれば、小説が映画に は、それが目に見えるものを目に見えるように描くということを意味するかぎり、可能で あるにしても、小説的表現の素材(言葉)にふさわしい方法ではありません。言葉には意味 があります。意味は想像力に訴えます。写真は、目にうつる一切のものを記録します。 記録 1 は感覚に訴えます。 セーヌ河の風景を客観的に再現するという目的は、写真という表現手段 にふさわしく、言葉という表現手段にふさわしくないということができるでしょう。逆に、 セーヌ河の風景をながめる青年フレデリック・モローの感動を再現するという目的は、言葉 にふさわしく、写真にふさわしくない目的です。小説における散文は、まず主人公の感動を その感動のなかに誘いいれながら、その感動を通じて周囲の風景を想像させよ 5 うとするときに、独特の能力を発揮します。 その逆の手順をふむときに、たとえばセーヌ河 の風景の客観的描写からはじめるときに、散文はその無能力を暴露します。これが、小説に 散文を、その描く対象の側から考えてみるときに、当然見いだされる原則です。しか し、もういちど、散文を描くという機能の側から考えてみると、小説における、または文学 における散文の性質とは、どういうものでしょうか。 散文における言葉は、ある対象の符号 20 ですが、具体的な特定対象の符号であるのは、固有名詞だけです 「東京」という町は、世 界中に一つしかない)。しかし普通の言葉は、特定対象の属する群の符号である(「町」は、 東京だけでなく、他にいくらでもあります)。言いかえれば、特定対象を名づけるというこ とは、一般に、その対象を分類することです。 分類のしかたは、たくさんあります。一杯の コーヒーという特定対象をわれわれはコーヒーという言葉でわす「コーヒー」として分 4 類することもできるし、飲物、ヨウエキ、物質等の言葉で表現する(そういうものとし て分類する)こともできます。 どういう分類のしかたを採用するか、すなわちどういう言葉 ぶかは、われわれ自身が、われわれとその対象との関係に応じて、決定する他はないで しょう。言葉による表現とは、われわれと対象との関係を限定することであり、逆に、その ような限定を伴わずに言葉で何ものかを表現することはできません。言葉によって世界を描 くということ、つまり散文をつくるということは、本質的にわれわれと世界との関係を限定 することである。あるいは、われわれにとっての世界を定義することである。日常的会話は、 日常生活の約束と習慣にしたがって世界を定義します。 文学的散文は、日常的定義とは異 なる独特の定義によって世界を成立させるものでなければなりません。 小説文を読むと そのことにほかならないでしょう。フロベールは、そのことを意識せずに、 客観描写という方法論を発明しましたが、 そんなことが完全に実現されることは決してない ので、彼の作品も彼の方法論を裏切っています。 逆説的にいえば、裏切ることそのことによ 文学として成立しています。 それは、そのはずであって、主観をまじえずに、革命の情 景を描写するというようなキョクタンな場合を考えてみれば、明らかにわかることです。 ある人は、パリの人民大が第二帝政を打倒したと書きます。 中を騒がせたと書きます。 「人民大衆」という言葉も「不足の輩」という言葉も、単に客 ます。またある人は不起のが世の 観的な対象を示すのではなく、その人と対象との関係を示すものです。世界を定義せずに、 何事かを言葉で表現するということが、そもそも不可能である。作家の責任ということもそ 白梅図 文化論 →評論・随筆・小説 →詩・和歌・短歌歌 Aではなとうっと 問四 B ( こから出てくるわけで、世界と自分との関係を定義するその定義のしかたの責任を、あらゆ 作家が負っているということになります。 それでも、客観描写ということが成り立つとすれば、それは意味づけのしかたそのものに、 一定の約束があり、個人的主観によってその約束が破られないという場合でしかないでしょ う。たしかに、科学者はそういう約束をもっています。解剖学教科書のジョジュツなどは その意味で客観的であり得ます。しかし小説家にはそういう約束がない。 対象が人生である 場合にそんな約束はあり得ません。「人生襲」というものはない。人それぞれにとって「わ 傍線部~の片仮名を漢字で書け。(5点×5=25点) ) ( 人生観」があるだけです。 「文学とは何か」 角川新書による) 問一 ⑩(目頭 (溶液) ⑥(極端)(敘述 問二 部とあるが、本文中にはこれと同一の内容を端的に表現した言葉がくり返し使 われている。これ以降から抜き出して書け。 (1点) ) 問傍線部とあるが、この内容を説明している部分を本文中より五十二字で抜き出し、 最初と最後の三字を書け。(句読点も一字に含む) (10点) 傍線部 とあるが、 「日常的定義とは異なる独特の定義」とは何か。本文中の筆者の 論旨にしたがって、六十字以内で書け。(句読点も一字に含む) (10点) ・ 問傍線部とあるが、ここでいう「対象」とは、具体的には何を指すか。また、そ の「対象」を描くにあたって、「人民大衆という言葉」を使った場合、「不退の輩と いう言葉」を使った場合、それぞれ書き手と「対象」 とのどのような「関係」がそこに示 されているのか。簡潔に説明せよ。 (1点×3=4点) FO (RACEPT 粉に ) ) )

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現代文 高校生

2枚目P22ページの例えば、から何言ってるのかわかりません。 現代文得意な方詳しく説明願います

がした 可能 いわ * いや生全体に 二〇一七年度 第 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。 与えられた困難を人間の力で解決しようとして営まれるテクノロジーには、問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発 によって解決しようとするというかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる。 科学技術によっ て産み落とされた環境破壊が、 それを取り戻すために、新たな技術を要請するといった事例は、およそ枚挙にいとまないし、感染 防止のためのワクチンに対してウィルスがタイセイを備えるようになり、新たな開発を強いられるといったことは、毎冬のよう に耳にする話である。東日本大震災の直後稼働を停止した浜岡原発に対して、中部電力が海抜二二メートルの防波堤を築くことに よって、「安全審査」を受けようとしているというニュースに接したときも、同じ思いがリフレインするとともに、こうした展開に はたして終わりがあるのだろうかという気がした。 技術開発の展開が無限に続くとは、たしかにいい切れない。 次のステージにな にが起こるのか、当の専門家自身が予測不可能なのだから、先のことは誰にも見えないというべきだろう。けれども科学技術の展 開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある。いったいそれはなんで あり、世界と人間とのどういった関係に由来するのだろうか。 けんいん 医療技術の発展は、たとえば不妊という状態を、技術的克服の課題とみなし、人工受精という技術を開発してきた。その一つ体 外授精の場合、受精卵着床の確率を上げるために、排卵誘発剤を用い複数の卵子を採取し受精させたうえで子宮内に戻す、といっ たことが行なわれてきたが、これによって多胎妊娠の可能性も高くなった。 多胎妊娠は、母胎へのフィジカルな影響や出産後の経 済的なことなど、さまざまな負担を患者に強いるため、現在は子宮内に戻す受精卵の数を制限するようになっている。だが、この 制限によっても多胎の「リスク」は、自然妊娠の二倍と、なお完全にコントロールできたわけではないし、複数の受精卵からの選択、 また選択されなかった「もの」の「処理」などの問題は、依然として残る。 いろう いずれにせよ、こうした問題に関わる是非の判断は、技術そのものによって解決できる次元には属していない。体外授精に比し より身近に起こっている延命措置の問題。 たとえば胃瘻などは、マスコミもとりあげ関心を惹くようになったが、もはや自ら食 事をとれなくなった老人に対して、胃に穴をあけるまでしなくても、鼻からチューブを通して直接栄養を胃に流し込むことは、か なり普通に行なわれている。このような措置が、ほんのその一部でしかない延命に関する技術の進展は、以前なら死んでいたはず の人間の生命をキュウサイし、多数の療養型医療施設を生み出すに到っている。 しかしながら老齢の人間の生命をできるだけ長く引き伸ばすということは、可能性としては現代の医療技術から出てくるが、現 実化すべきかどうかとなると、その判断は別なカテゴリーに属す。「できる」ということが、そのまま「すべき」にならないのは、 核爆弾の技術をもつことが、その使用を是認することにならないのと一般である。 テクネー (TEX(VM) である技術は、ドイツ語 Kunst の語源が示す通り、「できること(können)」の世界に属すものであって、「すべきこと (sollen)」とは区別されねばならない。 テクノロジーは、本質的に「一定の条件が与えられたときに、それに応じた結果が生ずる」という知識の集合体である。すなわ ち、「どうすればできるのか」についての知識、ハウ・トゥーの知識だといってよい。それは、結果として出てくるものが望ましい かどうかに関する知識、それを統御する目的に関する知識ではないし、またそれとは無縁でなければならない。その限りのところ それが単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由もある。 では、テクノロジーは、ニュートラルな道具だと、いえなくもない。ところが、こうして「すべきこと」から離れているところに、 ほうてき テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲するのであり、放擲され た人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われることもなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する。 妊婦の血液検査によって胎児の染色体異常を発見する技術には、そのまま妊娠を続けるべきか、中絶すべきかという判断の是非 を決めることはできないが、その技術と出会い行使した妊婦は、いずれかを選び取らざるをえない。いわゆる「新型出生前診断」 3限目 問題文

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22〜24までの回答を持ってる方見せてください

ださい。 273 54 2 2 アムリタ ステップ3 基礎力を完成させよう 吉本ばなな 読解 「私」の胸に熱い塊をつくったものは何だ 課題 比喩表現から心情理解を深めよう 読標 目 (注) ある日、「私()」は階段から転落してしまう。病院で意識を取り戻した「私」であったが、記憶の一部を 失っていて駆けつけた母のこともよく認識できずにいた。そんな「私」の脳裏にひとつの記憶がよみがえる。 家で、母が泣いているときの記憶だった(うちってどこだろう、どの空の下の、どんな建物なんだろう? と思ったけれど)。涙の記憶、映画の回想シーンにフィルターがかかるように、記憶の湖の透明な水面から 浮かび上がってきた。祖父が死んだとき、たしかそうだった。 人の涙は本当に、あとからあとからあふれ て、ほほをつたって地面に落ちるんだ…と思った。 それから味。名前は思い出せなかったが、妹、という概念とともにあんまりかわいい子が浮かんできた 5 ので、私はそれを自分が捏造した妹かと思ってしまった。でもそれはたしかに真由の姿だった。妹の遺品 を整理しているときの、後ろ姿。 私が独り暮らしをしていたころ、恋愛に失敗して思わず電話で泣いてし まったとき、母がぽろっと言った言葉。「大変、 朔美が泣いてる。」私はあんまり泣かない子だったから。 ああ、こりゃ間違いないわ、お母さんか………傷つけちゃいけないな。 その思いだけが決してオカしては いけない何かとして真のように繰り返し、痛い頭にぼんやり響いていた。彼女は私がまだ麻酔でぼけて10 いると思っている。目の下に限があって、潤んだ瞳は私が無事に目覚めたことから喜びの水分をたたえて いる。......ことがわかった。こういう気の使い方で何とか生きのび、こういう気の使い方で疲れ果ててき たのだろう、と私はそのよく知りもしない「サクミ」という人の人生を思った。しかしそれも今日かぎりな のです 今からはいきあたりばったりにやってもらうほかありません。 と覚悟を決めた。 「お母さん。」と私は言った。 母がゆっくりうなずいた。うれしそうに、心をこめたうなずきかたで。そ15 して花嫁みたいに笑った。私は今、人がこの世で一番はじめに知る世にも暖かい単語を口にしたのに、何 だか結婚詐欺をしているちんぴらのように寒々しかった。頭が痛く、母という概念が濃縮された濃い濃い 汁になって脳みそにしみていくような痛さだった。しかし同時にその発音は、左胸の下あたりにほんのり と熱い塊をつくった。何なんだろう、と思った。 見れば真昼の病室、キョウレツに晴れた空が窓の外に見えた。私の記憶のようにすっからかんで、真っ 20 青だった。記憶はすぐに、あぶりだしみたいに徐々によみがえってきた。ただ、私と私の間の透明なはず ダラスに、まるで 別にいい がったときみたいに水滴がついてしまった。どうしても消えない。 )に線を引き、どのようなことを表現しているかイメージしよう→問五を攻略 ⑤5~4 ②ときの記憶 間 映画の回想シーンにフィルターが・・・ ―映画などの回想の場面で、映 像がセピア色やモノクロで映し出 されることをふまえてのたとえ。 真言 仏教の呪文。 要旨をつかむために! ▼空欄を埋めていこう 文章展開図 母が ・妹→(母の後ろ姿 ・電話→(母の言葉 3. ああ、こりゃ間違いないわ、 か・・・ →傷つけちゃいけないな 「」と私は言った 母 花嫁みたいに笑った 私結婚詐欺をしている ちんびらのよう 痛さ しかし同時に―― ほんのりと熱い塊をつくった 大きくとらえよう 【各1点】 のポ 戻 の涙の 兄 「 【各2点】 要約への第一歩 〇場面 意識を取り戻した「私」に、 んだけど。気にしてないけど。 ガイド 比喩表現(直 JO がよみがえる 問 漢字 傍線部~ ②について、 カタカナは漢字 で、漢字はその読みをひらがなで書け。 【各3点】 問五〇課題 傍線部 ③について、ここで「私」がこのよ うに感じるのは、なぜか。 母の様子をふまえて、 三十字以内でわかりやすく書け。 ○「私」の心情 その発音 を →ほんのり ステップ 20 問二語句 波線部A「捏造」の意味として、最も適切 〇場面 理解を深めよう 要約のための確認【各2点】 なものを、次から選べ。 【4点】 ⑦ とりつくろう 受け入れる →お母さんか 隠している でっちあげる 夢中になる 問六読解 本文において、「私」は、駆けつけてくれ た母にどのような気持ちを抱いたのか。最も適切 なものを、次から選べ。 状況 ぜ 【7点】 と 問三指示 傍線部①とあるが、「私」は、どのようなこ とを思い起こしたのか。二十字以内で書け。【6点】 ⑦ 愛情の深さを実感し、うれしくなっている。 親がそばにいてくれることに安心している。 花嫁みたいなその笑顔に、安堵している。 記憶にかかわらず、愛情が湧いてきている。 泣かせたことを後悔し、 申し訳なく思ってい 思い→「お母さん。」と呼びかけた 〇「私」の心情 あんど e 結婚詐欺のよう しかし、その発音→ 55 ステップ3 小説 問四表現 傍線部について、「私」の気づかいを説明 した、次の一文の空欄を補うのに適切な語句を、 は二字は九字で本文から抜き出して書け。 娘のに涙を浮かべる母親を、 る。 問七表現 二重傍線部XYの表現の効果の説明として、最も適切なものを、次から選べ。 ⑦「私」が、記憶を完全には取り戻すことができていないことを表現している。 痛みとともに、 各3点 ⑦「私」が、事故の前の自分と今の自分に違和感を抱いていることを表現している。 ①「私」が、急によみがえったさまざまな記憶に混乱していることを表現している。 「私」が、見通しの悪いまま病院生活を余儀なくされることを表現している。 M「私」が、記憶はあまり気にしておらず楽観的に考えていることを表現している。 【7点】

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愛知医科大学看護学部の公募推薦の過去問です。 答えがないので、答えを出して欲しいです。お願いします🙇🏻‍♀️🙇🏻‍♀️

国 びまん 令和六年度 看護学部学校推薦型選抜(公募制) 基礎学力試験問題用紙 囲 次の文章は、一九九〇年に出版された山崎正和の『日本文化と個人主義』の一節です。この文 章を読んで、後の問に答えなさい。 文化は、これまで国家や民族という観念と強く結びついてきた。そして、人間の歴史を振返っ てみると、不幸なことに国家や民族の自覚はつねに対立抗争の意識とつながってきた。ひとつ の社会のなかで、個人もまたお互いに争うことがあるが、とりわけ国家や民族は、お互いに争う ことで自分自身をつくりあげてきた。その結果として、文化という特性はただの個人の特性以上 に、とかく他者との比較、対立の観点から考えられがちになる。じっさい、今日の経済マサツ や、つい近年までの世界戦争の現実を振返ってみても、ひとが自国の文化、他国の文化をあげ つらうときには、つねに何らかの意味の優越感や、国家主義的な自己主張の意識が伴っていた。 そして、そういう優越感が、たとえば敗戦といった現実によって崩れたとき、今度は極端な自己 卑下が社会に瀰漫するという事実は、多くの日本人の記憶に新しいことだろう。 こうした事情からして、文化論には、1二つの避けがたい危険な傾向が伴っているといわねば ならない。その第一は、過剰な特殊化の危険である。文化を考える場合には、他民族、他国の文 化と比較して考えがちであるので、どうしても両者の共通性よりは、ひとつの文化の異質性を強 調して考えることになる。 つい昨日まで文化的に じっさい、日本の場合、過去の文化論はしばしば民族主義や国粋主義と手を結びがちであった イクセプショナリズム し、アメリカの場合でも、アメリカ文化の「例外主義」という思想が、長らく見え隠れに受け 継がれてきたようである。ユダヤ人の「選ばれた民」の意識、ドイツ人の民族的な使命感といっ たものは、自国の文化を過度に特殊化し、他国との違いを強調することから生まれてきたが、 ③こうした使命感はいったん裏返ると劣等感に変貌する。 高村光太郎という詩人は、若いころフ ランス留学から帰って、日本の国の貧しさとその精神の狭さを嘆いて、「根つけの国」という自嘲 的な詩を書いたことがあった。しかし、彼が本性において強烈な愛国主義者であり、第二次大戦・ 中には過激な祖国讃美の詩を書いたことは、同時代を生きた日本人なら誰もが知る事実だろう。 とかく異文化との劇的な接触は、精神の単純な人物にとっては、自国の文化について過度な自尊 心を誘い出すか、逆に過剰な劣等感を刺激するものであるようにみえる。 そして、いずれの場合でも、そうした特殊化は、個人が自分の存在や行動について振返るとき、 奇妙に気持ちを安らがせてくれる支えになる。自分とは何か、7自己の実質は何かということは、 もともとたいへん難しい問題であり、簡単には答えが出ないものであるが、ひとは生きるために その答えを欲しがりがちである。そのさい、いちばん安易なやり方は、自分がどういう仲間に属 しているかを実感して、それを語ることで自己の中身を言い表わすことだろう。そして、自分 がどういう仲間に属しているかを振返るとき、その仲間の範囲が狭くて、他の集団と対立してい ればいるほど、自分自身の世界のなかにおける位置は明確になる。ここでもまた、文化論のひず みというものは、人間性の悲しい弱さに深く根ざしているといえそうである。 【

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現代文 高校生

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問題文をよく読むこと。 *句読点、「」は一字として数えます。 【1】 ないでしょうか。 次の文章を読み、後の問いに答えなさい 時間は、物のように世界の中に直接観察できるわけではありません。 それにもかかわらず 「時間はある」と言いたくなるとすれば、それはどのよ うに「ある」のでしょうか。 私たちは、「時間がある」 とか 「時間がない」 という言い方を、日常の中でも用いています。その日常的用法をヒントにしてみましょう。 時間が「ある」とか「ない」とかいう言い方は、何を意味しているでしょうか。 「時間がない」とは、時間がどんどん過ぎ去ってゆき、いろいろな出来事に次々追われているときに出てくる言葉です。だから、時間は「まっ たく存在しない」わけではありません。時間は確かに流れており、しかもめまぐるしいほどの勢いで流れ去っています。 それにもかかわらず、そこ で出てくる言葉が、 「時間がない」 という言葉なのです。 ト 逆に、「時間がある」というのはどういう場合でしょうか。 それは、忙しく物事に追い立てられている状態とは反対に、何かをゆっくりと、じっ くりとやれる時間が目の前にあると感じるときでしょう。つまりそれは、「何を、どのくらいの時間をかけてやるのかを、自分でコントロールでき るとき」であると言えます。この場合、「時間」とはある程度の長さを持った、「余裕」や「X猶予」を意味しています。これ は 「まだ時間はたっぷりとある。」 バスや飛行機など、 乗り物の出発時刻まで、まだ十分に時間はある場合、私たちはそんなふうに言います。その逆 は、「もう時間がない。」と焦っている場合です。「もう時間がない。」と言う場合、自分の意志ではどうにもならない何かに迫られて、否応なく追 い立てられている感じがします。 その違いは、自分が、自分のコントロールのもとで、何かを自由に展開できるような広がりが感じられているかどうか、という点にあるのでは 「時間がある」「時間がない」というのは、自分の生の広がりを自分の意志でコントロールできるかどうかということ、③自分が「生きる」という ことの主体的なあり方に関係していることがわかります。 そこで「時間」は、ある種の「広がり」として意識されています。 「広がり」とは、何かができる「余裕」、言いかえれば何らかの活動が展開でき る「スペース」と言ってもよいでしょう。 しかし、 「スペース」とは英語で「空間」のことです。そうなると、ここでは「時間」がある種の「空間」 として意識されているということになります。にし もう一つ、日常における「時間」との関わり方を考えてみましょう。 「時を忘れる」という言い方があります。 「時が過ぎるのを忘れて、会話に熱中した。」とか、「あまりに面白い小説だったので、時を忘れて読み耽 った。」といった場合です。 つまり私たちは、何かに没頭しているとき、時間が過ぎるのを忘れてしまう、という経験をしばしばするようです。 そのような場合、私たちは「我を忘れる」とも言います。時間を忘れて何かに没頭しているとき、私たちは「私自身」をも忘れてしまいます。 やはり、「時間」と「私」とは深い関わりを持っているようです。事 先ほど、「時間がある」というのは、自分がコントロールできるような広がりが意識されていることだと言いました。この意味での時間、つまり 「空間化された時間」 と、「ある広がりの中で起こりうる様々な出来事を支配しコントロールしうる私」とは、深い関わりを持っています。 「空間化された時間」の中で、私たちはあくせくと立ち働いています。現代において、私たちはますますカレンダー的な時間とそれによって きざまれたスケジュールに支配されるようになっています。 これは時間がますます空間化された仕方でとらえられるようになっているという ことです。時間がますます空間化された仕方でとらえられるということは、自己の支配がますます拡大し、世界を 「私が支配しコントロールするも の」として思い描くようになることを意味しています。 時間に追われる現代社会は、自己のコントロールが無限に拡大する世界であると言えそ うです。 しかし、時間とは空間化された時間に尽きるのでしょうか。⑥「空間化された時間」とは異なる時間もあるのではないでしょうか。次に、そのよ うな時間が経験される可能性を探ってみたいと思います。 す。 すでに述べたように、「空間化された時間」は、自己のコントロールしうる空間でもあります。そうだとすると、「空間化された時間」から外に出 るとき、それは自己のコントロールしうる空間から外に出ることを意味するのではないでしょうか。 例えば、時間を忘れて小説に没頭しているとき、私は、私がすべてを支配するという生き方のモードを脱け出しています。むしろ私は、小説の中 に展開される世界に、自己の支配を委ねています。 その小説が操るがままに、その世界に私自身を委ねているのです。もちろん、私が私であるとい う意識がまったく失われるわけではないですが、私の生のモードは、「自己と自己の行為を私自身がコントロールし、そこで展開される一切を自己 が支配する」というモードではありません。私は、心地よく小説の世界に身を委ねているのです。同じことが、様々な趣味への没頭にあてはまり ます。 またそのようなとき、時間が完全に止まっているように感じられる、というわけでもありません。例えば、会話に没頭して時間を忘れる体験を例 にとりましょう。会話に熱中しているとき、会話はどんどん進み、話題は尽きることがありません。会話が進み、その内容が豊かに展開していると き、当然この「進んでいること」「展開していること」の意識を私たちは持っています。 このような意味での「時間」は、忘れられていません。 一 切は止まっているどころか、極めて生き生きと動いています。この「生き生きと動いていること」も、ある種の「時間」の性格を持っているのでは ないでしょうか。 ⑥このとき、直線的なカレンダーの時間はすっかり忘れられています。 しかし他方で、私たちは眼の前で現に展開される極めて生き生きとした活 動に参加し、その豊かな動きを経験しているのです。 では、生きた時間とはどのような時間でしょうか。 少し考えてみましょう。 生き生きと動いている時間は、カレンダー的な時間の中にはありません。 カレンダー的な時間においては、過去も、現在も、未来も、同じ平面に 並んでいます。これはまさに、空間化された時間です。 カレンダーだけを見ていても、どこが現在なのかは見えてきません。どれも同じような数字が並んでいるだけです。 どの日も現在でありうるし、 過去でも未来でもありえます。 これに対し、生きて動いている時間においては、過去は現在ではないということははっきりしていますし、現在は過去ではないということ もはっきりしています。また、現在は未来ではない、未来は現在ではないということも明白です。過去はもちろん未来ではないし、未来も過 去ではありません。このように、生きて動いている時間においては、過去・現在・未来はまったく異質なのであり、同じ平面上に平等に並べ マルリッ。 六

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現代文 高校生

至急! こちらの回答を教えていただきたいです! よろしくお願いいたします!

スタッフ 16 クサい物に蓋をする。 4 次の線のカタカナを漢字に直せ。 14 にセジョウして外出する。 ( T シッソウした友人を捜す。 15 ダイダな生活を批判される。 彼女は文豪のゾウソンにあたる。 ) 3 草原にソウリョウな風が吹く。 ( 彼は少し自信力ジョウのようだ。 ( 777 アイソ笑いをしてごまかした。 186 イキドオリを発して食を忘る。 4 川をボートでソコウする。 8 5 県大会での入賞をネラう。 6 論文のをハソクする。 7 せ我慢をする必要はない。 不満でクチビルをとがらせる。 ( 9 社長が乾杯のオンドをとった。 ( 10 いよいよネングの納め時だ。 11 作品のコウセツを論じる。 1 株取引で大損害をコウムった。 ) 1 会社のイアン旅行に参加する。 20 自分の選択にコウカイはない。 2 雪のケッショウを観察する。 2 初出場でケッショウに進出する。 ( (23入りを洗って消する。 24 文芸部の部誌を五十部入る。 使い分けよう! ほそく 【補足・捕捉】 補足 補足して説明する (付け加えて補う) 実態は捕捉しがたい・敵を捕捉する(つかまえる) 足す」、「橋」は「捕まえ、捉える」と、それぞれ "使い分けましょう。 ) ) ) ) ( )

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現代文 高校生

この問題がわかりません ヒントはたくさんあるのですが、 教えてほしいです

ウィンステップノート 1~12 への取り組み ノートを見ずに模試 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。(配点 三〇) キー 主語 サイエンスとアート。 相反する点は、いくらでもあげられる。 本文 たとえば、普遍性と偶然性。サイエンスの実験では、条件をそろえれば毎回同じ結果になることが求められる。 データは平均化され、一回きりの出来事は「外れ値」として扱われる。しかしアートでは、偶然性がだいじにされ、 平均値よりも「外れ値」にこそ光があてられるようなことが多い。 ~ たとえば、「わたし」の存在。 サイエンスの論文では、「思う」より「考えられる」という表現が好まれる。だれ が考えてもそう解釈できる無理のない論理だという意味だ。つまりサイエンスは、できる限り「わたし」を排除す る。いっぽうでアートは、むしろわたし」がなければはじまらない。「わたし」がこう思う、「わたし」はこう感 じる。ほかのだれもが気づかなかった「わたし」の「思う」や「感じる」を切り出して表現する。 解釈も鑑賞者に よって異なり、そこに一つの正解があるわけではない。 もはや一八〇度違う部分も多いのだけれど、 サイエンスとアートは対極に位置するわけではない。むしろ、そ 10 の根っこにこそ共通するものがある。 (注)ないとうれい (注) その思いを強くしたきっかけが、芸大に入ったばかりのころ、特別講義でこられた内藤礼さん(現代美術)のお 話だ。 「たとえばいま、木漏れ日からさす光がカーテンにきらきら映し出される感じ。 そんなふだんの生活のなかの一場 面や自然の美しさを、いいなあ、と感じている。ほんとうはそうして自分で感じているだけでいいのだけれど、そ15 の「感じ」をアートのなかに表現したい。別にだれがしなくてもいいのだけれど、やらずにはいられない。わたし は、究極に美しいものをつくりたい」 この言葉が、研究者として自分が目指す姿勢と重なり、サイエンスからアートの分野に足を踏み入れたときの迷 いを吹き飛ばしてくれた。 ふりかえり 5 Keflection 様々

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